4-2 盛夏月/下弦~有明
前話で登場した月輪熊の名前が誤っておりました。
正しくは〝バレンス〟です。修正前のものをご覧くださった方、申し訳ありませんでした。
過去に一度出てきた名前。引き続きお楽しみいただければ幸いです。
「は!」
「軽い」
「ふ!」
「遅い」
「なん、の!」
「ほう」
死角と思われた方向からの鉤爪の蹴り上げを見もせずに前肢の平で受け止め、月輪熊は鋭い眼で少女を見下ろした。
「よほど不意討ちが得意と見えるが、相手が常に不意を見せるとは限らぬ。不意討ちを誘う可能性もある」
「……はい」
パシ、と弾かれたその勢いで後退しながら、ウィリディスは汗を拭い神妙に頷いた。最初こそ内心舌を巻いていたが、こう幾度も繰り返されては神妙になるしかない、と悟った、という方が正しい。
バレンス、と名乗った月輪熊の人獣に稽古をつけてもらうようになってから、数日が経った。盛夏月はとうに下旬、ウィリディスがこのクンナシュの料理店に世話になって、一月が過ぎようとしている。幸い避暑地と名高いクナンシュは養生には適しており、テロミニーガの料理とドゥルキィの看護のおかげもあって、ウィリディスの身体は順調に復調していた。とはいえ体力や戦闘能力の衰えは目に見えており、ウィリディスはある日の食事の席で、リハビリの相手をバレンスに頼んだのである。
「バレンス殿は、お強いですよね」
対峙した時の威圧感と身のこなし、普段の所作に滲む戦士の気。半ば食卓に乗り出すように問うた彼女に、月輪熊の戦士は沈黙で応えた。代わりに隣のテロミニーガが当然だ、と口を挟む。
「東領の人獣でも一、二を争う強さだぞ、バレンスは。あんなことにならなきゃ今頃」
「テロミニーガ」
言い募るモモンガの口を名で封じ、首を傾げるウィリディスには視線で詮索を止めさせる。わずかにひりついた空気を、ドゥルキィののんびりとした声が解いた。
「バレンスは凄いよー? 薪割りも荷運びもなーんでもあっという間に済ませちゃう。もう大助かりなんだから、ねー!」
「世話になっている。当然だ」
先日も大きな荷物を隣町まで担いで行ったらしい。そうした運び屋のようなこともしている途中で、ウィリディスを拾ったのだという。
「バレンスも似たようなものだったもんねー」
「似たような?」
キョトン、と目を丸くしたウィリディスに、ドゥルキィは懐かしむように目を細めた。
「近くの川でボロボロの死にかけで倒れていたのを、私とティニーが見つけたの。もー、運ぶの大変だったんだから! 村の大柄な雄の人獣たちにお願いして、荷車持ってきてもらってねー」
以来、ここに居候しているのだという。
「恩義には、報いねば」
短く応えたバレンスの頬には、よく見れば細い傷跡が残っていた。頬だけではない。胸当てを外した胸の三日月模様はわずかに引き攣れて歪んでいるし、腕にも不自然に毛が乱れている箇所がある。
「なぜ、そのような」
「事故だ」
眉を顰めた少女に短く応え、月輪熊は食事を終えて席を立つ。
「バレンス殿」
「手が空けば、付き合うのはやぶさかではない」
「……はい!」
ありがとうございます。頭を下げたウィリディスの上を、妙な沈黙が通っていく。けれどそれ以来、言葉どおり手空きの時間にだが、バレンスは稽古をつけてくれるようになった。それも、予想以上に丁寧に。
差し出された竹筒を受け取りぐいと水を煽ると、ウィリディスはつくづくと目の前に佇む男を見上げた。
自分と違い、汗一つかいていない。ウィリディスにとって稽古といえば、兄の手荒く容赦ないものだったから、一つ一つの挙動を指していく彼の稽古は新鮮だった。例えるなら、兄の稽古と梟の老師の指導それぞれの簡易版を足して二で割ったような。
「バレンスは、何か教える仕事をしていましたか?」
稽古の初日に「周囲に倣って呼んで欲しい」と言われたままに呼べば、月輪熊は短く否定した。
「教鞭を執るほどの学はない。近所の子らに請われて身のこなしの基礎を教えてはいたが」
「ふむ……?」
強面のこの熊が子どもに囲まれている様はなかなか想像に難い。ウィリディスの表情に、彼は珍しく、短く言い添えた。
「子は性根が真っ直ぐゆえ、強くなりたいと思えば素直に請いに来る」
「なるほど」
何となく納得し、竹筒を傍らの石に置くと、ウィリディスは軽く腕を振る。
「では、もう一度、お願いします」
距離を取るため離れていく彼女の背を、月輪熊の目が静かに見送った。
「ウィリディスー、そこ終わったら」
「次はこっちの机、ですね」
店先の掃除と机の出し入れは、動けるようになったウィリディスの仕事になっていた。ドゥルキィは給仕を希望していたが、試して半日も経たずに断念した。
「何事も向き不向きはあるわねー、うん!」
とは、いっそ清々しさすら感じた彼女の言である。
テロミニーガの料理店は、東領の各地から客が訪れる、辺境ながらも有名な店のようだった。州司も訪れるようで、テロミニーガの方も時折州司邸に料理を振る舞いに行くという。そして、州司のところからテロミニーガが引き抜いてきた人間がドゥルキィだったのだと、ウィリディスは最近知った。
「アロプス様の料理獣のところで勉強していたんだけど、ティニーが『俺んとこのが腕を磨ける!』って。実際口は悪いけど腕は確かだからねー、アロプス様も、それならって」
今の彼女は州司と料理長、二人を保護獣としていることになる。実際、食材を切ること以外全てを叩き込まれているドゥルキィの料理は、味も見た目もその辺の料理獣よりもずっと繊細で柔らかい。
「ドゥルキィのご飯もとても美味しいです」
「ウィリディスは何でも美味しそうに食べるからなー」
「な!」
いたずら顔で笑いながら、ドゥルキィが閉店の締めに遮光布を引く。
「私は包丁を持てないから、一からぜーんぶ作るっていうのは無理だけどねー」
「保護法に定められていますからね」
およそ刃物と呼べる物を、人間に持たせることは禁じられている。人間という脆い生き物を傷つける一因になるからだ。一方、人間の持つ繊細さや芸術性を維持するための使用は、制限付きで認められている。ドゥルキィも黒曜石の小さなナイフは許されていて、それを使って皿上に描く食材の芸術はとても美しい。テロミニーガに師事することで、磨かれた才能だという。
「だから、ここに来て良かったのよー」
ふわりと笑ったドゥルキィに束の間言葉を失い、日々欠けていく月を振り仰いで、ウィリディスは彼女の名を呼んだ。振り向いたその顔に、告げる。
「明日、出立しようと思います」
「……そっかー」
眉を下げて笑うと、エプロンで手を拭きながら近づいてくる。
「どこへ?」
「追いかけている人が、いるんです。多分今、隣州のシャンヌにいる」
左目に映る橙色の一筋は、東へ行くと思いきや、真っ直ぐ西を目指していた。シャンヌには東領の人間保護センターがある。
「もしかしたら、保護センターに戻っているのかもしれません。あそこは人間にとって最大の医療機関でもありますから」
「『アウランティウム』さん、ね」
「はい」
「私たちに希望をもたらす〝神の小鳥〟なら、早く見つけてあげないとね」
お世話になりました。深々と頭を下げながら、ウィリディスは唇を噛む。
ドゥルキィはこの一月、結局何も聞いては来なかった。ウィリディスが怪我をした理由も、回復を急ぐ理由も。〝神の小鳥〟にとって、ウィリディスが何なのかも。聞かずに受け入れてくれたことが、ありがたくも心苦しい。
ギシ、と意図的な物音が響いたのはその時だった。裏口から、漆黒の巨体が身体を縮めながら入ってくる。
「バレンス」
「失礼、話を漏れ聞いた」
瞳を瞬くウィリディスを、彼は重々しげな眼差しで見下ろした。
「その旅路への、同行を求む」




