3-6 初夏月/廿二日月~下弦
長らくお休みをいただきました。本日より再開いたします。
よろしくお願いいたします。
夜風が木々を揺らす。細い道の中央、薄汚れた布の下で、少年が息を殺して身体を縮める。眼下にそれを認めながら、木の上のウィリディスは神経を尖らせ耳を澄ました。山を貫く狼の遠吠えに、アウランティウムがヒクリと肩を揺らす。そっと上げた顔に、ウィリディスは宥めるように獅子の手を振った。声の位置はまだ少し遠い。
どうか。“神の小鳥”とその守護獣は、遣わしたという神とやらに祈った。
どうか彼らの不意をつくことが、できますように。
ハクナ州司の家から脱獄のように逃げ出した二人は、夜の山越えに挑んでいた。出立の時点ですでに夜は更けており、冴え冴えとした月光を頼りに人獣用の細道を行く。ハクナの山越えにはいくつかルートがあり、ウィリディスはその中でも最も険しいものを選んだ。
『明朝正式な守護獣が警察を率いて向かう』
ハクナ州司に宛てた文に書かれたその一文。シュゾーク側から来るのなら良いが、山の向こう、カラマク州から来るとすれば、道中で鉢合わせる可能性がある。警察は狼の人獣が大半を占め、彼らの嗅覚は、風向きによっては別ルートの臭いでもかぎ当てかねない。場合によっては全道封鎖もあり得ると危機感を強めた守護獣に、アウランティウムは静かに首を振った。
「自分が優位と知ると警戒心を緩めるのがアイツだ。仮に全道封鎖していたとしても、穴はある。ウィリディスともう一度戦ったら勝てると思っているうちは、大丈夫だと思う」
今頃自分たちは州司邸に捕らわれている、と思っているうちは、大人数でも動ける王道のルートを辿ってくるはずだ。そう結論づけ、裏道を行くことにしたのだ。
山頂に近づくにつれ、硫黄の臭いが強くなる。木々の間から見えた抉られたような山肌からは、月に登らんと細く白い煙が立ち上っていた。強烈なその臭いは今の二人には都合良く、山頂に着くなり少年は束の間の仮眠を取った。木の上に飛び上がったウィリディスが、尾根沿いに点滅する小さな光を見つけたのは月が随分と西に傾いた頃。湖へと少しずつ動いていく光が辿るのは読み通り王道のルートで、この裏道とすぐに繋がることはない。間は獣の領域で通り抜けは不可能だから、鉢合わせの危険は回避できたと言える。ウィリディスがそっと胸をなで下ろしたその時、二度の狼の遠吠えが緩んだ空気をつんざいたのだ。一つは彼らのルートの方、そして返答と思われるもう一つは、まだ遠いがこの道の先。ウィリディスの背がぞわりと粟立つ。見下ろせば、アウランティウムも今ので目が覚めたようで、きょろきょろと辺りを見回し、頭上の彼女を見つけて目元をわずかに和ませた。極力音を立てないように跳び降りると、ウィリディスは彼に小さく問うた。
「狼の口を、塞げますか」
アウランティウムの脳裏を、鋭い牙と真っ赤な口が過ぎる。強く目を瞑って深々と息を吐くと、真っ直ぐな朱の瞳を彼女へと向けた。
「やります」
「こんな石ころだらけの道、警戒するような理由があんのかよ」
「万が一ってヤツだろ。あの狒々の坊ちゃんは心配性だからなぁ」
「さっきから硫黄臭くってなんねぇ。さっさと抜けてあっちに合流しようぜ」
「言われるまでも……ん?」
会話が止まる。狼の人獣二体の目の前に、大きな布の塊がある。その布の端からのぞく手は、毛深さとも鋭さとも無縁の、柔らかで脆い人間の手だ。
「待て待て、まさか、嘘だろ!?」
「確認する! 俺は本隊に」
駆け寄った一体の爪が布にかかり、もう一体の胸が膨らんだ、その瞬間。ウィリディスは音もなく背後に降り立つと、その横っ面に獅子の拳を叩き込んだ。呻き声と共によろめいた身体に詰め寄り、鳩尾にもう一発めり込ませる。腕を引きながら、崩れたその後ろ頭を目がけて踵を落とすと、背後から激しい唸り声が駆けてきた。振り向けば、アウランティウムが己の被っていた布を狼の口に挟み、背後から懸命に縛り上げている。人間相手、己は警察とあって、抵抗する狼も精彩を欠いているようだった。
「良い判断です」
「は、はやく!」
「無論。手を離さないでくださいね!」
狼が振り上げた鋭い爪をかいくぐり、懐に入るなり低い位置から鋭く顎を蹴り上げる。低い呻き声と共に狼の身体から力が抜ける。引っ張られた少年が一緒に転がりかけ、守護獣の腕に抱き留められた。
「さすがウィリィ」
「貴方の機転と助力のおかげです。さて」
気を失った人獣二体に布を裂いた轡を噛ませ、彼ら自身が持っていた縄で手際よく手足と胴体を縛る。
「初夏月ですからね、しばらく放っておいても大丈夫でしょう。不審に思った本隊が、そのうち回収に来るでしょうし」
ポンポンと猫の手を払うと、ウィリディスはアウランティウムに向き直る。
「怪我は?」
言いながら腕を上げさせ、胴体を触り、膝を屈伸させ、手首足首をぐるぐると回させる。その場で跳ねさせて痛みがないことを確認すると、一つ頷いた。そんな守護獣に“神の小鳥”はおかしげに笑うと、少しずつ影を薄める夜道へと、一歩踏み出した。
「行こう。今のうちに」
「えぇ」
ハクナの山を下りきり、なおも通りの少ない山側の道を歩くこと一日半。カムラク州に入るなり遠目に見えた海の色に、二人の足はひたと止まった。
「アウランティウム」
「うん」
鳥の声が、植物の息吹が、徐々に失われてきていることに、歩きながら気づいていた。山の緑にハクナのような力はなく、かの山から流れてくる“樹”の力のおこぼれを懸命に吸って生きているような貧しさをひしと感じ取れる。当然、獣など住めるはずもない。そして、あの海の色。
茶黒色く濁って澱み、シュゾークのような鮮やかな紺碧など見る影もない。彼方に見える保護膜だけは変わらずシャボン玉のように玉虫色に揺れ、より異常さを際立たせている。一目で生き物などいないとわかるような、死の色。
「これが、クント」
「ウィリィ」
茫然と呟いたその腕を、アウランティウムがそっと引く。触れた手がいつもより熱を帯びているように感じて、ウィリディスはギョッとして彼に手を伸ばした。
「まさか、熱があるんですか」
「そうだけど、そうじゃないっていうか」
これのせい、と彼が空いた手で摘まんだのは、胸から下がる小さな鳥籠。その中で、橙色の種がぼう、と強めの光を帯びていた。
「あんまり良い環境じゃないから、発熱して防衛しているみたい。守護獣にも有効だっていうんだけど、どうかな」
どう、と言われても、ウィリディスの調子はハクナから変わらない。素直にそう答えると、アウランティウムは仄かに笑った。
「それなら、確かに効果があるんだ」
「試しに切ってもらえますか」
半ば本気で問うてみると、種の主はしばしその光を見下ろして、それからゆるく首を振った。
「やめとく。多分、他の人獣を見ればわかるよ」
「……無理は禁物ですよ」
「わかってる。その時は、任せた」
「無論」
頷くと、少年から返ってきたのは安堵の笑み。促されて歩きながら、ウィリディスはまじまじとその背中を眺めた。
クントに入るなりこれだ。中心部に近づけば近づくほど、汚染は酷くなり、環境は悪くなる。
種と主は一心同体だと言っていた。ならば、今のこの状況が、彼にとって良いはずがない。
歴代の“神の小鳥”の誰も“樹”を植えられなかった、クントの中心部。どこまで近づけるのか、どこまで近づくつもりなのか。橙色の後頭部からは決意と覚悟しか見えない。
いざとなったら気絶させてでも離脱する。ウィリディスは静かに拳を握り、彼の隣に並んだ。
崩れ風化した石垣、片方の柱が折れた鳥居。人獣の家はまばらで、ほ乳類よりもキジバトなどの鳥類が目立った。このような中でも州として機能していることに、ウィリディスは驚嘆の思いを抱く。二人の何倍も大きな錆と穴だらけの青銅の塊が座る隣を、ゆっくりと歩む。朽ちかけた大きな鳥居をくぐり、水が涸れ色褪せた橋を渡り、崩れかけた石垣を横目に幾筋もの割れ目が走る石段を上がる。登りきった先に佇む大きな木造の建物は、それでも州司の家らしく、瓦屋根の黒く光る立派なものだった。
木戸を叩くと、ややあって現れたのは、二人と同じ背丈ほどの、一羽の大きな雌烏だった。“樹”なき土地を治めるその州司は、炯々とした眼差しを隠しもせずじろりと一瞥するなり、片翼を振って踵を返した。嗄れた声が短く招く。
「入れ」




