2-5 初夏月/居待②
昼過ぎに帰宅したウィリディスは、玄関先まで迎えに出たアウランティウムに一つ頷くと、共に出てきたフォルガの前に立った。
「兄上」
「なんだい?」
妹のいつになく真剣な表情に、フォルガの瞳が楽しげに光る。
「今日の残った時間を全部使って、私に稽古をつけてください」
一拍おいて、愉快極まりない、といった笑い声が丘陵に響く。
「良いよ。可愛い妹の悪あがき、付き合ってやろう」
気絶するなよ。そう笑う兄の前で、ウィリディスの背中に鷲の翼が顕現した。獅子と化した腕、鷲と化した足で、十歩下がる。
「〝神の小鳥〟殿、下がっていると良い」
「……はい」
軒下まで下がったのを横目で確かめ、フォルガもまた身を屈める。片前肢が地面についた瞬間、背中の翼がより大きく羽ばたき、体つきも猛禽類の前肢も獅子の後肢も、より逞しく変化する。骨格ごと変わったかのように四つ足で立つ姿は、外見だけ見れば本物の獣のよう。幻獣グリフォニアの堂々たる姿を想像させるその姿で、フォルガは
高々と鳴いた。
「いきます!」
「来い」
ウィリディスの鷲の足が鋭く低く地を蹴った。
「ウィリディス、大丈夫ですか」
「だい、じょ、ぶ、です」
返ってきたのは消えそうな声だけで、ベッドの上に俯せになった身体はピクリとも動かない。
「徹底的にやられてましたね」
「あ、たり、まえ、です。兄、上、です、から」
ウィリディスが向かっていくのを文字通り鷲掴んでは投げ飛ばし、鷲掴んでは投げ飛ばし。抱えて宙から叩き落とすわ獅子の後肢で容赦なく蹴飛ばすわ、首を地面に押さえつけた時は流石のアウランティウムも悲鳴を上げた。日が暮れるまで繰り返された稽古らしきものは、少年の目にはウィリディスをこれでもかと痛めつけたように見え、実際終了を兄から告げられた彼女は大地に崩れ落ちた。結局兄に背負われ自室のベッドに投げ出されたわけだが、当の本獣はこれを非道だとは思っていないらしい。
「これでも、だいぶ、ましです。昔は、それこそ、起きたら、朝、でした」
傷打撲だらけで数日動けなかった日々に比べれば、ずいぶんと逞しくなった。
それからしばらく、アウランティウムは無言で窓の布を降ろし、蝋燭を灯して回り、薬草で作った湿布を貼り、できる範囲で腕や足や髪を拭いてやった。洗面所との何度目かの往復を終え、先に湯をもらい、上がった後で使用人が持ってきた食事を傍で摂る。
「食べられますか」
「はい……っしょ、と」
のろのろと時間をかけて起き上がり、ベッドの端まで寄っていって、顔をしかめながらそっと足を降ろす。フォルガの指示か、夕食は少し冷ました鶏野菜スープに茶漬けのようなご飯で、少年が器を持ってやり、片腕だけを動かしてゆっくりと口に運ぶ。空になった食器を、これもアウランティウムが指示通り廊下の机に置いた。
彼がベッド際に戻るのを待ち、ウィリディスは水を飲み干してから、まだ端の痛む口を開いた。
「アウランティウム」
「はい」
「私は、このとおり決して強くはありません」
少年が返事をしかねて口を引き結ぶので、苦笑が零れた。
「貴方はチーシェで言いましたね。『〝神の小鳥〟であることは、産まれた瞬間から定められてて、誰にも肩代わりできない』と。状況も環境も異なりますが、似たようなものです。私が奇形の半人獣として生を受けたことは、誰にもどうにもならないことです。きっと、人獣が本気でかかってきたら、私の勝率は五分以下です」
それはどれだけ鍛えても埋まらない、生まれついての差なのだと、ウィリディスは淡々と事実を述べる。
「ですが、それが、私として生きることを、諦める理由にはならない。私は、そう信じています」
アウランティウム。
蝋燭の灯りを頬に受けながら、ウィリディスは東領の〝神の小鳥〟に向き合う。
「これから先、貴方には何度も、こうして手当をお願いするでしょう。嫌悪、嘲笑、侮蔑、様々な視線が降り注ぐでしょう。私と行くということは、そういうことです。それでも」
黄金の瞳が、朱の瞳を覗きこむ。
「それでも、貴方は私を守護獣にするつもりですか?」
「はい」
間髪を入れない、まさに即答だった。アウランティウムの両手が、再びウィリディスの猫の手を取る。昨日と異なり毛並みの乱れきったそれを、大事そうに握った。
「僕は、ウィリディスが良い」
泣きそうな顔でくしゃりと笑った彼に、吐息を一つ返す。そしてウィリディスは腰を上げると、制止の声をおして彼の傍に片膝をついた。
「ではこのウィリディス、守護獣として、貴方と貴方の旅路を守りましょう。――いつか、貴方が信頼するに足る人獣が現れる、その日まで」
朱の瞳に刹那宿った薄闇を、ウィリディスはあえて見ないふりをした。噛みしめるようにしばし目を閉じて、それからアウランティウムはしっかりと頷いた。
「はい。よろしくお願いします。ウィリディス」
就寝前、執務室に呼ばれたウィリディスたちは、幽湖・マーシの巫女の許可が下りたことを告げられた。
「東領で無様を晒せばクシュオの地を踏むことは許さぬ。心しておけ」
「はい」
退室際に至って初めて自分に放たれた言葉に、ウィリディスは深々と一礼した。
* * *
初夏月/居待
ウィリディスが守護獣になることを承諾してくれた。本獣はまだ自分が臨時の守護獣だと思っているみたいだけれど、僕は彼女を手放すつもりはない。でも、それでも、今は、充分だ。
フォルガさんもやっぱり、少しだけウィリディスに似ている。兄妹ってやっぱり似るものなんだろうか。一人っ子の僕にはわからない距離感が、二獣にはあった気がする。フォルガさんは州司の長男だから、やっぱり色々知っているみたいだった。それでも、ウィリディスのお兄さんなだけあって、話している間はそんな素振りを全く見せず、僕をちゃんと見てくれていたように思う。央領に〝神の小鳥〟が産まれ旅立つ時、彼が守護獣として傍にいれば、きっと幸せだろう。
明日はいよいよ、央領の神獣に会う。どうか、ウィリディスを守護獣として東領に連れて行くことを、了承してくれますように。
追伸。ウィリディスが「その話し方は本来の貴方の話し方ではないでしょう。普通に崩して良いですよ」と言ってくれたので、お言葉に甘えることにした。ちなみにウィリディスのあれは素らしい。それから、フォルガさんがウィリディスのことをウィリィって呼んでいるので、真似をしてみようと思う。ウィリィはあんまり、「アウラ」って呼んでくれなそうだけれど。そのうち呼んでくれたら良いなと思う。