2-7 初夏月/寝待②
集落中央の広場で待つ二人の下に現れたキオネは、ゆったりとした淡い黄色の布を身体に纏っていた。深い紺色の瞳に促され、ウィリディスの鷲の翼が広がる。遠巻きに眺める住民の目が丸くなったを視界の隅にとらえながら、獅子の腕と鷲の足を曲げ伸ばしして解す。頷き返すと、巫女の身体がしなやかに伸び上がった。馬の骨格に近付いた前肢を地につけ、長くなった鬣をなびかせる。大きく身体を震わせると、その背中に純白の翼が広がった。高く嘶き、目を奪われたまま動けないアウランティウムに背に乗るように促した。世話役の牝馬の前肢を借りてよじ登ると、これまた指示に従って鬣をしっかりと握る。
「クシュオの娘。良いですね」
「はい」
「ならば、行きます」
世話役の者たちを始め、その場にいた集落の者が一斉に膝を折る。しゃらん、と鈴の音が一度鳴ると、キオネは勢いよく地を蹴った。瞬く間に集落の端まで早駆け、勢いのまま翼を力強く羽ばたかせて空へと飛翔する。見る間に離されていく間に、追い駆けるウィリディスが目を剥いた。
「ペガスシアに本気を出されて追いつけるはずがないでしょう!?」
あちらは翼を操り四肢で空を翔る飛行のプロ。片やこちらは獅子と鷲の混ざりものでしかも奇形種である。死に物狂いでついて来い、とはまさに文字通りを指していたのだと早々に思い知った。
「仕方ありませんね……!」
前方遥かを翔る天馬を仰ぎながら、その辺に繁る枝を蹴り勢いをつけ、風をとらえて滑空する。それでも見る間に小さくなっていく姿に焦りを覚えた、その時。ウィリディスの左目が不意に熱を帯びた。痛みのない、柔らかな熱に戸惑い翼を畳もうとして、左の視界に妙なものが映り込んでいることに気づく。
細く細く、糸のように伸びる一本の線。真っ直ぐではなく緩やかな起伏を描くその線は、いつもアウランティウムの胸元で輝いていた橙色の光そのものだ。この光を辿れば、どんなに離れても追うことができる。“神の小鳥”の守護獣への恩恵に他ならない。
畳みかけた翼を大きく広げ、風を掴んで力強く羽ばたいた。太陽は少しずつ西に傾き、眼下の景色は丘陵から森林へと変わっていく。前方に低山がいくつも現れ、橙の光は蒼天に筋を引きながら、迷わずそちらに向かって伸びている。守護獣になりたての少女は、唇を引き結ぶと一気に加速した。
あっという間に見えなくなった集落と守護獣の姿に唖然としながら、アウランティウムはこちらも必死で天馬の身体に身を寄せていた。天へ翔る刹那「飛ばされますのでしっかり掴まって下さい」と小声で忠告されたが、まさかここまでとは思わなかったのだ。思わず目を閉じてしまっていたが、今は軽やかな震動に身を任せながら背後のウィリディスを案じている。胸元では種が橙色の光をせわしく点滅させ、光の筋を空へと刻み続けていた。アウランティウムが望むとき、種はこうしてしばしば守護獣の導となる。教えてくれたのは月輪熊の守護獣で、その導は“神の小鳥”と守護獣にしか見えないのだという。守護獣を簒奪した狒々から逃げる時、アウランティウムは導を残すことを望まず、故に彼らはすぐには追ってこられなかった。つくづく、自分と種は繋がっているのだと思い知らされる。
「どうやら、かの奇形の娘は正真正銘、貴方の守護獣のようですね」
少年の気配を背で感じ取ったのか、キオネがふと振り向いて声をかけた。
「……疑っていたのですか?」
「それはもう、ありえないことだらけでしたので。クシュオ州司から文をいただいた時には目を疑いましたよ。貴方という異物がこの地にいることも、その守り手にあろうことか、当領の半人獣が就いたことも」
だから、引き剥がした。この少年とかの娘の間柄が“本物”かどうかを知るために。キオネには種の導は見えないが、神獣に仕え“神の小鳥”をかの下に案内する役目を司る巫女として、その役割も種の反応も知らされている。もっとも、その知識をまさか他領の“神の小鳥”相手に使うとは思わなかったけれど。
「姿は見えますか?」
「いいえ」
「では、少しだけ速度を落としましょう。……東領からの来訪者よ、前方に低山が見えますか? あの斜面を超えた先が、幽湖です」
少しだけ速度と高度を落とし、薄黄色の衣をなびかせて低山へと向かっていく。その頂の先に現れた光景に、アウランティウムは息を呑んだ。
深く深く、蒼天と宙天の境目を映したような、純粋な青。どんな美しい鉱物の青さえ霞むような、生命を許容し抱擁するかのような、原初の一色。
ソル・カダヴェの五領の中で最高の透明度を誇る湖が、水面も静かに少年を待ち受けていた。
一際高い山の頂に降り立つと、キオネは背に乗ったままのアウランティウムを見上げた。
「なぜ幽湖と呼ばれるか、ご存知ですか?」
「いいえ」
「ここは四方を尾根に囲まれた地形上、雲が溜まりやすいのです。盛夏に移るにしたがって、このように湖の全貌をはっきりと拝むことは難しくなってくる。今日は本当に運が良いのですよ。……もっとも、雲の湧く早朝の景色もまた素晴らしいものですが」
そう言い置いて、巫女は鼻先で湖の中央を指し示した。
「そしてあれが、央領の神獣が住まう場所。央領の“原初の五樹”です」
中央に一つだけ浮かぶ小島に、黄金の葉をつけた大樹がそびえていた。澄み切った深い青に、輝きを放つそれは鮮やかに映える。
「あの場所に行くことを許されているのは、央領の神獣の巫女と、それが許した者のみ。他の何者をも、湖に入ることすら、許されません」
故にこうして背に乗せてきたのだと明かす。湖を囲う急勾配の斜面には木々や草花が生い茂り、何者をも湖には寄せつけまいとする意志が見えた。そもそもこの場所は獣たちが住む場所なのだ。今こうしてキオネが山頂の地を踏んでいることも、彼女が巫女だから許されていることである。
「……東領の霊峰も、そうでした。巫女の許しなくしては、山に入ることすら許されない」
「南領も、北領も、西領も同じです。“原初の五樹”とは、神獣とは、軽々にお目にかかれるものではございません。巫女の目は常に獣に立ち、慎重かつ厳重でなければならないのです。……この意味が、わかりますね」
「……はい」
流石に項垂れた少年に、キオネは一つ息をつく。背後から翼の音が迫ってきたのはその時だった。
「ふふ、思ったよりも早い到着でしたね」
「ウィリィ!」
隣に滑り込んだ少女は、ぜいぜいと荒い息を吐きながら、顎から滴る汗を獅子の前肢の甲で拭う。天馬の上から差し出された水筒をもぎ取るなりぐい、と一気飲みして、細めた瞳でキオネを見上げた。
「試し、ました、ね」
「当たり前でしょう。辿り着けないのなら偽りあり、追いついてこられないのなら器なしと見なします。貴女方がお会いになる方をどなたと心得ますか」
何食わぬ顔で鬣を振るわせる巫女に返す言葉もなく、ウィリディスは膝を叩いて立ち上がった。「では、参りましょう。これより先、くれぐれも無礼なきよう」