4-1 盛夏月/十三夜
第三章 〝神の小鳥〟と守護獣の真実
蘇るのは、無機質な石と鉄が溢れる中、蒼白の面持ちで覚悟を呟いた、橙色の少年の姿。決然としていながら奥底に諦念と孤独を滲ませた表情は、旅の中でウィリディスが幾度か目にしたものだ。どうして、と、問うことはしなかった。守護獣である前に用心棒である。雇い主が求めていないものを詮索することはしない。ましてや、アウランティウムはウィリディスに決して己の抱えるものを知ってもらいたいなどとは言わなかったし、知られることを忌避するようでもあった。
問えば、良かったのだろうか。
暗闇に目を凝らしながら、ウィリディスは己に問う。
なぜそんな表情をするのかと、なぜそこまで必死になって、クントの中心部を目指すのかと。
人間は保護されるべき存在だ。アウランティウムは人間だ。
ではなぜ、彼は血を吐いたのか。
闇の中に、針の穴ほどの光が灯る。
瞬き一つすれば消えてしまいそうな橙色のそれに向かって、ウィリディスは獅子の手を伸ばした。
「アウランティウム!」
途端に側頭部を何かに強かに打ちつけ、闇ばかりだった視界を様々な色が塗り替えていく。腹や背中を重く鋭い痛みが駆け抜け、ウィリディスは吐き気を堪えながら丸まって呻いた。滲む視界には木造の床といくつかの木製の脚が見え、朧気ながら自分が何かから転がり落ちたのだということは認識できた。
どこかもわからぬ空間の中に、のそりと動く気配がする。床の鳴りは小型動物の重みを告げているが、自分の現状すら把握できていない以上、勝てる見込みは薄い。手近なものに縋ろうと猫の前肢を伸ばしたウィリディスの耳に、天まで抜けるような爽やかな声が触れた。
「ちょっとちょっと、だいじょーぶ?」
視界の隅にひょこりと現れたのは、若い人間の女性の顔。黒々とした髪は三つ編みになって耳の下から下がり、榛色の瞳がくるりと瞬く。差し出された滑らかな手に乗せようとした己の前肢が、途中で力尽きて床の上に落ちた。
「あーもう、だいじょーぶじゃないじゃん。ちょっとごめんねー」
よいしょっと、と片腕を担がれ引き起こされた途端、方々に痛みが走ってウィリディスはぐうと呻いた。
「痛いよねーごめんごめん。ここに座って、そう、はい、頭落として」
言われるがままに倒れ込んだのはベッドらしきものの上。横向きに丸まったウィリディスの額を、冷たいものが拭う。ひくりと強張った身体を労るかのように、頬を伝い首筋も拭い、そっと離れていく。自分の周りの濁りが少しだけ消えた気がして、ウィリディスは小さく息を吐いた。
少なくとも、今の自分を害する類いの者ではないらしい。そう判断すると、水に沈むようにもう一度意識を手放した。
それから数日後、意識の浮上と沈下の繰り返しは、少しずつ浮上が勝るようになってきた。
「ウィリディスー、起き上がれる?」
「は、い」
腕に力を入れ、未だ強く残る背中の痛みに顔をしかめながらゆっくりと身体を起こす。膝の上に乗ったお盆には、冷製の南瓜のスープと梅粥が乗っていた。スプーンに手を通し一口啜り、あとは無言で次々と口に運んでいく。そんな様子を、黒髪の人間の女性は傍らの椅子に座ってニコニコと見守っていた。
ドゥルキィ、と名乗るその女性は、怪我だらけのウィリディスをよく看病してくれた。薬を塗り包帯を変え、汗ばむ身体を拭き髪を洗う。痛みが緩んだ時に尋ねると、ここはユンナシュ州の端にある村で、クントとの境目で倒れていたウィリディスを、同居している人獣が偶然見つけて家まで連れて帰ってきたらしい。大慌てで村医者を呼び、あとは彼女の主人であるテロミニーガの判断で、ずっと面倒を見てくれていたようだった。
盛夏月・十三夜。狒々たちにアウランティウムを連れて行かれてから、十日以上が経っていた。
「ご馳走さまでした」
「ティニーが、今晩から固形物も入れるって」
「それはありがたいです。動物性タンパク質が足りません」
「バカヤロウ!」
客室の扉が開くなり甲高い怒声が飛び、二人の肩を竦ませた。一メートルを少し超えたくらいの背丈のモモンガが、白いコック衣装に身を包んでカツカツとベッド際まで寄ってくる。
「いきなり肉なんざ摂らせるわけがないだろう! まずは野菜、次は魚、順番だ順番!」
「ですが」
「ですがもさすがもない! 早く回復したいんなら専門家の指示には従うんだな!」
ぐうの音も出ず唇を引き結んだウィリディスの背に、ドゥルキィが滑らかな手を優しく置く。
「だいじょーぶよー、ティニーの料理は千傷万病に効くんだから。すぐなーんでも食べられるようになるわ」
手の温もりは、ウィリディスの知っている人間のそれとは全然違う。安定して落ち着いていて、どこまでも柔らかい。ドゥルキィの助手として料理の道を歩んでいるという彼女は、春の日だまりのようにのんびりと穏やかだ。
もしも。思うたび、胸中を焦燥が吹き荒れる。もしもここに彼がいたら、きっと屈託なく笑うことができるだろう。スープ一つが抜群に美味しいこの家だ、少しくらい長く滞在したって構わない。
あの時、負けなければ。奪われなければ。あるいは見られたかもしれない光景だ。
黙したままのウィリディスから、ドゥルキィの手が離れていく。器とスプーンを取り上げると、テロミニーガに目配せをして部屋を出て行った。ベッド際の椅子によじ登ったモモンガが、ウィリディスの顔を覗き込む。
「寝言でずっと名前を呼んでいたと、ドゥルキィが言っていたぞ。その名前は、俺たち東領の宝の名前だ」
丸い瞳がきゅ、と細められる。
「お前、噂の守護獣か。それとも……元、守護獣か」
ウィリディスは閉じた左目に猫の前肢を重ねた。その左目はいまだ、〝神の小鳥〟の行方を示す橙色の一筋を映している。
「私は、守護獣です」
だから、取り戻さねばならない。朱色の瞳の奥に悲愴なまでの覚悟を宿す、一人の少年を。
十六夜の月が心配げに見下ろす中、細身の身体がしなやかに宙を舞う。獅子の両腕が空を裂き、鷲の翼が夜風を紡ぐ。猛禽類の鋭い爪が天へと突き上げられ、ゆっくりと地の上へと戻っていった。ついた呼気は荒く、荒いことに苛立つように息づかいの合間に舌打ちが零れる。湿気を帯びた暑気が汗だくの身体を包み、ウィリディスは顎から滴る汗を忌々しげに前肢の甲で拭いた。
肉の摂取が許可され、運動も良しとされた。しかし身体は重く、一撃は軽い。これでは追ったところで返り討ちに遭うのが目に見えていた。
「まったく、ままならない……!」
己の前肢を睨み、深呼吸を一つ。再び構えたウィリディスは、しかしふとその向きを変えた。
「……誰ですか」
建物の影から夜闇よりも黒い巨体が現れる。恐らく二メートルはくだらない、漆黒の毛並みの人獣。皮の胸当てをつけた姿は明らかに戦士の類だとわかる。毛深い両肢に備わった爪は太く鋭く、捕らえられ振り抜かれたら、ウィリディスなど簡単に裂かれてしまうだろう。ましてや弱体化している今、到底勝てる相手ではない。
けれど、もしもこの家に危害を加える者であれば――何としても、止めねばならない。
風が束の間湿気を払い、月光が巨体の全身を照らす。
「もう動けるか」
濃金の瞳がじろりと半人獣を見下ろす。明らかにウィリディスを知っているその物言いに、彼女は目を瞬いた。
「あまり飛ばすと、テロミニーガが怒る。ほどほどにするが良い」
それだけを告げてくるりと向きを変えた巨体に、ウィリディスは慎重に声を掛けた。
「もしや、私を助けてくれた『同居している人獣』ですか」
「たまたま通りかかっただけに過ぎぬ」
言葉を肯定と受け取った時には、もう構えを解いていた。回り込み、深々と頭を下げる。
「ウィリディスと申します。ありがとうございました」
月光が滑る翡翠色の髪を見下ろして束の間口を噤み、人獣は短く応じた。
「礼は不要」
邪魔をした、と横をすり抜けていく男の背中に、ウィリディスはなおも声を掛けた。
「私はもう少し、こちらにお世話になるかと思います。お名前を伺っても?」
妙な沈黙が、彼女の鼻先を掠めていった。ゆっくりと半身になった男の胸当ての隙間から、三日月のような模様がのぞく。大きな月輪熊の人獣は、やはり短く、名乗った。
「バレンス」




