3-2 初夏月/廿日月
強く揺さぶられて目を覚ますと、アウランティウムの視界の先にはまだぼんやりと星が輝いていた。目を擦り瞬くと、星よりも鮮やかな黄緑色の爬虫類の瞳が二対、ひょいと現れる。
「起きたね」
「おはよう」
「おはよう、ございます……?」
身体を起こすと、背もたれになってくれていた巨大なリザードが勢いよく身体を震わせた。隣から素っ頓狂な声が上がり、見ればひっくり返ったウィリディスが、頭を抱えて蹲っていた。
「だ、大丈夫?」
「っ手荒い……おはようございます」
剣呑な視線を寄こされながらも、双子巫女はケタケタと笑うばかり。
「だいたい、まだ夜も明けていないではないですか」
「だからだよ」
「だからさ」
「ほら、起きたら動く」
「間に合わないよ」
急かされるままに立ち上がり、彼女たちの後に続いて山頂へと岩場を登る。そうしている間にも東の空が徐々に白んできた。昨日二人が降ろされたポイントへと戻り振り返ると、夜を押しのける朝の清涼な風が、さっと二人の頬を撫でた。
「間に合った」
「間に合ったよ」
ウィリディスとアウランティウムの背中によじ登った双子巫女が、それぞれの肩から小さな指を伸ばす。
『ごらん』
二頭と二人の顔を、サッと光が照らす。
『夜明けだ』
遠目に見える山々の狭間、その稜線を黄金に染めて、太陽が顔を出す。眼下に広がる樹海が光に波打ち、湖は水銀のように鈍く煌めいた。紅から橙、黄、紫そして青へとグラデーションがかった空に、薄紫を帯びた雲が細く細く流れていく。
「海も見えるよ」
「ほら、向こう」
「朝日にキラキラ」
南に揺らぐ数多の小さな光を指さして、上機嫌で双子が告げる。言葉を失いただ見入る二人に、満足げに笑んだ。
「〝神の小鳥〟も初めてだろう?」
「前は真っ昼間だったからね」
「これが世界一高い場所で見る」
「世界一綺麗な夜明けさ」
ほう、とどちらともなく落としたため息には、感嘆の情が詰まっていた。
太陽があまねく照らすこの地を、これから二人で行くのだ。
霊峰が低く唸ったのは、その時だった。山全体が小刻みに震え、あちらこちらで岩が驚きよろめく。咄嗟にアウランティウムの肩を抱えて屈みながら、ウィリディスは背に乗ったままの巫女に鋭く問うた。
「地震ですか!?」
ところが、こちらの緊迫感などものともせず、彼女たちは呑気に肩から跳び降りた。
「違う違う」
「これは主様」
「起きて、気づいた」
「だから、来るよ」
そうしている間にも揺れはさらに激しくなる。何かが地の奥から駆け上がってくるような気配に、ウィリディスの背に鷲の翼が広がった。膨らんだ獅子の手の内にアウランティウムを抱え、いつでも飛び立てるように鷲の足に力を込める。腕の中のアウランティウムも、瞳に緊張を宿す。その小さな警戒を笑うかのように、中央の湖の水面が激しく波打つと、大きな影を映し出し――激しい水飛沫と共に、巨大な影が黎明の空に躍り出た。大粒の雫が二頭と二人の上に降り注ぐ。びしょ濡れになりながらも、ウィリディスはその姿から目を離せずにいた。
全身を覆う瑠璃色の鱗が太陽の光を弾く。真珠よりも滑らかな爪は鋭く、薄金の鬣は水を含んでなお軽やかになびく。
「ドラグニア……」
天を貫く咆哮に威圧され、両手が地につく。尾を長く翻しながら空を舞い、湖の真ん中に聳える〝原初の五樹〟を一巡して、神獣はひれ伏す二人の目前の岩にその鋭い前肢を食い込ませた。
「主様」
「おはようございます主様」
ひょこひょこと歩み出る双子巫女に、低い唸り声が応える。と、双子巫女の上に突然、その巨大な片肢が振り下ろされた。
「な……!」
「待ってウィリィ! 大丈夫だから!」
咄嗟に駆け出そうとする彼女の腕を、アウランティウムが掴んで止める。刹那動きの止まった彼女の耳に、甲高い声が届いた。
『気概だけはあるか、憐れな者』
龍の掌の下から同時に放たれたその声は、双子巫女の声音でありながら威厳に満ちている。爪の間だから覗く二頭には当然ながら傷一つなく、黄緑だった眼差しは蒼く鋭い。
『〝神の小鳥〟よ、戻らば使命を果たせ。芽吹きが成されるのであれば、伴が誰とて構わぬ』
「……はい」
深く叩頭した少年と、同じく畏まった半人獣の少女を代わる代わる見やって、蒼き龍は双子巫女から肢を解くなりふいと身を翻し、湖の底へと消えていった。〝原初の五樹〟が鱗と同じ瑠璃色の葉をはらはらと落とす。風に乗って流れてきた一枚を指先でとらえて、立ち上がったアウランティウムは息をついた。
「良かったね」
「主様のお咎めなしだ」
何事もなかったかのように寄ってきた双子巫女に、苦笑を返す。
「神獣にとっては些細なこと、なんでしょうね」
指の力を緩めると、その葉は山頂の風に容易く掠われていった。見送る彼の隣にウィリディスが並ぶ。
「下山しましょうか」
「あぁ、待って」
「下りるなら、あっちだ」
指した先は湖の向こう側。アウランティウムは思わず首を傾げた。
「村はこっちでは?」
指した麓には樹海が広がっている。巫女たちの住む村は霊峰と樹海の境目にあり、霊峰に出入りする際は必ず立ち寄ることが掟だったはずだ。しかし、双子巫女はそろって小さな首を振った。
「村には行かない」
「裏道を使うんだ」
「……いるんですか」
ウィリディスの低い問いかけに返される沈黙こそが、答えだった。のそりと近寄ってきたタクラの背に乗ると、アウランティウムにも乗るよう促す。
「守護獣はその翼でおいで」
「下りるだけだから、大丈夫」
「巫女だから使える道だよ」
「二度はないよ」
「どうして」
手を借りて乗りながら問うた少年に、ラケルとケルタは顔を見合わせて、同じ顔で笑った。
「君は、その半人獣といる方が」
「良い顔をすると思ったからだよ」
呼応するようにタクラが喉を鳴らす。ゆったりと動き出し、見る間にスピードを上げていくリザードに併飛しながら、ウィリディスは静かに頭を下げた。
「ついたよ」
「ここまでだ」
霊峰の南麓、森林の出口で双子巫女はリザードから少年を降ろした。
『ありがとうございました』
揃って頭を下げた二人に両手を伸ばし、かがんだ首に抱きつく。
「君たちの険しい旅路に」
「少しでも希望があることを」
しっかりと抱き返し、そっと離れる。何度も振り返りながら手を振っているうちにその姿はすっかり見えなくなり、並んで歩きながらウィリディスはアウランティウムに問う。
「西と北は行ったんですよね」
「うん。だから、今度はこのまま南へ」
思い返すのは、明け方見た小さなさざ波の煌めき。
「海へ。海岸沿いに、東に向かおう」