2-4 初夏月/居待①
翌朝食卓の席には鋭意制作中のキュルテルだけでなく、ウィリディスの姿もなかった。目で探し求めるアウランティウムに、フォルガは食事の手を休めて笑いかけた。
「ウィリィなら御師さんのところだよ。安心しなさい」
「……御師さん?」
「俺とウィリィに勉強を教えてくれた人獣さ。クシュオでもそれなりに名の知れた知恵者でな」
日が昇る頃に家を出たという。
「僕には、何も」
「まぁ、うちに居れば早々危険がないと判断したんだろう。父上も俺も、今日はどこに行く予定もないしな」
そうでしょう? と話を振ってみれば、短い返事が返ってくる。それから彼の父は、思い出したかのように続けた。
「フォルガ」
「はい」
「昨日の指示は、撤回する」
「わかりました」
アウランティウムは、当然のように頷く若きグリフォニアをまじまじと見た。
「何かな」
「……いえ」
「あなた、まさか」
瞳を揺らして問う夫人に、州司は重々しく頷く。
「あれを、〝神の小鳥〟につける」
ひゅ、と鋭く、彼女の喉が鳴る。
「気は確かですか……! あの子が守護獣だなんて、央領の恥を曝すだけでなく、東領も荒れます!」
「ドミネ」
涙を滲ませ訴えかけるのを、名で制す。
「故に、神獣に会わせるのだ」
なるほど、とフォルガが爪を打った。
「神獣が認めたなら、少なくとも央領は何も言いませんね」
「無論、否であれば、それも央領の総意となる。……良いな、東領の〝神の小鳥〟殿」
鋭い視線を向けられて、アウランティウムは神妙に頷いた。
「はい」
州司の家から更に北、獣も多く生息する森の一角に、間借りするようにその家はある。例によって板の橋を渡ってきたウィリディスを、梟の師匠は扉を開けて出迎えた。
「ご無沙汰をしております、御師さん」
「はい。また背が伸びましたねぇ」
「……いえ、それほどは」
肩の辺りから見上げてくる老梟に応えながら、ウィリディスはむしろ、と思う。むしろ、御師さんが縮んだのではないだろうか。
「突然押しかけてすみません」
「大丈夫、今日はお休みですから」
「……すみません」
いえいえと翼を振る老師に促され、木造りの家に上がらせてもらう。
「朝食は?」
「軽く食べてきました」
「軽くでは足りないでしょう。私はちょうどこれからなので、お付き合いいただけませんか?」
そう言いながらてきぱきと運んできたパンやサラダの量は、どう見てもきっちり二人分。頭の上がらないウィリディスを椅子に座らせ、老師は木のテーブルにそれらを並べていく。
「昔から、ウィリディスはよくお腹を空かせてやってきましたからねぇ。もう癖のようなものです」
「お恥ずかしい限りです……」
恐縮の彼女にホホホと笑い、老師もテーブルに着く。
食事の合間に語られるウィリディスの話に、梟は静かに耳を傾けた。皿がすっかり空になり、洗い物を二獣で片付けて、森へと散歩に出る。板の上を歩く梟の隣を、ウィリディスも静かについていく。
「確かに、ウィリディスとフォルガ様にお教えしたことは異なります。特にフォルガ様は将来の為政者であり、守護獣の候補者でもありますから」
日差しが点々と板を照らす、その上にゆっくりと足を降ろしながら、師は語る。
「一方ウィリディスには、この世界で半人獣として生きていくための知識が必要でしたからね」
「はい。御師さんのおかげで、私は用心棒ができています」
力強く頷く彼女に微笑みかけ、梟は翼の先で嘴の端を擦る。
「しかし、フォルガ様よりも先に、ウィリディスが守護獣になるとは、流石の私も想像つきませんでしたなぁ」
「御師さん、私はまだ、アウランティウムの守護獣になるとは言っていません」
すかさず言い返すと、梟は、はて、擦る翼を止めた。
「ならないのですか?」
「え」
「守護獣」
さも意外であるかのように問われて、ウィリディスの方が困惑する。
「だって、御師さんが言ったとおりです。私にあるのは、半人獣として、用心棒として、生き延びていくための知識と知恵と腕だけです。守護獣としての心構えも知識も生き方も、何一つ知らない。アウランティウムの役目に障りが出ます」
翼を組んで必死の訴えを聞いていた梟は、くるり、と首を傾げた。
「ウィリディスは、〝神の小鳥〟を守りながら東領の保護センターまで送り届けるんですよね?」
「はい」
そこまでは違えないと、心に決めたこと。それなら、と学びの師はウィリディスに向き合った。
「それならなおのこと、守護獣の話を受けた方が良いですよ」
なぜなら、と翼の先を顔の横で立てる。かつて、ウィリディスに教えを説く時に、よくしていた仕草だった。
「それが、理由になるからです」
「……理由?」
「はい。東領の者たちは、央領の半人獣が東領の〝神の小鳥〟を連れ歩くことに、良い顔をしません。理由を求めたがります。けれど、今のウィリディスは『己で決めた』という以外の理由を持ちません。それ以上、例えば『東領の〝神の小鳥〟は東領で保護するのが筋だ』という程度の理由であっても、提示されれば貴女の立場はあっという間に危うくなる」
そのための、『肩書き』です。翼の先の羽根が、ウィリディスの鼻先を指す。
「守護獣は、〝神の小鳥〟の傍にいて当然なのです。誰も異を唱えることができません。『守護獣だから』それほど貴女の決心に沿う理由は、ないのですよ」
大義名分、というやつですよ。嘴に笑みを乗せて、老師は教え子に告げる。
「お受けなさい、ウィリディス。貴女の誇りを貫きたいのなら、この申し出は渡りに船です」
「御師さん……」
老いてなお思慮深い色を宿す、丸い金の瞳を、似通った黄金の瞳で見返す。木々の間を渡る風が運ぶ新緑の香を、目を閉じて胸一杯に吸い込むと、ウィリディスは両の頬を前肢の平でポンと叩いた。それから、偉大なる恩師に深々と頭を下げる。
「ありがとうございます、御師さん」
「励みなさい、ウィリディス。貴女が貴女のままであることが、おそらく〝神の小鳥〟の光になります」
はい。
心の底から出た返事に、梟はにっこりと笑んで頷いた。