3-8 初夏月/有明~晦
カラマク州の東南には、半島が毒色の海へとせり出している。様子を見ようと立ち寄ったアウランティウムの足取りは重く、ウィリディスも足の裏の痛みに顔をしかめた。
地面はかつて一面を覆っていたらしき石の残骸に埋め尽くされ、時折ぽっかり大きな穴が空いている。穴の底には管のようなものが見えるが、いずれも腐りきっていて何に使われていたのかはわからない。柔らかな土の感触も、あたたかな板の感触も存在しない。霊峰・フーシアの岩場は生命を感じさせたけれど、この大地はただただ、無機質だ。加えて、まもなく盛夏月に入ることもあり、日差しが容赦なく照りつけてくる。石の残骸はその熱を逃がす術を知らず、地面からの熱気がまた体力を奪う要因にもなっていた。
「アウランティウム、休みましょう」
振り向いた少年の表情は疲労が濃く、おそらく熱も上がっている。その顔に躊躇いが乗った。
「でも」
「歩き慣れないのです。水分補給と、足のマッサージを。私も休みます」
言うなり、ウィリディスは地面の石と似た素材でできているらしい建物の残骸の影に入った。埃まみれの床を払い、少年を招く。大人しく寄ってきた少年は隣に座るなり、壁に後頭部をつけて深いため息を吐いた。
「……きつい」
ぽろりと呟いた彼の手に水の入った筒を握らせてやりながら、ウィリディスは頷いた。
「ここはもう、半分ヨークアーマのようなものですから」
海面に白い砂浜はなく、代わりにいくつもの尖った鉄らしき塊が覗いていた。錆びつき風化したそれはかつての“災厄”の名残で、アウランティウムの見立てでは「船の尖端」とのことだが、ウィリディスの知っている船からは到底想像がつかない。半島の海岸からはヨークアーマの中心部と見られる地を臨むこともできたが、今自分たちが休んでいるような鉄とも何ともつかない素材の建物の残骸ばかりが見え、生命の芽吹く余地があるとは思えない。巨大な円形の鉄の輪が、ひしゃげて建物にもたれかかっていたけれど、何に使われていたのか、二人で頭を捻ったけれど答えは出てこなかった。
ウィリディスが水をかけた布を渡すと、アウランティウムはそれを器用に絞って額に乗せた。
「……冷たい」
猫の手の平を頬にあてると、今朝よりまた少し熱くなっている。種の光もふらつくように揺れ、護衛としては気が気でないが、彼はまだ大丈夫だと首を横には振らなかった。ウィリディス自身は単純な体力疲労だけなので、余計に彼の異変が際立って見えてくる。
「せっかくです、少し寝ましょう。この時間帯の気温は身体に障ります。夕方を過ぎ少しだけ熱さが和らいだら行動を再開しましょう」
カラマク州に入る直前に手に入れた大型鞄の中から、カラマク州司にもらった布を引っ張り出し広げる。少年をその上に転がすと、余った分を爪でひっかけ、身体にしっかりとかけた。あれよあれよと寝る体勢を整えさせられた彼は朱色の瞳を瞬かせると、仕方ない、という具合で笑った。
「じゃぁ、少しだけ」
「はい、おやすみなさい」
ぽんぽんと猫の手で膨らみを叩くと、朱色の瞳が瞼の裏に消えていく。ややあって聞こえてきた規則正しい寝息に、ウィリディスはそっと嘆息した。
暁と黄昏を行動の基盤とし、昼間と夜中は休息をする。そうして巨大な円形の鉄の輪の麓に辿り着いたのは、二日後の黄昏時のこと。ウィリディスは少年を背負ったまま、改めてまじまじと周囲を眺めた。あちらこちらに、鉄製とおぼしき丸い枠が横たわっている。地にめり込んで立っているものもあったので中に入ってみれば、アウランティウムとウィリディスが並んで座れそうな鉄の板が両脇に渡してあった。アウランティウムをそっと片方の板の上に座らせると、ぼんやりと朱色の瞳が瞬いた。
「きゅう、けい?」
「はい。先日見た不思議な輪っかの足元についたので。体調はどうですか」
「だ、るい」
まいった、と笑う頬を、ウィリディスの猫の手が両側から挟む。
「クントを、出ましょう」
薄黄金の猫の瞳が、少年を映して苛立たしげに細められた。
「今の貴方の身体で、中心部まで行くのは無理です。もう、支えなしでは歩けないのに」
「でも、まだ」
まだ、いけます。そう呟いた彼の顔は、赤みを通り越してもはや青白い。種の光にも覇気がなく、今にも消えてしまいそうだ。この灯火を失ってはならない。流石のウィリディスにもわかることだ。
ならば、とウィリディスは険しい表情で彼の瞳を覗き込んだ。
「私への防護を、切ってください」
「いやだ」
即答だった。
「アウランティウム」
「今ここで切ったら、ウィリディスは、動けなくなる。そうしたら、ぼくら二人とも、おしまいだ」
ゆっくりと言葉を切りながら、しかしきっぱりと言い切る。彼の守護獣は口を開いたり閉じたりを数回繰り返して、そっと彼の頬を解放した。もう一枚渡してあった板に腰掛け、少年に向き合う。
「守護獣への防護とは、そのためですか」
声音に抑えきれない怒りが滲んだ。
「“神の小鳥”が動けなくなった時、速やかにその場から離脱できるための──あるいは、その状態の“神の小鳥”を背負ってでも、彼の意志を遂行させるための」
「そうかも、しれない」
「冗談ではありません」
猫の拳が錆だらけの枠を殴った。グァン、と鈍い音が刹那空気を揺らす。
「そこまでして、そこまでして、種を植えるべき場所ですか、ここは!」
生命の芽吹く気配のない土地。空気の澱んだ、鉄と錆と腐臭と無機質な石で埋め尽くされた土地。ただ水平線の果てまで草木の枯れ果てた大地が横たわっているだけならば、まだわかる。けれどこれは、この“災厄”の跡地は、それとは大きく性質の異なるものだ。
半人獣のウィリディスでも本能的にわかっていた。仮に“樹”が育ったとして、この地に、獣は来ない。
では、クントに種を植えて、どうするというのだろう。
「……それでも」
返ってきたのは、消え失せそうな声だった。
「それでも、“神の小鳥”は、その使命を、果たさなくちゃ、いけないんだ」
まるで罪の在処を告白するような声音に、ウィリディスが目を見張った、その時。
ふらり、と、アウランティウムの身体が揺れた。かふ、と小さく落とした呼気に、霧のような朱が混ざる。
「アウランティウム!!」
ゆっくりとウィリディスへと倒れ込んだ身体を受け止め顎を持ち上げれば、力なく開いた唇の端から、鮮やかな紅が一筋つ、と零れて、黄金の毛並みに染みをつくった。
「――!!」
獅子の両腕が彼を抱え上げる。鷲の翼が黄昏の赤黒い空に大きく羽ばたく。ギャリ、と鈍い音を立てて無機質な大地を蹴り、ウィリディスは疾風の如く西へと飛翔した。
北西へと夜闇をひたすら翔け、暁の光を背に感じる頃、ウィリディスの鼻先をようやく生命の香が掠めていった。腕の中の温もりはいまだ意識が戻らないが、種の光の方が少し穏やかさを取り戻しつつある。
もう少し。気が逸る。翼も身体も鉛のようだが、もう少しで“樹”のあるユンナシュ州に入る。生命の息吹はもう目前まで迫っている。朝日を全身に浴びる若木の姿をとらえた薄黄金の瞳が燃えるように輝く。翡翠色の髪を乱しながらその根元へと転がり込んだ、その時。突如横から鋭い衝撃をくらい、ウィリディスの身体は鞠のように弾け飛んで転がった。少年の身体が力なく宙へと投げ出される。
「っ、ア、ウラ」
「っと、危ねぇ」
獅子の手を伸ばしたその先で、“神の小鳥”が灰色の両腕に抱き留められる。地に這いつくばったウィリディスの上に影が差す。見上げた顔を歪ませて、守護獣の少女は低く唸った。
「狒々……!」
「流石に隙が出たな、泥棒猫」
周囲から集まってくる複数の気配を察し、気付かなかった己に歯がみをする。腕に力を入れた途端、腹を蹴り上げられた。倒れ伏した翼を複数の手が掴む。捻りあげるような力の入り方に、咄嗟に転身を解き身を捩る。倒れかけてたたらを踏んだ複数の狒々には構わず、人の形に戻った後肢に力を込めて地を蹴り手を伸ばす。
「アウランティウム!」
「見苦しい」
易々と避けられ、伸ばした腕を別の誰かに掴まれる。肩甲骨の狭間を強かに殴られて、華奢な身体が三度地に沈んだ。乗りかかられそうになったのを、もう片方の前肢を振るって防ぐ。鳩尾に蹴りが入り、今度は己の唇から血が滴り落ちた。
「はな、せ」
ぼやけた視界の先で、橙色の光がゆるやかに輝くのが見える。
「その子を、離せ……!」
鷲と化した後肢の鉤爪が、獅子と化した前肢の爪が、押さえ込む者たちの皮膚を裂く。翼を激しく羽ばたかせて手を弾くと、グリフォニアの半人獣は灰色の狒々へと牙を剥き躍りかかった。
「いけねぇな」
けれど、目の前に差し出されたのは、己がこれまで抱えてきた少年。
「ほら、人間だぜ。傷を、つけるか?」
「――!!」
見開いた瞳に、アウランティウムの白い喉元が映り込む。寸前でガリ、と己の口を噛んだウィリディスの耳を、狒々の高らかな嘲笑がつんざいた。
「それじゃ、こいつは返してもらうぞ」
後頭部をガツンと重い衝撃が貫く。力を失ったウィリディスの身体が狒々の足元にどさりと落ちる。半人獣の姿に戻った彼女をクントの方へと蹴り戻すと、灰色の狒々は仲間を連れ、北の山中へと消えていった。




