4-5 晩夏月/繊月
例えば、警察や大使館には頼れないと唇を噛んでいたこと。
例えば、大使館の手から逃れるために、種と己の命を賭けたこと。
例えば、ウィリディスだけが味方だと、ウィリディス以外に守護獣は必要ないと、言って憚らないこと。
例えば、再会の約束を交わしたがらないこと。
例えば、使命を果たすというその言葉の裏に、贖罪の情が薄らと透けていたこと。
バレンスに告げる度に、かの少年の悲愴な意志と決意が見えて、ウィリディスは奥歯を噛みしめた。バレンスの表情が徐々に険しいものになっていくことが、余計に追い討ちをかける。
彼の意志を守ることが己の役目だと理解して、ここまでひた走ってきた。
自分は用心棒だ。依頼主の望みを阻むモノを廃することが役目だ。守護獣になろうが、その根幹は変わらない。変わらない、はずだった。
当初の目的は、アウランティウムを人間保護センターに送り届けること。けれど、実際に訪れた今、疑問ばかりが首をもたげる。
告げきって黙したウィリディスの頭に、なるほど、とため息交じりの声が乗った。
「お前が守護獣に選ばれたわけが、ようやく判明した。そうか……あれは、知ったのか」
「……何を」
声音は地を這いながら月輪熊に届く。
「アウランティウムは、何を知ったと言うのですか」
「お前が知れば、鈍る。鈍れば、お前に守護獣たる理由はなくなる」
「そうやって!」
傍らの樹に、猫の拳が叩きつけられた。烈火を宿した黄金の瞳がバレンスに向けられる。
「そうやって皆が口を閉ざす! 兄上も東領の者たちも貴方も! 私に鋭くあれば良いと言う! それがアウランティウムのためなのだと!」
「事実だ」
「根拠は」
唸るような声が問う。
「鈍るという根拠は。理由によっては侮辱と見なします」
怒気を隠さない眼差しを受け止め、バレンスは小さく首を振った。
「お前の根幹が、用心棒だからだ」
「……は?」
「守ることを生業とする者は、本来的に守護獣という役割とは相性が悪い」
何を、と呟く少女の、喉が水分を求めて鳴る。
「矛盾しています。守護獣とは『守護する獣』ではないですか」
言いながら、ウィリディスの脳裏に蘇る言葉があった。
『つまり貴様は、守護獣とは〝神の小鳥〟の旅路を守る純然たる用心棒だ、と思っているわけだ』
ハクナ州の継嗣、ヴァグリオ。同じように「知らなくて良い」と言い放った猪のひそと笑う声が過ぎり、眉をひそめる。
「守ることでないのであれば、守護獣とは何のための存在ですか」
「……お前は、情に堅すぎる」
「返答になっていません」
ぴしゃりとはねつけたその声に闘気がこもる。猫の手が見る間に獅子のそれへと変化していくのを、バレンスは目を細めて見下ろした。
「力ずく、か」
「納得のいく返答を寄こさないのであれば」
「〝神の小鳥〟を急ぎ奪還するのだろう」
「えぇ。貴方に洗いざらい話していただいた後、すぐにでも」
「ここでお前を行動不能にし、己が単身で〝神の小鳥〟を助け出す、という線は考えぬか」
「その線が愚行であるからこそ、ここまでせずに来たのでしょう」
相手は狡猾、よく考えろ。
先ほどのバレンス自身の台詞である。
睨み合いに折れたのは、やはり月輪熊の方だった。
「鈍れば、置いていく」
「臨むところです」
顎を引いた少女を手招き、出たばかりの人間保護センターに向かう。受付に申し出て案内されたのは、窓のない小さな部屋だった。
机を挟んで、椅子に腰掛ける。
深呼吸を一つして、バレンスは口を開いた。
「単刀直入に言えば、〝神の小鳥〟の旅は、贖罪の旅に他ならぬ」
そして、ウィリディスは知った。
アウランティウムが突きつけられた、〝神の小鳥〟と守護獣の、本来の役割を。
晩夏月の夜はいまだ暑い。朔に二粒雫を落としたような月明かりはないに等しく、ウィリディスは夜闇の空を、疾風を生みながら駆けていた。
『そも、三百年前の大厄災は人間同士の争いの末引き起こされたものだ。我々人獣は、巻き込まれた末に生まれたモノに過ぎぬ。数多の小さき命が消えた。数多の尊き命が奪われた。ゆえに、神はあらゆる始末を、人間につけさせることをお決めになられた』
バレンスの声が繰り返し反芻される。
『神に選ばれた五人が贄となり、彼らの生命を糧に原初の五樹が芽吹いた。以後、神に選ばれた人間が、生命と引き換えに浄化の力を持つ樹を芽吹かせてきた。
大厄災の贖いの象徴として、その生命を以て大地を救う。これが〝神の小鳥〟の始まりだ。〝神の小鳥〟は生まれたその時から、種にその命を食い尽くされることを定められている』
ヨークアーマのアウランティウムの、蒼白い面持ちが脳裏に蘇る。
『死出の旅と知り絶望し、自ら命を絶った〝神の小鳥〟は少なくない。故にこのことは、秘中の秘であったのだ。州司の継嗣をはじめ、いずれ守護獣になり得るものだけに伝わる真実だ』
出会った時、箱の中でうずくまっていたアウランティウムの姿を思い出す。
『あらゆる人間は人獣の監視下に入った。あの頭脳と手先の器用さで、二度と過ちを犯せぬよう。それは、相手が〝神の小鳥〟でも変わらぬ』
父と兄と師匠。巫女たち。東領の州司たち。出会ってきた人獣たちの表情が過ぎっていく。
キュルテル。ドゥルキィ。出会った二人の人間の笑顔が浮かんで消える。
『贖罪の放棄を許さず、自死を許さず、己に与えられた責務を果たさせる。守護獣の本分は、〝神の小鳥〟が最期に種を芽吹かせることができるよう、監視することだ』
つまり。噛みしめたウィリディスの唇の端から、わずかに朱が零れ、後方に細く流れていった。
つまり、それは。
アウランティウムの守護獣になるということは。
彼がきちんと死ぬよう、見届けるということではないか。
そして、アウランティウムはそれを知っている。おそらくあの狒々に教えられた。彼が知っていることを、知っているのはウィリディスの父。もしかしたら兄も知っているかもしれない。他にも聡い者は気づくだろう。
ただ、ウィリディスだけが知らず。
ただ、彼の望みを叶えようと、彼を守ろうと。
歩めば歩むほど、駆ければ駆けるほど、彼は死へと近づいているというのに。
「アウランティウム……貴方という人は……!」
東領の者たちは皆、〝神の小鳥〟が種を植えることを待っている。期待している。
東領の者たちは皆、アウランティウムの死を、知らず願い続けている。
「貴方は、ずっと、ずっと……!」
ウィリディスの内側で焔が荒れ狂う。
ともすれば叫び出しそうな己を寸前で律し、鷲の翼で天を翔けることだけに注力する。
眼下に、漆黒の墨を広げたような森が現れる。ウィリディスはその夜闇に沈む森へと、徐々に高度を下げていった。
竹駕籠が吊された棒を担ぐ二頭の狒々の姿が、東から射す日の光を受け、木の間に見え隠れする。すぐ傍らに添う灰色の狒々・クロビディは、小さく舌打ちをして彼らを急かした。
「森ん中じゃ敵影が見えねぇ。さっさと走れ」
守護獣を騙る半人獣が追ってきていることは風の噂で聞いていた。どうやら仲間を連れているらしい、とも。人間保護センターからずっと見晴らしの良い道を選び歩いてきたのは、地上だろうが上空だろうが、影を目視できれば対策の立てようがあると踏んだからだ。けれど、クントを迂回して北へと向かうには、どうしてもこの森だけは通らねばならなかった。
もしも自分が狙うのならば、森の中か、抜けた直後。故にクロビディは人数に物を言わせ、先行する者と後から来る者に二分した。ハクナの教訓から、誰か一頭は必ず伝達役として動けるよう三頭一組にもし、さらに組同士が遠目に見えるよう徹底した配置を命じた。おかげで駕籠周辺は手薄だが、仮に辿り着いたとしても、消耗している半人獣たちを相手に後れを取るようなことはない、と、クロビディは確信している。
いざとなれば。
灰色の狒々は、竹駕籠の中でひたすら黙す〝神の小鳥〟を横目で見る。
いざとなれば、再び囮にでもすれば良い。怯んだ隙に駕籠の担ぎ手と三人で完膚なきまでに叩きのめすまでのこと。〝神の小鳥〟はずいぶんとあの半人獣に執心しているようだから、月輪熊の時よりも容易く、守護獣の返還を承諾するだろう。
後方が騒がしくなったのは、ちょうど森の中程にさしかかった時だった。一頭が転がるように駆けてきた。
「き、来ました!」
「やはりな! 先行した者、後方に散った者を呼び戻せ!」
けれど、伝達役の部下は震え首を振るばかり。
「だ、ダメです。後方、配置崩壊しています」
「……何?」
流石に眉を顰めた狒々の大将は、次の報を聞くなり目を見開いた。
「相手はあの半人獣ではありません。例の月輪熊……バレンスです」
バレンス。
〝神の小鳥〟の顔が上がり、唇が動く。
「駕籠を下ろせ!」
クロビディの怒号に、担い手が泡を食ったように駕籠を地に下ろす。駕籠の中に毛深い手が突っ込まれ、少年の華奢な腕を掴んだ。
「出ろ!」
関節が軋みをあげるほどの力に、青白い面差しが歪む。
後方から徐々にはっきりと聞こえてくる悲鳴は、いずれも仲間の狒々のもの。クロビディの顔に焦燥が浮かぶ。
「早く、出ろ!」
引きずり出されるように、アウランティウムの身体が駕籠の外に晒された、その時。
「はぁぁぁっ!!」
上空から凄まじい闘気が稲妻のように駆け降りて、灰色の背中に突き刺さった。
「がっ……!」
少年の目の前で、クロビディの身体が崩れ落ちる。その側で、ゆらりと立ち上がった姿があった。
翡翠色の髪。獅子の手。鷲の翼に鷲の鉤爪。
薄金色の瞳を燃やす、ウィリディスがそこにいた。




