3-3 初夏月/廿日月②
東領・霊峰フーシアの南、シュゾーク州は外海に面しており、初夏月から晩夏月にかけては海水浴に訪れる人獣もそれなりにいる。ウィリディスが護衛で訪れるのは東領の北西から北東にかけて、つまり専ら内海側のため、きちんと外海を目にするのは初めてだ。
日が南天に達した頃、二人は外海に辿り着いた。堤の上に両足をしっかりとつけ、ウィリディスは息を呑んで大海原を眺める。
内海のほの暗く深い藍色とは異なる、鮮やかな紺碧が彼方まで広がっていた。シャボン玉のような薄い膜が、その水平線上から天に伸びている。外界からソル・カダヴェを守る保護膜。誰一人として、あの膜を越えることはできないという。央領の北と西からは見られるらしいが、立入禁止区域に指定されている。ウィリディスが実物を目の当たりにするのは、これが初めてだ。
「向こう岸が全く見えないというのは、なかなかに衝撃的な光景ですね。この国が島国であることを、改めて思い知らされた気分です」
無邪気に波と戯れる亀やアザラシの人獣たちを見ながら呟くと、そうだよねぇ、と、呑気な相槌が返ってきた。
「僕も外海を見たのはシュゾークの西隣、ハマツアが初めてだったんだ。びっくりした」
少年の朱の瞳が懐古に細められる。
「ハマツア州司の家が海沿いで。……こんなに広いんだから、僕が抱える不安なんてちっちゃいものなんだなぁって、その時はすっごく安心した」
潮風が橙の髪と翡翠の髪を掻き上げていく。
「……行こう、ウィリィ」
「えぇ」
海は母だと生命の歴史は告げた。ちっぽけな命をゆりかごの上で数多育む母なのだと。その母に一礼し背を向け、〝神の小鳥〟と守護獣は一歩踏み出した。
「シュゾーク州司には目通りしなければなりませんよね」
「うぅん、良いんじゃないかなぁ。前回ハマツアに行く途中に立ち寄ったし」
今いる場所はシュゾークの中でも南東で、州司の住む街はどちらかと言えば南西、それこそハマツア州に近い。
「それよりは、さっさと横切ってハクナ州に入りたい」
「確かに、あそこの山道は厄介と聞いています」
厄災前は天下一の険とも呼ばれた山々が今もなお残る、交通の難所がある。海沿いに迂回する道もあるが、できる限り目の多そうな道は避けたかった。
「アウランティウムは、やはりクント地方を目指すのですね」
麻袋から東領の地図を取り出し、ウィリディスがその一点を指さす。今二人がいる場所より東、東領の南東にあるクントと呼ばれる一帯は、未だ生命が長時間活動に耐えられないほどの瘴気に満ちている。天然の動植物が全く生息できず、東領の歴代“神の小鳥”がその周辺に種を植えて少しずつ瘴気の範囲を狭めていくのがせいぜいだった。ハクナ州もつい数十年ほど前まで瘴気に侵されていた土地だ。東領全土としても、このクントをどうにかすることが目下の課題であり、少し離れた州なら“樹”が一本あれば今は良い、という姿勢でいる。
「一応北や西の州を回ってご挨拶はしてきたけれど、それも実際は『今回もクント周辺に種を植えると思いますが良いですよね』っていう確認だしね。あとはクントから瘴気が流れてきてないか現地調査」
狒々たちのせいで中断してしまったが、南に下りたのなら話は早い。
「今のクントがどんな状況か、まずは目で確かめる」
海が夕焼けに赤く染まる頃、二人は海岸線から離れ、赤々と燃ゆるハクナの山々を見上げる場所までやってきた。昨晩の寝床が岩場だったため、少年の身体を気遣い宿を取る。とはいえ目立つ場所の立派な宿ではすぐ足がつくから、隠れ宿のような場所を探しての休息である。結局それに時間を取られ、ようやくベッドに身体を沈めたのは星が出た後だった。山に修行に向かう者たちためにひっそり経営している個人宿をウィリディスが見つけたのだ。
「〝神の小鳥〟様相手に精進料理なんてもので良いのかしらね」
シマウマの女将は恐縮しきっていたが、幸い二人とも、温かい食べ物と柔らかな布団にありつけるだけで最高に幸せととらえる精神の持ち主である。
ハクナの名物・温泉にも浸からせてもらい、緊張に凝り固まった身体を解したアウランティウムは、小さな客室のベッドに入るなり早々に寝入ってしまった。傍らの机に地図を広げ、ウィリディスは蝋燭の明かりを頼りに今後の経路を指で辿る。気がかりなのは、双子巫女の暮らす山麓の集落に待機していた連中の動向。
「クントに向かうのは向こうもわかっているはず。どこで待ち伏せるか……ハクナで一線交えるのは、避けられませんね」
ハクナの険しい山々を越えれば、クントはもう目と鼻の先。近づけば近づくほど気力体力が削がれるという場所だけに、向こうも万全の状態で相対したいはずだ。
「私は頭脳戦は苦手なんですが……」
相手の裏の裏をかくという芸当はウィリディスにはできない。海沿いの迂回路ではなく山を選んだことだって、本当に正しいのかわからない。
「……その時は、その時ということで」
用心棒の勘を信じるしかないと腹を括り、ウィリディスは蝋燭の火を消した。
***
初夏月/廿日月
海を見ると、あの月輪熊を思い出す。
『アウランティウム。これが外海だ』
大きな黒い手を肩に乗せ、静かな声で教えてくれた。
『お前は今、旅に出たばかりで不安かもしれぬ。センターでは見たことのないものばかりで、戸惑うかもしれぬ。だが、覚えておくと良い。此の世の不安や悩みのうち、この外海よりも深く大きなものは、実はほとんどないのだ』
あの時の僕は、この先の旅の不安が胸からすっと消えていった。
今の僕は。
バレンス。貴方がどれほど賢明で残酷かを、知っている。そんな貴方を今でも、尊敬している。
バレンス。ウィリディスに会ったら、貴方は何て言うだろう。
***
早朝に出立し狭い山道を行き、日が真上に差す頃に尾根に辿り着く。眼下に現れたのは細長い湖。湖畔の向こう岸に立ち並ぶ数々の家の中、一際立派な木造の家は州司のものだ。付近の山々は獣の棲む地と指定され、クシュオ同様細い木板が尾根をぐるりと巡っているようだった。正面の道を行けば間もなく湖畔へと辿り着ける。けれど、ウィリディスの勘は西に伸びる尾根沿いの道を示していた。地図を広げて試算すると、州司の家に着くのは、恐らく夜半。
「アウランティウム」
猫の手を招いて呼び寄せ、顔を寄せて地図を示す。アウランティウムの眉が思案に寄った。
「……こっちに行こう」
指したのは正面の道。
「ウィリィには緊張を強いるかもしれないけど、いざとなったら民家や州司邸に駆け込める」
「私も少しの間ならアウランティウムを抱えて
湖上に逃げられます。……それでいきましょう」
頷き合うと、大昔に敷かれたのだろう石造りの階段へと足を向けた。