3-7 初夏月/下弦②
カラマク州はハクナ州に“樹”が植えられた後に成立した、東領の中でも新しい州である。その初代州司である大烏・コロヴォナは、畳の上、座卓を挟み開口一番短く鳴いた。
「カラマクに“樹”はいらぬ」
アウランティウムの口がポカッと開いた。隣に座るウィリディスも同様、己の耳がおかしくなったかと軽く頭を振る。それでも改めて見た大烏の州司の表情は変わらず、互いの顔を見合わせた後、アウランティウムはおずおずと片手を挙げた。
「理由を、聞いても?」
「今はまだ、必要がないからじゃ」
「必要が、ない……?」
州に“樹”が植えられれば大地は蘇り、海は澄み、植物は息吹き、獣は戻る。当然、人獣にとっても住みやすくなる。カラマクはクントの南西端にあり、次の“樹”の候補地の一つに挙げられてもいる。北のユンナシュから危険な山越えをせずにハクナに入ることもできるようになるが、何より外海の浄化の一助になることが大きい。海と山に囲まれたこの土地は、定住できるようになれば、間違いなく繁栄するはずだ。
「交通的にも、カラマクが栄えるのは東領の利になると思うんですけど」
「わかっとるわそのくらい」
嘴を鳴らすと、州司は真っ黒な瞳を細めた。
「この地に鳥類の人獣が多い理由がわかるか」
「え、と」
戸惑うような眼差しを向けられ、隣の守護獣は顎に爪をやる。いくつか、思い浮かばないでもない。しかし、コロヴォナの視線は少年に据えられたままだ。故に、ウィリディスはゆるりと首を振った。
「これは、私が答えて良い問いではないかと」
「ふん、弁えよる」
ケ、と吐き捨てた老烏を前に、アウランティウムは両腕を組む。そして、しばしの沈黙の後に小さく呟いた。
「飛べるから。飛んでどこにでも行ける。カラマクに定住することを、重視していないから……ですか」
大烏の左翼がひらりと振られた。
「及第点でもやっとくか。州司なんてものをやっとるがな、この地に今必要なのは繁栄じゃのうて、秩序じゃ。定住せん者にはこの地の秩序が身につかん。好き放題やってふっと去って行く。そんな地がいきなり繁栄なんぞしてどうなると思う。混沌極まるに決まっておろう」
故にいらぬ、と初代はきっぱり言い切った。
「“神の小鳥”よ、もし種を植えるのならばヨークアーマにせい。東西両側に植わってくれれば、カラマクも多少は環境が良くなる。さすれば秩序も立つじゃろう。“樹”は、次の神の小鳥にでも願えば良かろうて」
隣地・ヨークアーマは地名こそ残れど、生物はほぼ存在しない。クントの中心部に行くにはこの地を通るのが最適とされているが、それこそ歴代の神の小鳥がここを超えたという記録はない。東領にとっても押さえておきたい要地で、言うまでもなくアウランティウムとウィリディスが次に目指す地でもある、のだが。
「……良いんですね」
「良い。ほれ、長居は無用じゃ、疾く行け」
両翼を広げた州司に追い立てられるように玄関先まで見送られ、どこか奥歯に物が詰まったような思いで、それでは、と頭を下げる。踵を返したその時、先ほど登ってきた階段の向こうから真っ黒な頭が覗いた。
「ったく、あのババア、急にハクナまで行けとかなんなんだっての」
ガラガラとした声で愚痴りながら、若い烏が姿を現す。背後から聞こえた「しまった」という声に振り返りかけた、その時。アウランティウムとその若烏の目が、ばっちりと合ってしまった。
「んだぁ、てめぇ、ら……」
胡乱げな眼差しが、少年の首から下がった種の光を受けて驚愕に変わり、そして、喜色へと移っていく。
「は、はは! はははははは!」
笑い出すその目に宿るのは、最早狂喜に近いもの。
「来たか! 来たか“神の小鳥”!」
「そして去るのじゃ。さっさとどけ」
その姿を遮るように、州司が立ち塞がる。ウィリディスが一歩アウランティウムの前に出た。半身になり、猫の手を軽く握る。
「州司、あの方は」
「不肖の孫じゃ」
「去る、だぁ?」
孫、と呼ばれたその烏は片眉を撥ね上げた。
「おいババア、去るってのはどういうことだ、あぁ?」
「言葉どおりじゃ。今のカラマクに“樹”は不要。別の場所に植えていただくよう進言済みよ」
「はっぁぁぁぁぁ!?」
荒れた漆黒の羽根がバサリと舞う。わしわしと己の頭を掻きむしると、その男は足取りも荒く州司に詰め寄った。
「ざっけんなよクソババア! おい、撤回だ撤回! 今“樹”を植えりゃ俺もあんたも安泰だろうが!」
胸ぐらを掴む勢いで迫るが、州司の顔色は変わらない。盛大に舌打ちをすると、彼は今度はアウランティウムに目を向けた。
「なぁ、もう少し居てくれよ。ざっと二月くれぇさぁ。もてなすぜ、背中乗っけてあっちこっち連れてってやる。クントの中心部だって空の上からちらっと眺めりゃ終いで良いだろ。面白ぇもんなんて何もねぇんだからよぉ」
ぐいぐいと迫る分だけ、少年は顔を引き攣らせて足を引く。間に入ろうとした州司が翼に押しのけられ舌打ちをした。勢い止まず少年の鼻先につきかけた嘴を、横から鋭い爪が叩き落とした。
「ってぇ!」
「失礼、目に余りましたので」
ぱんぱんと両前肢を払って、ウィリディスは薄黄金の瞳を細めた。
「我々は既に州司と話をつけております。これ以上の長居は無用。――アウランティウム、行きましょう、っと!」
「ウィリィ!」
咄嗟に身を捩ったウィリディスの頬を、鉤爪が薄く裂く。蹴り上げた片脚をそのままに、男は傍らに唾を吐いた。
「てめぇか、噂の泥棒猫ってのは」
「さて、覚えがありませんね」
頬をぐいと甲で拭い飄々と応えながら、今度はアウランティウムを背にして立つ。
「昔から、猫と烏は相性が悪いと言われていますが、さて、どうでしょうかね」
「言いやがる!」
漆黒の翼が大きく広がる。あっという間に上空へ駆け上がると、州司の孫はカァと高く鳴いた。次の瞬間、矢の如くウィリディスのもとへと突っ込んでくる。
「家の中へ!」
ぐいと背後の少年を押し込むと、自身は前へと転がって避ける。
「ふ!」
「当たるかよ!」
振り向きざまの前肢の一閃はいとも容易くかわされ、烏は再び上空へ。
「烏ってのは光り物が好きでなぁ。猫の目とか、見ると抉りたくなるんだわ」
「確か、頭の足りない分を派手さで補おうとするんでしたっけ」
「てっめぇ……!」
繰り出される鋭い鉤爪をかいくぐり、嘴を爪で弾く。上昇からの降下、攻撃を繰り返す烏に、ウィリディスは半眼になって呟いた。
「ワンパターン過ぎて飽きるんですけど」
「はぁぁ!?」
ピシピシと男のこめかみにひびが入る。背後で州司が少年にこそりと呟いた。
「あの半人獣は煽らずにはおれんのか?」
「いやぁ、いつもはもう少し……もう、少し……」
いかにも自信なさげなアウランティウムの返答である。やれやれと首を振ると、ウィリディスはひょいと身を屈めた。スクリューのように上空から嘴を突っ込んでくる烏の目の前に、鷲の翼が広がる。目を奪われた刹那、首を鋭い何かが両側からガシリと掴んだ。勢いを殺せず地に衝突する、その寸前でぐるりと身体が回る。腹が地を擦り、灰色の空が視界を埋めたと思えば、再び地を見る。加速の速さそのままに、若烏の身体は大地へと叩きつけられた。
「がっ……!」
嘴の端から血泡が飛ぶ。視界の端に己より鋭い鉤爪を認めながら、烏はくたりと意識を失った。地球投げを軽々やってのけたウィリディスは傍らにひょいと降り立つと、獅子の片手でその巨体を引きずり、州司の前に放り出す。
「どうします?」
「……部屋にでも投げ入れておくかの。一日は目覚めまい」
すまなかったの。そう詫びた老烏に、アウランティウムは静かに問うた。
「本当の理由は、彼ですか」
「……あぁ」
“神の小鳥”を囲い込み、彼の目的を蔑ろにしようとするような人獣である。己の老い先が短い今“樹”を植えてしまえば、次代州司のこの孫は、さぞかし嘴を高くするだろう。“樹”の恩恵に耽るばかりのその先に待つのは、秩序だった統治ではなく、勢いに呑まれた混沌。繁栄は形骸化し、いずれはより力ある者に追いやられるか、獣たちに土地を譲り渡すことになる。
「どれほどに必要であっても、迎え入れる器がひび割れておれば、その先に良き未来はない。そうじゃろう?」
「……はい」
瞑目した少年の手が、小さな鳥籠の種を強く握る。守護獣の少女はその表情を黙したまま眺めていた。
***
初夏月/下弦
カラマクに入ってから、少し身体がふわふわする。種の力だとわかっているけれど、微熱を出した時のようで、不思議な気分だ。ウィリディスは普段どおりだと言っていたから、つくづく、種と僕とは繋がっているのだなぁと思う。
カラマクの州司のおばあちゃんは、よくわかっている人だった。でも、お孫さんのような人獣は、世の中に多い。アイツだって、そうだ。だから僕は逃げ出したし、どこに種を植えるのかを種と一緒によく考えなくちゃいけない。
どれほど必要でも、これは、僕の全てを使う旅だから。僕が納得する結末を、選ぶ権利が僕にはある。
烏は群れる生き物ですから、と、ウィリディスに促されて急いで出立した。確かに、少ししたら仲間らしき大きな烏が数羽空を飛んでいったけれど、おばあちゃんは大丈夫だろうか。
引き返すことができないのが、残念だ。
追伸。ウィリディスに「煽るのはほどほどにね」と言ったら、「あれはわざとです。激高すると視野が狭まりますから」と返ってきた。
……わざと?




