4-7 晩夏月/三日月~四日月
行く手に高く聳える連峰が、染まった茜を徐々に薄闇へと塗り替えていく。吹き下ろす風が稲穂をどよめかせて背後へと去っていく。
煽られ乱れた髪もそのままに、ウィリディスは大きく開いた目でアウランティウムを見つめた。
「……バレンスと、行くのですか」
「うん」
バレンスならば。そう思っていた。
元々アウランティウムの守護獣はバレンスだ。それが狒々に奪い取られ、ウィリディスが借り受けて、今に至る。
思っていたはずだ。もしもウィリディスよりも適任がいるのなら、その者に託すのが筋だと。
ウィリディスは半人獣で、央領の者で、ただの用心棒だから。
それがバレンスならば、託すに――返すに、相応しい。
けれど、口から飛び出したのは。
「私は、まだやれます」
アウランティウムが刹那目を見張り、柔らかく首を振る。
「そうじゃない。そうじゃないんだ」
「私は、鈍くなってなんか、いません。確かに戦闘能力はバレンスに遠く及びませんが、それでも、まだ、貴方を守ることはできます」
「ウィリディス」
その口から紡がれた名は、今まで彼が愛称として呼んでいたものではなく。
ただそれだけで、透明な壁一つを築かれたような心地に陥らせた。
「僕はずっと、用心棒の君に救われてきた。何も知らないまま僕の意志に付き合ってくれる君に、ずっと、救われてきたんだ」
だから、もう良いんだ。
そう、アウランティウムは繰り返す。
もう良い。知ってしまってもなお、守護獣でい続けなくて良い。
監視という守護獣本来の役目は、ウィリディスの負うべきものではないのだから。
「僕をただの人間のように大事に守ってくれて、ありがとう」
優しい夢を見せてくれて、ありがとう。
朱の瞳を揺らめかせて繰り返される謝辞に、娘は乾ききった唇を噛みしめる。
聞きたいのは、そのような別れの挨拶などではない。
「アウランティウム、私は」
やっとのことで絞り出したその声は。
「私は、貴方に、死んで欲しくない。――生きていて、欲しいのです」
叶わぬとわかっていながらなおも駄々をこねる、子どものようだった。
「うん」
ふにゃりと笑って受け止めて、少年は胸の上の種を握りしめた。
「でも僕は、この種を芽吹かせなくちゃ」
ありがとう、と重ねたそれが、ウィリディスには別れの言葉に聞こえた。
背後に気配を感じて振り返ったその瞬間。
「許せ」
首筋に月輪熊の重たい手刀が入り、華奢な身体は静かに崩れ落ちた。
意識を失う直前、ずっと視界の片隅にあった橙色の光が、ふつりと消えたのがわかった。
そして次に目覚めたとき、ウィリディスは見知らぬベッドに寝かされていた。跳ね起きて駆け寄った窓の向こうはもうすっかり暮れ果てて、連峰の黒々とした影の向こうに、無数の星が瞬いていた。部屋を飛び出せばそこは小さな民宿で、鳴り響いた呼び鈴の音にうるさげに顔を出した雷鳥の女将は、アウランティウムもバレンスも随分前に出て行ったことを告げた。
部屋に戻り、ベッドに腰掛ける。どれだけ目を凝らしても、ウィリディスの左目はもう橙色の軌跡を映さない。あの時確かに、ウィリディスはバレンスに「敗れた」のだから。そしてアウランティウムはそれを承認した。
ウィリディスは晴れてお役御免。もう、彼の守護獣ではなくなった。
猫の拳が叩き落とされ、ベッドが軋みをあげる。二度、三度。四度目で爪が布団を裂き羽毛が飛び出して、それでようやく部屋は静けさを取り戻した。
「……まぁ、予定通り、ですね」
用心棒として人間保護センターに連れて行くことが最初の目的。守護獣としてアウランティウムの望むように旅をすることが次の目的。彼が狒々の手に渡らないことが第一条件だった。
守護獣は強いに限る。バレンスは強い。二度狒々と対峙した彼なら、もしも三度目があったとしても、遅れは取らないはずだ。であれば、三度目も勝率の低いウィリディスよりもずっと、アウランティウムの守護獣に適している。
全ては元に戻っただけ。ウィリディスも、単なる半人獣の用心棒に戻っただけだ。
「となれば、早く央領に戻った方が波風も立ちませんか。むしろいつまでも東領にいた方が、あらぬ疑いをかけられそうですし」
央領でも、東領大使館の狸たちが「〝神の小鳥〟を攫った」と乗り込んできた。アウランティウムが疑いを解くよう伝えてくれていたが、それがどれほど浸透しているかは、ハクナの件を思い返す限り怪しい。ウィリディスが守護獣を解かれたタイミングで混ぜっ返して報復を狙われる可能性は充分にあった。
となれば、この宿にもあまり長居はできない。まんじりと寝付けぬまま、ベッドの上で外が白むのを待ち、暁の明星が見えたところで飛び出した羽毛を申し訳程度に整えると、再び受付で呼び鈴を鳴らす。支払いをと財布を取り出したウィリディスに、雷鳥の女将は緩く首を振った。
「お前さんは〝神の小鳥〟をここまで守ってきたンだってね。礼を尽くすよう言われたンだよ。だから、御代はいらないよ」
口を何度も開け閉めして、やがて元守護獣の娘は丁寧にお辞儀をした。
「それでは、お言葉に甘えさせていただきます」
連峰を超えれば、〝神の小鳥〟たちが向かったトゥーマ州。手前で左に折れれば、イシャーワ州に着く。カンシュアの港には、早ければ今晩には着けるだろう。
脳裏を、雨上がりの港町が過る。
荷入れの木箱の中に蹲る少年の姿を思い出す。
あれから、二ヶ月が過ぎようとしていた。
「……私は、誇れるようなことをしたのでしょうか」
誰にともなくかけた問いに、返ってくるのは稲穂の囁きばかり。
首を一つ振って、朝日差す連峰へと足を向けた。
ウィリディスは、半人獣である己の容姿については比較的自覚をしている方だった。
『東領の〝神の小鳥〟が央領の猫型の半人獣を守護獣に据えて帰ってきた』
という二ヶ月前の触書は既にその筋の情報網で全領に行き渡っているはずで、故に多少の面割れは覚悟していた。一人になったことで多少嫌がらせが増えるのもやむを得ない、とも。
しかし。
「猫の手の半人獣……そうか、お前さんが〝神の小鳥〟の元に守護獣を取り戻したっていう」
「他領の獣のくせに、しかも半人獣のくせに、やるじゃないか」
「〝神の小鳥〟も本来の守護獣と会えてたいそう嬉しがっているって話じゃないか」
「だいたい俺は怪しいと思ってたんだ。東領一の猛者がそう簡単に傍を離れるわけねぇんだよな。おおかたあの猿公に騙し討ちにでも遭ってどっかに囚われてたんだろう?」
「何、目的は果たしたから央領に帰る? 潔いこった! ほれ、これ持って行け」
寄越された竹筒を半笑いで受け取り頭を下げながら、ウィリディスの頭は疑問符ではち切れそうだった。道中に出会う商獣や同業者たちが、ウィリディスを認めるなり労りの言葉をかけていく。一晩の間に世界の認識がまるごと書き換えられてしまったかのように、歩みの先は常に温かかった。休憩がてら〝神の小鳥〟の様子を聞きたがる者もそれなりにおり、一ヶ月前までの逃避行のような旅路が幻だったのではないかと記憶を疑いたくなるほどだ。
「私は……この領にとって邪魔者だったのではないかと思っていたのですが」
思わず零せば、その場に車座になっていた人獣たちは互いに顔を見合わせた。うち一匹が、顎を撫でながら山頂を仰ぐ。
「そういう風潮は確かにあったがなぁ」
「〝神の小鳥〟と守護獣があっちこっちに言い回りながら旅しているもんだから、真相はそういうもんだったんだと皆納得しちまったんだろうよ」
あの〝神の小鳥〟とあの守護獣じゃ、「なるほど」って思っちまうよなぁ。
うんうんと一様に頷いていた者たちは、唐突に響いた破砕音にギョッとして口を噤んだ。
ウィリディスの手の中で、竹筒が無残に割れている。当獣はしばし手元を眺めた後、眉を八の字にして頭を下げた。
「すみません、せっかくもらったのに」
「か、構わねぇよ。半人獣のくせにとんだ怪力だなお嬢ちゃん。臨時で〝神の小鳥〟を守ってただけのことはある」
「……いや」
私は、と小さく呟く。
「私は、何もしていません。全ては彼の……〝神の小鳥〟の、意志の強さが為したことです」
口の端に漂う色を見破られる前に、ウィリディスは立ち上がってひらりと手を振った。
もう誰にも会いたくなかった。




