17日目 登る女
月曜日。
例の空き地に差し掛かった俺は、伏せ気味の姿勢から低く視線を巡らせる。
……居ない。
朝からあの女の姿が無いのは出会ってから初めてだ。
代わりに茶色い毛玉がワシワシと動き回っている。
犬だ。
茶色いトイプードルが、何かを見上げながらキャンキャンと吠えている。
伏せた顔を上げ、犬が見上げる先に視線を送ると、例の女が塀の上にしがみ付いてブルブルと震えている。
……何があった。
「どうしたの」
「社畜さん! ねえ、そのワンコどうにかしてくれない?!」
トイプードルは尻尾を振りながら女にキャンキャン吠えたてている。
塀によじ登っている不審な女。
そりゃ犬も吠えようというものだ。
「こいつ、この辺を散歩してるのをよく見かけるよ。首輪が抜けたか何かで逃げ出したのかな」
茶色い毛玉を抱き上げると、興奮して震えながらキラキラした瞳を向けて来る。
……いたたまれなくなった俺は思わず目を逸らす。
「こら、舐めるなって。ご主人様はどこ行った?」
中々に人懐っこい犬である。
道を見るが飼い主の姿は見えない。
「待ってれば飼い主が探しに来るかな。ほら、この子凄くいい子だよ」
「あ、ちょっと、近付けないでよ!」
女は塀にしがみついて震えている。
「君って犬派じゃなかったっけ」
「そ、そうだけど。ほら、動かない犬とかなら大丈夫なのよ」
「それ、なんか怖いことになってない?」
しばらく俺の腕の中でモゾモゾしている犬に女も興味がわいてきたのか。
ジッと犬を凝視する。
「……随分人懐っこいわね。触っても大丈夫?」
「ああ。ほら、遊んで欲しがってるだろ」
女は塀の上から恐る恐る手を伸ばす。
犬はふんふんと鼻を鳴らしながら、顔を近付ける。
「……この子、噛まないよね?」
「それは分からないけど」
「噛むのっ?!」
女が手を引っ込めたその場所を、カチンと音を立てて犬が歯を鳴らす。
「こいつ今噛もうとした! やっぱ犬は畜生だ!」
「急に動いたら、反射で噛みつくよ」
「猫畜生なら噛んだりしないじゃん」
畜生言うな。
「噛むし引っ掻くよ。大抵の動物は噛むから」
「そうなの? ハムスターとかなら噛まないでしょ?」
「メッチャ噛むって。あいつ、餌と飼い主の区別つかないし」
「ハムスターってひまわりの種を食べて生きてるんじゃないの……?」
「ひま種はおやつ程度に済ませないと身体に悪いよ。エサは基本ペレットだし、奴ら油断すると肉も食うから」
「……肉?」
「他のハムスターとか」
「ひっ!?」
女は思わず小さな悲鳴を上げる。
「つまり……私は犬に食われるの……?」
「食われないって。いいかい、若い女性はむしろ他の異性に捕食される心配をしないと。……あ」
リードを手にした年配の女性が、焦った様子で現れた。
「すいませーん、探しているのはこの子ですか?」
無事に犬を引き渡すと、俺は塀にしがみ付く女の所に戻る。
「おはよう、今日もいい天気だね」
「……おはよう。それはそうと、降りるの手伝ってくれないかな」
手を貸して地面に降りると、女はコホンと一つ咳払い。
「あ、ありがと。あの……私、実は社畜さんに秘密にしてたことがあって」
「秘密? どうしたの、改まって」
「私、実は猫派なの」
あーうん、なんかそんな気はしてた。
俺が時間を気にして腕時計を見ると、女は気遣わし気に俺を見てくる。
「そういや週末、ちゃんと休めた?」
「んー、まあそうだね。色々と片付いたかな」
俺はそう言うと、足元に落ちていた空瓶を女に渡す。
「ねえ、明日もここにいる?」
「台風が来ない限りはいると思うけど。どうかした?」
瓶を受け取りながら女は首を傾げる。
「ちょっと気になってね。それじゃ、行ってきます」
女は瓶を掲げると、笑顔で手を振る。
「それじゃ、行ってらっしゃい社畜さん」




