4-6 晩夏月/三日月
長らく更新を停滞していて申し訳ありません。
少しずつ、更新していきたいと思います。
駕籠の担ぎ手二匹が抵抗する間もなく地に沈む。
「アウランティウム、手を!」
促されるままに、アウランティウムの滑らかな手がウィリディスの獅子の前肢を握る。ふわりと浮いた身体、追いかけて伸びた毛深い腕が、鷲の片足に踏みつけられて軋んだ音を立てた。軽やかに回転した時にはもう、ウィリディスの片腕は守るべき者を抱えていた。
「ウィリィ」
少年が澄んだ翡翠色の髪に顔を埋めて呟く。
「大丈夫ですか」
橙色の髪に、黄金色の獅子の手が柔らかく乗る。
「うん」
来てくれて、ありがとう。
耳をくすぐる吐息に、ウィリディスの顔が僅かに歪む。捕まっていてください、と囁いて、鷲の足が力強く地を蹴った。唸りをあげ掴みかかってきたクロビディの頭上をくるりと舞い、背後に降り立つなり顕になった背に回し蹴りを叩きこむ。先ほど上空から仕掛けた一撃と寸分違わぬ場所を強かに抉られ、灰狒々の身体が跳ねて駕籠を巻き込み押し潰した。俯せから起き上がろうとした喉が、鉤爪で固定されて唾に鳴った。大地に這いつくばりながら、狒々が吠える。
「何も知らねぇ半端モンが! 偉そうに出張って来んじゃねぇ!」
「知っていれば偉いんですか」
押さえつける鉤爪に力がこもり、僅かに首にくい込む。見下ろす薄黄金の瞳は冴え冴えとし、間近で見るアウランティウムの背筋をほんの少しだけ凍らせた。
「知っていれば何をしても良いと、何を言っても良いと、そんな道理がどこにありますか」
「ウィリィ」
「行く末を守護できずとも、せめてその心ぐらいは守護するのが、守護獣たる務めでしょう!」
アウランティウムの身体が強張る。朱色の瞳が大きく揺れる。眼差しに浮かんだ表情は、ウィリディスからは見えない。代わりに嗤ったのは、足下に這いつくばる狒々だった。
「相変わらずお綺麗な考えだな、えぇ? 大方バレンス辺りから聞いたか」
ウィリディスの応えを待たず、地に頬を擦り付けながらカラカラと嗤う。
「可哀想だとは思わねぇか? 死の間際までそいつは、そいつらは、自分が後生大事に守ってきた種に喰い殺されるなんて思いもしねぇんだぜ? 何のための旅かもわからず、世界再生だなんて息巻いてさァ」
アウランティウムを抱える腕に力が篭もる。けれどウィリディスの細い首に巻き付いていた彼の腕は、今や力を失って、だらりと垂れ下がったままだ。
「最期まで騙し続けるのと早々に真相を語ってやるのと、どっちが親切だ? 優等生モドキ」
だからオレは語ってやったのさ、と、狒々は声を張り上げた。
「人間の犯した罪を! オレらの先祖の苦しみを! 最初から最後までなぁ! でなけりゃ何のための〝贖罪〟だ! 良いかそいつの役割はなぁ!」
ウィリディスが口を封じるよりも先に、それはアウランティウムの耳に刺さった。
「一刻も早く、この領の中心で、この世界のために、死ぬことだ!」
クロビディの身体が突如膨れ上がる。ウィリディスの力を撥ねのけ飛び起き、体勢を崩した彼女の足をひっ捕まえる。剛力に引き寄せられ、抱えたアウランティウムごと地に倒れ込んだ。
「この……!」
「そいつを寄越せ駄猫!」
鋭い狒々の爪が容赦なくウィリディスの顔に迫る。切り裂かんとしたそれは、しかし鈍い音に勢いを乱され鼻先を掠めていった。ウィリディスの目に、今度こそ白目を剥いた灰狒々の姿が映る。どうと倒れたその向こうで。
「猿種にとって俯せは弱点にならない。覚えておくが良い」
振り上げた拳を静かに解きながら、大きな月輪熊が告げた。
駕籠に使われていた紐で狒々たちを幾重にも縛りあげてから、毛深くも太くがっしりとした前肢が、少年の両脇下に入り軽々と抱え上げる。両足を地面につけたアウランティウムは、二、三度瞬きをしてへにゃりと笑った。
「バレンス。本物だ」
「あぁ」
細い両腕がゆっくりと伸びて、月輪熊を抱きしめる。鳩尾の辺りに額を埋めて、あぁ、と少年は息をついた。
「生きていて、良かった」
「心配をかけた」
「たいしたことじゃ、ないさ」
「……そうか」
薄い両肩に、黒い熊の前肢が乗る。その様子を眺めながら身体を起こしたウィリディスは、伸びている狒々と、森を浸す沈黙に舌を巻いた。この月輪熊は、あちこちで群れていたはずの狒々たちを、あらかた倒してしまったらしい。
「……アウランティウム、バレンス。水を差すようで申し訳ありませんが、念のため移動を。
森を出ましょう」
「あぁ」
「うん」
その時ようやく、ウィリディスはアウランティウムと視線が合わないことに気がついた。
いつも真っ直ぐに見つめてくる朱色の瞳が、こちらを見ない。
「アウランティウム?」
「何?」
ずい、と近寄れば、そう変わらない高さにある瞳がゆらりと揺れる。
「……どこか、怪我をしていますか? 抱えていきましょうか」
「ううん、怪我は、大丈夫。行こう」
その身体が、ぐん、と持ち上がった。バレンスが片腕にアウランティウムを抱えあげている。ウィリディスが抱えた時よりも遥かに安定感のあるそれを、思わずまじまじと見上げる。
「急ぐのだろう」
「……えぇ。行きましょう」
バサリと鷲の翼を広げ、ウィリディスは言いようのない靄を胸に踵を返した。
森を出てなお北上し、山脈が随分と近くなってきたところで歩みを休める。アウランティウムの希望を受け、一同はそのまま北へ進路をとることにした。山岳地帯を抜けトゥーマに入り、南東に下って再びクントに入るという。クントの中でも北側の三州はまだ汚染の度合いは少なく、場所に寄ってはカラマク州よりも薄いから、と。
「……アウランティウム」
呼んだものの続く言葉が浮かばず、ウィリディスは押し黙る。
「……『行けるところまで行きましょう。でも、無理をするようなら即引き返します』」
「……はい?」
いつもとは異なる口調に目をあげれば、眉を八の字にして困ったように笑う少年がいた。
「いつものウィリィなら、そう言うはずだ」
「そう、ですが」
その台詞が、その姿勢が、そのどれほど残酷なものであったかを、今のウィリディスは知っている。知っていて、代わる言葉を探している。
〈そんなに死に急いでどうするんですか〉
〈こんな旅なんてやめてしまえばいい〉
〈遥か昔の人間の罪を、今を生きるあなたが背負う必要なんてどこにもない〉
〈贖罪の義務なんて、どこにも〉
〈ただ、種に選ばれたという、それだけで命を散らすなど〉
けれど、どれもこれも、口にしても少年の前を滑って消えていくような気がした。
なぜなら、目の前の彼は全てを知っていて、それでも〝神の小鳥〟を続けてきたのだから。
今更その在り方に憤慨したところで、それはウィリディス個人の感情をぶつけたに過ぎない。
「……ウィリィ」
呼ぶ声は、酷く優しい色をしていた。
「君に、伝えたいことが、あるんだ」
「……見回りに出る」
バレンスがのっそりと立ち上がり、木々の合間に消えていく。
眼前には収穫を間際に控えた稲穂の波が、夕陽を浴びて金色に輝いていた。
さわさわと穂の鳴る音に目を細め、アウランティウムはウィリディスに向き直ると。
「君を、守護獣から解放する」
そう、言った。




