1-1 初夏月/上弦①
初夏月/上弦
明日は未明から雨だという。あいつらはあまり匂いに敏感でない種族だ。加えて、迎え酒をたくさん飲んでいるから、眠りも深くなると思われる。経路は今日のうちに頭に叩き込んだ。持っていくものも全部まとめた。今晩が勝負だ。
神様、どうか、僕に猶予を。
* * *
未明から降り出した雨は、夕方になってようやく雨脚を緩めた。東領・イシャーワ州カンシュアの船着き場では、央領行きの船が運行再開の兆しを見せ、翼を持たず足止めを食らっていた人獣たちが、次々と重たくなった腰をあげる。木造の待合室の片隅で足を組んでいたウィリディスも、薄金色の猫系の両腕をぐぅっと天井へ伸ばすと、小さな麻袋を一つむき出しの華奢な肩に引っかけ、足を解いて立ち上がった。肩の上で切り揃えられた透けるような翡翠の髪がひょんと跳ねる。もっとも、ろくに梳かしてもいないようなその髪は、いつもウィリディスの人系の顔を好き勝手に縁取っているし、後ろ頭の髪が一房も一昨日の方向を向いていなかったことなんて、一度もないのだけれど。
腰紐で留めた簡素な麻の服は、背中が半分ほど開き、鳥の翼の飾りのようなものが肩甲骨を覆っている。革と紐だけでできたこれまた簡素な靴を素足に巻き付け、椅子の間をゆっくり歩いて行く細身の少女に、他の人獣たちの視線が刺さる。まず顔に、次に手、最後に足、そして鼻を一つ鳴らしてお終い。それがおおむねテンプレートで、たまにおまけで「半人獣《クアルタ》か」と吐き捨てられた台詞がついてくる。物心ついた頃には既にそんな視線に晒されていたから、今更どうということもなく、ウィリディスはそれらを爪先で頭を一掻きしてやり過ごすと、窓口で切符を買い求めた。仕事用の通行許可証を見せてから布の財布を出し、中央に穴の空いた薄い長方形の銀板一枚と銅板二枚を払い竹札をもらう。穴はもちろん爪や嘴を引っかけるためのものであって、人獣たちの間で貨幣のやりとりが始まるずっと昔は、ただの紙切れが貨幣だったらしい。習った当初、さぞかし掴むのに苦労したでしょうに、と、ウィリディスは心底同情したのだった。
外に出てみれば、雨こそまだ止まねど、水をたっぷり吸った綿の如く垂れていた雲は随分軽くなり、色も少し赤みを帯び始めている。海の向こう、北に見える央領には、細いながらも幾筋もの天の梯子が掛かっていた。波も穏やかさを取り戻しつつあり、運船手である亀の人獣たちが水面を見ながら、着々と小型連絡船の出港準備を進めていた。順調にいけば、今日中には央領の地に帰れそうである。髪を振って水気を払い、踵を返しかけたウィリディスの黄金色の目の端に刹那、妙な色が刺さった。思わず立ち止まり、正体を探すべく目を凝らす。蝋燭の灯を鋭く磨いたような、橙の一閃。波止場の西端、木箱が積んである辺りから飛来したように見えたけれど、いくら注視しても同じ色は見当たらない。
「西日の一閃……?」
胡乱げに呟いたウィリディスの耳に出航時刻の決定を告げる声が届く。待合室に戻ろうと振り返ったその時、人獣ほどではないが敏いその耳が微かな衣擦れの音を拾った。今度は躊躇いなく木箱に近付くと、一番手前の木箱の蓋に無造作に爪をかける。
入っていたのは、茶とも深緑ともつかない色の、箱にちょうど収まるほど大きな古い布の塊だった。何かを包むように丸まったその端、不自然にできた皺はまるで内側から手で握っているようで、ウィリディスは蓋を立てかけると、爪先で手近な丸っこい布の端を慎重に引っかけ持ち上げてみる。橙色の毛がちらりと見えた瞬間、咄嗟に引っ込めた爪の先を、柔な手の甲が掠めていった。払いのけるように掲げたその下で、強張った朱色の瞳が凝視してくる。
毛の生えていない、肌色の五本指。ウィリディスと同じ人系の顔の造り。
「人間、ではないですか」
一方布の塊も、フードを暴こうとした者の顔に、困惑したように問い返した。
「……え、と、そちらも、人間……?」
掠れた少年の声音に、彼女は片眉を跳ね上げると、ずいと黄金の前肢を差し出した。
「半人獣です」
「くあ、る、た……」
反復する声に力がないのが気に掛かった。よく見れば、纏っている布は雨を吸った色と匂いをしている。片肢を伸ばして肉球を額に当ててみる。
「な、に」
動揺も顕わな少年をよそに、たちまち渋面になったウィリディスは素早く辺りを見回した。
「熱があります。保護獣はどこです?」
人間保護法により、人間には必ず、一頭以上保護獣がついているはずである。
「……保護獣は、いません」
「いない?」
耳を疑った少女の前で、少年は重たくなったフードに顔を隠す。
「殺されました。僕は、その相手から、逃げて……」
「警察は」
自然と険しくなった声音の先で、布がそっと横に揺れる。
「行けません」
なぜ、と質そうとしたその耳が、乗船開始の知らせを拾う。乗らなければ、次は夜中。けれど、黙する少年を前に、生業故に感じる勘のようなものが、足を縫い止めていた。
「蓋を」
再び包まった古布の中から、掠れた声が告げた。
「蓋を、閉めて下さい。船に乗るんでしょう?」
ウィリディスは心を決めた。
「失礼します」
「え……ぅえ!?」
あたりをつけて両腕を布の中に突っ込むと、悲鳴を無視して身体を勢いで立たせる。ウィリディスの目線がさほど上がらないところで、朱の瞳がまん丸に開いていた。
「歩けますか。無理なら担ぎます」
「え、いや、かつ?」
「担ぎますね」
「歩けまうわぁぁぁ!」
鳩尾辺りに肩を入れ担ぎ上げると、木箱の外で降ろしてやる。困惑の色で見返してくる少年に、ウィリディスは真顔で宣言した。
「警察が無理なら、人間保護センターまでお送りします」
「……君が?」
「えぇ。私の生業は、用心棒です」
個人商を央領から東領まで護衛してきた、その帰りだったのだと、軽装極まりない格好で告げられて、少年が何ともいえない顔になる。
「……君が?」
「くどい。やはり担ぎますか」
「いや、大丈夫、大丈夫です」
慌てて両手を挙げた彼を一睨みし、ウィリディスはひとまず、と踵を返した。
「近辺で休めるところを探します。まずは熱を」
不自然に言葉を切った彼女の隣に、少年がそっと並ぶ。
「何か」
「走れますか」
待合室の受付に、複数の影がある。
「橙色の髪、朱色の瞳の少年は来ていないか。切れ切れですが、そう聞こえます」
息を呑んだ少年が一歩下がったのと、うち一頭がこちらを向いたのが同時。ウィリディスの手が素早く鞄の中から切符を引っ張り出し、少年の手に落とした。
「船に走って!!」
「君は!?」
「いいから!!」
半ば殴るように背中を押すと、躓きながらようやく走り出す。待合室から転がるように出てきた影は三頭。斑模様を先頭に、焦茶色、灰色の毛並みの狒々の人獣で、口々に喚きながら、布を翻し駆ける少年を追う。その斑の横っ面を、進路に滑り込んだウィリディスの爪が捕らえた。
「ふっ!」
「ぐぁ!?」
勢いを殺さず振り抜かれた死角からの一撃に、引き倒され転がる。背を向けた低い姿勢から斜め上に振り上げた踵が焦茶の顎を強かに蹴りつけ尻餅をつかせると、流石にたたらを踏んで留まった灰色に対峙する。
「……邪魔だ、半人獣」
「そうですか」
涼しい顔で立ち塞がる少女に、立ち上がった二頭も殺気走った目を向ける。
「猫もどきが、舐めた真似してくれたな」
「出来損ないの子猫が出しゃばるんじゃねぇ」
「どけ、偽猫の半人獣」
「どきません」
渡航する人獣たちが、何事かと横目で見ながら遠巻きに船へと急ぐ。その様子を目の隅で追いながら、ウィリディスは頭上から向けられる殺意に満ちた視線を平然と受け流していた。
「……お前ら、あれを追え。こいつは俺が」
無傷の灰色が一歩前に出る。散ろうとした二頭に、少女の黄金の瞳が初めて鋭く光った。
「させません」
突如二頭の目の前に、鷲のような濃茶の翼が広がった。呆気にとられた三頭の視線の先で、飾りにしか見えなかった背中の翼を大きく広げたウィリディスは、軽やかにバックステップを刻む。一歩、二歩、三歩下がる頃には、その足は固く灰茶色に変色し、三本指の先に固く鋭い鉤状の爪が顕れていた。踵にも生えたそれは、どう見ても猫科のものではない。
「おま、お前、いったい」
「ただの子猫ですが何か」
直後、身を屈めたウィリディスは勢いよく地を蹴った。宙でくるりと身を捻るなり、斑の顔に裏回し蹴りを叩きつける。焦茶を巻き添えに倒れ込んだのを踏んで弾みをつけ、獅子のような利き腕を振り上げると、庇った両腕ごと灰色の顔面を掴み、地に沈ませた。左から飛んできた焦茶の拳を避けて空いた鳩尾に肘をめり込ませ、掴まれる前に翼を折り畳み、空を切った灰色の腕を取って懐に入り投げ飛ばす。宙返りで着地したところを翼で翔け迫ると、獅子の前肢で殴りかかると見せかけくるりと回転し、鋭い爪で刹那頭を鷲掴み勢いよく地面に叩きつけた。俯せに沈黙した灰色を見下ろすウィリディスの背後で、出航を知らせる角笛の音が響き渡る。振り向けば、錨を上げて進み出した船の上で、少年が叫びながら手を振っていた。
「……船賃は後払いでも許してくれるでしょうか」
よろよろと身を起こそうとした灰色の横腹をとどめとばかりに蹴りつけ、覚束ない足取りで駆けてきた斑と焦茶の手をかわすと、ウィリディスは桟橋に向かって駆け出した。勢いよく橋を蹴って海に踊り出し、大きく翼を羽ばたかせる。湿気で重い空気に顔を顰めながら滑空すると、ざわめく船上の端、少年の横に滑り込んだ。