3-4 初夏月/廿一日月①
天下の険と名高い山に囲まれた細長い湖畔は、太陽が西に差し掛かると早くも夕闇の気配を漂わせ始めた。さざ波の立つ水面を眺めながら、僅かな緊張感を身にまとい、アウランティウムとウィリディスは立派な木門を潜って町に入る。山羊やカモシカ、アルパカ、猿など、山に慣れた人獣たちが、人間と半人獣の組み合わせに足を止めた。好奇の眼差しの八割は一般町民だから気にせず、怪訝、驚愕、嫌悪の視線も放っておく。敵意だけを探るけれど、ウィリディスの神経には引っかかるものはない。一方のアウランティウムは、露店に顔を覗かせつつ、代わる代わる声をかけられては微笑んで応じていた。東領の〝神の小鳥〟の顕現に、徐々に周囲がざわめきだす。
「他領に連れ去られたと聞きましたが」
「お怪我はありませんか?」
「ご無事で何よりです」
「こちら、どうぞ旅のお供に」
アウランティウムの腕の中を、見る間に菓子や干物、小包が埋めていく。二歩ほど離れてそれを眺めていたウィリディスは、なるほどと静かに得心した。〝神の小鳥〟とは本来、こうしてもてなされるべき存在なのだろう。
誰かがくれた風呂敷に頂き物の山を包み、アウランティウムが柔らかな表情でウィリディスに近寄ってくる。
「たくさんいただいちゃった」
「良かったですね。旅が潤います」
ただそれだけのやりとりに、これまで笑顔を振りまいていた者たちがふと口を噤む。これまで視界にすら入れていなかった半人獣の正体に気づいたようで、好奇がじわりと反転していく。
「……アウランティウム、行きましょう」
「わかった」
「いや待て」
低い声が先に行く手を塞いだ。現れたのは大猪の人獣。町人の間から、継司様、と声が漏れた。鋭い牙の向こう、鋭い瞳が守護獣の娘を頭のてっぺんから爪先まで眺める。
「そっちのなりそこない。お前、まさか守護獣か」
「そうですが」
途端に突き出た鼻から荒々しい息が吹き出す。顔をしかめたウィリディスから、隣で黙する少年に目をやり、大猪はずいと顔を近づけた。
「女に堕ちたか。同情か。それとも他領で錯乱でもなさったか」
「いずれも、否、です。僕は僕の意志で彼女を選んだ」
ひたと見返す〝神の小鳥〟の朱の瞳を、その男は鼻で笑い飛ばす。
「仕向けられたんだろうさ、可哀想に」
それは二人に告げるにしては、あまりによく響き渡った。聞き取った者たちが騒ぎ出す。
「騙されているのか」
「〝神の小鳥〟だぞ」
「しかし、守護獣に半人獣が就くなど」
その最中に、更なる石が投じられる。
「しかもその者、他領の者ではないか」
思わず振り返ったウィリディスだが、声の正体は完全に町人に紛れている。不穏にうねる空気に舌打ちをした少女の猫の手を、人間の柔な手が握った。
「それでも、僕の守護獣です。すでに二柱の神獣に目通りし、許可も得ました。不審に思うなら、巫女に尋ねて下さい」
アウランティウムが負けずに声を張る。うねりが矛先を見失ったように分解していく。しかし大猪はそれを嘲笑った。
「我らが巫女に問うている間に、主らはここを離れて逃げ出すのだろう。――他領の者にみすみす手柄を取られるなど、東領の矜恃が許さぬわ」
ぶるる、と身体を震わせる大猪を前に、ウィリディスがゆっくりと少年の手を外す。
「例の件と関係は?」
「多分、ない」
では、と言いながら鋭く辺りに目を走らせ、州司の屋敷との距離を測ると、彼女はアウランティウムに視線で小路地を示すと、低く地を蹴った。
あっという間に大猪に肉迫し、猫の手を振りかざす。
「ぬるい!」
「当たり前でしょう」
躱して吠えるその声に冷静に返し、迫る牙を跳ねながら後退することで避ける。
「こんなところでまともにやり合う愚行は犯しません、よ!」
一際勢いのついた突撃をひらりと躱し、そのまま身を翻した。突如始まった戦闘に出来た空間を利用し、先に示した小路に飛び込む。
「ウィリィ!」
「後ろから指示を出します、走って!」
右、左、と曲がり、大路と小路を交えながら疾走する。町人と鉢合わせた時はウィリディスが少年を小脇に抱えて壁を蹴った。
「飛ばないの!?」
「まだ、手管は見せたくないんです。右!」
しばらくはざわめきと怒号が追いかけてきたが、やがてそれも聞こえなくなる。ウィリディスはそこでようやく、足を緩めた。肩で息をするアウランティウムに水を与えてやる。
「州司の家まで走るのかと思った」
「あの場を抜けられれば良かったんですよ。どうせあの猪とは州司邸で会えます」
継司様、と呼ばれていた男なのだから、これから向かう州司邸は、自宅だ。
「家であれば、誰の邪魔も入りませんからね。今度こそ、受けて立てます」
「……ウィリィ、やる気満々だったの?」
アウランティウムが朱の目を瞬かせる。ウィリディスはその目に、至極真面目に言い返した。
「矜恃には矜恃を返す。それが流儀です」
先立って知らせを送っておいたおかげで、州司邸の門はすぐに開いた。表門を潜り、木造の建物の前庭でウィリディスは足を止めた。アウランティウムに扉の前にいるように告げると、腕を組んで仁王立つ。翡翠の髪が湖畔からの風に揺れる。黄金の瞳が細められたその時、真っ黒な影が門をくぐり抜けて現れた。己の家の庭で待ち構えている小娘を認め、どっしりとした身体を震わせる。
「逃げたかと思えば、敵の懐に飛び込んだか」
「ご不満ですか」
「否!」
身体が膨らみ、前肢が地を蹴る。牙の間から荒い息を吐き出し、瞳をギラリと燃え上がらせる。
「なりそこないの盗猫め、覚悟!」
「やれるものならば」
剣呑な眼差しを返し、腰を落とす。
「我が名はウィリディス。我が矜恃を以て貴公を沈めます」
「子猫が吠えるものよ! 我が名ヴァグリオ! 東領の誇の下、叩きのめす!」
吠えるなり、その巨躯が小柄な身体へと襲いかかった。太く鋭い牙が低い位置から振り上げられる。
「っう!」
ウィリディスの身体が宙を舞う。その落下地点へとヴァグリオが駆ける。落ちてきたところを追撃し、再び宙に放るのだ。繰り返すことで相手から攻撃の隙を奪う、先手必勝の技。しかしそのヴァグリオの目の前で、大きな翼が広がった。空中で身を翻し、猪の遥か後ろに土煙を上げて滑り降りる。
「……猫ではない、か」
「さて、どうでしょう」
獅子の腕を一振りして、ウィリディスが再び構える。突き上げをくらった腹はジクジクと痛むが、牙の直撃は避けた。次は、その後を考えなければならない。
胴への攻撃はまず通らない。地面と腹の距離が短いから、心臓を狙う線も難しい。顎を砕くにはリスクが高く、従って撃つなら、後頭部か、眉間。直線距離の瞬発速度なら人獣の中でもトップクラスの猪を相手に、どう撃ち込むか。再び正面からの突撃に身体を宙に舞わせながら、ウィリディスは翼を広げる。視界を覆ったとしても、ここは相手の庭である。顔面に貼り付けたまま壁に押しつけるくらいのことはしてのけそうだ。猪の死角に降り立って、少女は小さく舌打ちをした。鷲の爪で地を蹴り、耳の後ろをめがけて獅子の拳を振りかざす。
「甘い!」
「く!」
前肢を振り上げた猪が激しく首を振り、牙がその拳を弾き返す。がら空きになった懐にもう片方の牙が迫り、咄嗟に身体を捩って鷲の爪で受け止め、弾かれながら転がって距離を取る。身体を起こした時にはもう、突進が始まっていた。
「ウィリィ!」
アウランティウムの悲鳴が遠くに聞こえる。守護獣の身体が勢いよく跳ねられる。前の二度と異なり力なく放られたそれに、少年は蒼白になった。勝利を確信したヴァグリオの牙が、落下地点へと迫る。駆け出そうとした少年の目に、翡翠の髪間から覗く黄金の閃きが飛び込んだ。
「ぉぉぉぉおお!」
身を捩り、鷲の翼が折り畳まれる。錐揉みしながら加速し、駆ける猪へと落下していく。
「な!?」
驚愕の眼差しとは裏腹に、ヴァグリオの前肢は急ブレーキを受け付けない。今立ち止まれば、自身の顔を地にぶつけかねない。身体は既に、落下地点で止まるように計算されている。それでもどうにか身体中の筋肉を総動員して足を緩めた、その隙を、空中のグリフォニアは見逃さない。
「はぁっ!」
勢いを殺さぬまま空中で一回転し、右後肢の踵を後頭部に叩きつけた。鋭い爪の背が猪の首の後ろにめり込む。ガ、と口から唾と息を吐き出し、ヴァグリオの巨躯は地に伏した。着地に失敗して横に転がったウィリディスに、アウランティウムが駆け寄る。
「大丈夫!? 怪我は」
「骨がいってるかもしれませんが、多分打撲です」
「でも、あんなに投げられて」
「直撃は避けてますから」
突き上げのタイミングに合わせて自ら身体を跳ばされにいくことで、衝撃を逃す。最も難しかったのは一度目で、二度目で何となくコツを掴んだ。肉を切って骨を断つ、というほどでもないが、猪の特性に活路を見出し油断を誘うには、必要なダメージだったと言える。
人獣の姿に戻ったヴァグリオは動く気配がない。鷲の翼と爪をひっこめると、ウィリディスは念のため猫の手を口元に持っていった。きちんと息をしていることを確かめ、ふうと息を吐く。
「アウランティウム。お屋敷の者を呼んで下さい。私ではこの巨体は動かせません」
腹を擦りながら言えば、少年は頷くなり扉へととって返した。
決着はついた。けれど、それからしばし。日も沈みきらぬうちに、ウィリディスは、檻の中にいた。