3-5 初夏月/廿一日月②
アウランティウムに手当を受けたウィリディスは、州司レベイロの前に参上するなり深々と頭を下げた。当然ながら、余所の前庭で急に闘い始めたことと、喧嘩を売ってきたのは向こうとはいえ、結果的に子息を蹴り倒してしまったことへの謝罪である。白髭を蓄えた猪の州司は、執務室の椅子の上で、眉間に皺を寄せため息をついて応えた。
「全てはあれの力不足。仕方のないことだ」
これだから守護獣に選ばれなかったのだ、と続けられた言葉に、アウランティウムが小さく身を震わせる。その様子に気づかなかったのか、老いた白猪は口元に自嘲的な笑みを浮かべて問う。
「どうかな、〝神の小鳥〟殿。今回は不覚を取ったが、あれもなかなかの猛者。此度の戯れには目を瞑り、再度ご一考いただくというのは」
「お断りいたします」
固い声が即答した。
「僕の守護獣は、このウィリディスです」
なるほど、と牙を撫で、猪は再び、仕方がないと呟いた。
「ハクナの樹はまだ若木。できればもう一本、と言いたいところだが、やはりまずはクントを抑えていただくことが優先かと」
「ご理解いただき、恐縮です」
〝神の小鳥〟と州司の形式的とも言えるやりとりのあと、老猪は少年を手招きした。
「もしよろしければ、ハクナの若樹をご覧いただきたい。地図がここに」
「あ、はい」
執務用の机に歩み寄ったその時。重たげな音が背後に轟き、床を揺らした。振り返ったアウランティウムの視線の先に、先ほどまでなかった木製の檻がある。天上まで届くその中で、半人獣の少女が忌々しげに舌打ちをした。先ほどのヴァグリオとの闘いが尾を引き、瞬く間に迫り上がってきたそれから、逃れることが出来なかった。
「どういうつもりですか」
蒼白のアウランティウムが老猪に詰め寄る。
「先ほどのご子息の件であれば、真っ先に謝罪をしたはずです。このような仕打ちを受けるほど、礼を欠いたつもりはありませんが」
「違う。違うのだよ、“神の小鳥”殿」
首を振った州司が取り出したのは、巻物型の一通の文。目を通す少年の唇が見る間に色を失い、わななく。
「……アウランティウム。それは」
ただならぬ気配を醸し出す背中に、ウィリディスの声がかかる。振り返ったアウランティウムは、やられた、と呟いた。
「奴らから」
〝神の小鳥〟と同行する半人獣、人間保護条約違反の疑あり。明朝正式な守護獣が警察を率いて向かう故、ご協力頂きたい。協力の暁には、継司殿にも便宜を図りたく。
「いつウィリディスが違反したっていうんですか。濡れ衣です」
「濡れ衣か否かは明日、警察が来ればわかること。清き身ならば恐れることもあるまい」
アルパカの執事が一頭部屋に入ってきて、アウランティウムの肩を叩く。
「お部屋の支度ができました。〝神の小鳥〟殿はこちらに」
「……断る、と言ったら」
「湖畔に常駐する警邏を呼びます」
「アウランティウム」
唇を噛んだ彼に、その名を呼ぶ声が届く。柵越しに小さく首を振る彼女の黄金の瞳は、凪いでいる。少年はしばし逡巡し、それから小さく頷いた。
「わかりました。行きます」
退出していく彼を見送ったウィリディスの傍に、杖をついた州司がゆったりと歩み寄る。
「その鋭い爪で柵を蹴破ろうと目論んでいるならば、諦めるがよかろう。成人獣の猪すらそこを出ることは叶わん。ヴァグリオの仕置きに良く用いたものよ」
「彼を倒したことについては謝罪はしませんよ。彼が東領の矜恃を持ち出したので、私は守護獣としての矜恃を返した。それだけです」
論点をあえてずらしたウィリディスに、しかし老いた州司は首を振る。まるで、そうする他ないと言うように。
杖の音を響かせて出て行ったその後で、ガチャリと錠の掛かる音が部屋に響いた。
執務室の窓からは、月光が冴え冴えと差し込んでいた。立てた片膝に腕を乗せ座り込んでいたウィリディスは、錠の回る音に顔を上げる。
「……来ましたか」
音も立てずに入ってきた黒い巨躯は、柵の前にどっしりと腰を下ろす。
「まるでわかっていたような言い分だな」
「一言言わずにおれない性分だろうな、とは思っていましたので」
「つくづく気に食わん」
鼻を鳴らして目を細めると、ヴァグリオは柵の向こうのウィリディスに問う。
「何故その腕を、他領で振るう」
「答えれば、ここから出していただけるんですか」
「答え次第だ」
「勝者はどちらか、忘れた訳ではないでしょう」
揶揄を込めて問いかけると、牙の奥から歯ぎしりが零れた。
「だから、俺が納得するために問うている」
屈辱を噛み殺した返答に、なるほど、と一つ頷いて、ウィリディスは少し思考を整理する。それから一つ、問い返した。
「私が何故檻に入っているのか、理由をどこまでご存知ですか?」
そのままヴァグリオの持つ情報を聞き出していく。先代の手紙の存在はともかく、先代の守護獣と〝神の小鳥〟が不穏な関係であることは、どうやら彼は知らないらしい。央領に拉致された説が中途半端に流布されているようで、ウィリディスはそこを適当に補修しつつ、アウランティウムを助け、請われて守護獣になるに至った話をした。無論、先代との確執や彼が抱える東領への繊細なまでの警戒心には触れない。
「我が父は央領クシュオの州司です。彼も一時身を寄せていました。央領の巫女も東領の巫女も承知の上。裏は取れるでしょう」
父の地位を借りるのは不本意だが、この際手段を選んではいられない。ヴァグリオは己の膝を前肢の爪先で叩きながら聞いていたが、やがてこめかみを掻きながら息を吐いた。
「つまり貴様は、守護獣とは〝神の小鳥〟の旅路を守る純然たる用心棒だ、と思っているわけだ」
「違うのですか」
「……いや、違いはせんさ」
言葉に仄かに苦笑が混ざる。その声質に聞き覚えがあり、思い当たるなりウィリディスは思わず首を傾げた。
「兄も、似たような苦笑をしましたね」
「クシュオの後継殿か。だろうな」
「……後継にしか伝わらぬ何かが、守護獣にはある、と?」
ヴァグリオの返答は押し殺すような笑いのみ。渋面をつくる彼女に、気を散らすよう前肢を振ってみせた。
「貴様は知らん方が良い話だ。知れば鈍る。鈍ることを、あの子どもは望まん」
さて、と立ち上がり、ぐるりと檻を巡って、一点を指し示す。
「ここ、あぁここだ。親父は万全の造りだと思い込んでいるがな、ここだけ枠が甘いのだ。入れられる度に俺が突き続けた。貴様の一蹴りで外せるは」
言い終わる前にウィリディスの片肢が閃き、勢いよく柵の一部が吹き飛ぶ。
「感謝します」
すぐさま抜け出し、律儀に頭を下げる。その後頭部に、珍獣でも見るかのようなヴァグリオの視線が注がれた。気づかず踵を返しかけた彼女の耳が、扉の外、微かな物音をとらえる。薄く開いて滑るように入ってきたのは、別室に軟禁されていたはずの、橙色の頭。
「アウランティウム」
「ウィリィ! と、ヴァグリオ殿」
身体を硬くした少年は、けれどすぐさま状況を理解したらしい。まだ強張った表情のまま頭を下げた。
「ウィリィを出して下さって、ありがとうございます」
「コイツが自分で出た。俺は何もしとらん」
そっけなく答えてから、大猪はまじまじと少年を見下ろした。
「見張りはどうした」
「お手洗いに行かせてもらってたんです。そのまま迷ってたまたまここに辿り着きました」
言葉と声音と表情がちっとも合っていない。いけしゃあしゃあ、という言葉はこういう時に使うのだと知り、ヴァグリオの牙の間だから堪えきれずに笑いが零れた。この〝神の小鳥〟に、この守護獣。己の所行が馬鹿馬鹿しくてたまらなくなったのだ。
「裏口に案内する。さっさと出て行け」
『はい』
* **
初夏月/廿一日月
ヴァグリオさんのお父さん――今のハクナ州司は、かつて守護獣の候補の一人だったらしい。結局別の人獣が選ばれて、しかもハクナに樹が植えられて、そのことがずっと心の奥に沈んでいるんだそうだ。
『俺は親父が年食ってから生まれたからな。今度こそ、と思ったんだろうよ』
忌々しげに鼻を鳴らしていたけれど、多分、ヴァグリオさんも何も思わなかったはずはない。〝神の小鳥〟の守護獣になるということは、彼が言っていたとおり、領の名と州の名を背負い、矜恃を胸に旅を共にするということなのだろう。ヴァグリオさんは、それを弁えている分、あいつらよりもずっとまともだ。
裏口から抜け山道に踏み入ったその時、月光に照らされた樹の姿を見た。東領の樹の証、瑠璃色の葉を茂らせ、ぐんと背伸びをして、霊峰の枝の先のような細さの幹を振るわせる、若い樹だった。
ウィリディスの言葉が、頭から離れない。
『この樹を植えた“神の小鳥”は、今どこで何をしているんでしょうね』
僕はその答えを、知っている。
個人都合により、次の更新は四月を予定しております。お待たせしてしまいますが、再開の際はまたお付き合い頂ければ幸いです。




