目覚め
重苦しい暗黒のベールに覆われたような人里離れた森の中。
辺りは静寂が支配しており、木の葉のせせらぎさえも聞こえない一面の闇。
身じろぎひとつしない木々の根元に、少年の体は横たわっていた。
・・・・・・。
はあ、はあ、はあ…。
頭が…熱い…。
身体を横たえたまま、熱を帯びた額に手をやると、ぬるっとした感触があった。
ほんのりと暖かい。
ふとその手を見やると、まるでゴム製の手袋を身に付けたかのように真っ赤に濡れていた。
それが夥しい量の血液だと認識するのに、ほんの数秒だろうか意識の間が空いた。
一体この身に何が起きたのだろうか。
ぼんやりとした頭のまま、首だけを動かすように周りを見渡す。
目の前には、苔むした黴臭い土と世界を断ち切るように横に生えた樹木。
何かがおかしい。
もしかして世界が崩壊して傾いてしまったのではないかと、一瞬本気で思った。
いや、倒れていたのは自分なのだと、数秒後に遅れて理解する事ができた。
一体何が起きたのか。
何故、僕はこんなに怪我をしているのか…?
頭が混乱している。
自身が置かれている現状に錯乱状態になり、冷静に考えられない。
心臓の鼓動に併せて呼吸が早くなる。
耳に意識を集中してみるが、何も聞こえない。
全身の周囲を目に見えない厚い膜で覆われているかのように周囲の音は遮断され、聴覚からの情報は何もなかった。
キーーーーーーン。
頭の中では音にもならない耳鳴りが鳴り響く。
また視線を落とす。
手を見やると、血に濡れた真っ赤な手が震えていた。
それは恐怖からなのか、体温の低下が原因なのか…それすらも分からない。
はあ、はあ、はあ、はあ……んぐ、ぐ。
息を呑み、初めて自身が唾も飲み込めないほど喉が乾いている事に気づく。
改めて状況を確認するため、必死に首を動かす。
森の中、地面に倒れていた少年は体を横たえたまま、首を動かして周囲を探った。
ふと目を横に向けた時、ついに“それ”を見つけてしまった。
無残にもズタズタに引き裂かれ、傍に横たわる肉片を。
つい先程までは…父親であった残骸を。
父の遺骸の上には覆い被さる巨大な影が小刻みに揺れている。
それは狂ったように父の死骸を貪る魔獣の背中だった。
少年はその光景をただ呆然と見つめていた。
辺りに父の肉片と鮮血が飛び散り、自身も泥と血で汚れていた。
それは自身が流した血なのか、父の返り血なのか、それすら判別出来ないほど酷い有り様だった。
少年の虚ろな視線の先には、どこのものともしれない臓物の一部がぶら下がった木の枝。
臓物は赤い鮮血を滴らせながら、振り子のように一定のリズムで揺れていた。
薄暗い森の中はしんと静まり返り、風の音さえ聞こえない。
魔獣のくちゃくちゃとした不快な咀嚼音と、ぐるぐると濁った呼吸音だけがこだましていた。
「あぁ父さん…父さん。なんでこんな事に……」
立ち上がる事も出来ずにいる少年の脳裏に、断片的な記憶が蘇る。
数刻前の出来事を思い出していた。
魔獣に襲われ、気を失い今に至るまでの、忘れたままでいたかったほどの忌まわしい記憶。
口腔から喉奥へ血液が流れ込んでくる。
口内に錆びた鉄の臭いが充満する。
少年は慟哭をあげた。
だが声は掠れ、悲痛な叫びは声にすらならず、嗚咽へと変わりひゅーひゅーと風切音が空しく響いた。
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この日は、サン・ジェルマンの15回目の誕生日だった。
彼が暮らすのは、ルワルナ国の辺境に位置する寂れた農村ワラビー村。
人口は100人程度。
20世帯ほどが暮らすこの小さな村には、名産と呼べるような物もなくルワルナ国が発行する地図にすら載っていない。
世界から忘れ去られたかのような、平和で長閑なだけが取り柄の小さな集落である。
サンは父親であるサムバと二人で暮らしていた。
このワラビー村には、15歳になると行わなくてはならない、ある風習が存在する。
一人前の狩人として認められるために裏山の神聖な森で狩を行うのだ。
己の知恵と力のみを使い、一人で獲物を捕獲する。
いつからなのかはわからないが、かなり古い風習のようだった。
引率には村の戦士が一人つく事になっていた。
狩猟方法に制限はなく、弓や罠を使うも自由。
狩猟犬などの獣を使う事も自由。
つまりなんでもありなのだ。
獲物はラパンバードなどの小動物でも、フォレスト スライムといった小型の魔物でも良しとされる。
この時期の一般的な獲物としては、ワラビー村周辺に多く生息しているラパンバードだろう。
ラパンバードとは、大きな耳が特徴の空を飛ぶ兎科の生物である。
獲物は村の祭壇に供物として奉納され、残りを皆で分け与えて宴を催すのだ。
新しく成人した狩人を、村の一員として歓迎する古くから伝わる伝統的な習わしである。
100名の村人が参加する宴である。
数量でもいいと言われてはいるが、やはりそれなりの収穫量が必要となってくる。
大人として認められるための通過儀礼という訳だ。
サンの父であるサムバは、村で一番の猟師だった。
普段から森に入り、得意の罠と弓を駆使して幻角鹿や紫熊を一人で狩るほどの凄腕の猟師だ。
その父がサンの引率をする事となった。
強くて誇らしい父はサンにとって自慢の父親で、彼のような立派な猟師になる事が彼の目標であった。
季節は火蜥蜴の月、十三番目の日。
運命の日である。
闇を切り裂いて朝日が昇る。
その日は、朝からいつもと違っていた。
夏もとうに終わりだというのに、強い日差しがギラギラと降り注ぎ、容赦なく肌を照りつける。
例年であれば、気温も落ち着きを見せはじめ、肌寒さを感じる時期である。
父が前夜から弦を張り替えてくれた弓を肩に担ぎ、腰には小振りなダガーを携え、背中には獲物を入れるための籠と矢を十本ほど背負い、サンとサムバの2人は、早朝から狩りへと繰り出したのだった。
昨夜は興奮から中々寝付く事が出来ず、体調は万全とは言い難い。
「お父さん。今日は沢山大物を捕まえて、村のみんなをびっくりさせましょうね」
無邪気にはしゃぐ息子を愛おしく見つめるサムバ。
「そうだな。」と、サンのさらさらとした頭を撫でた。
サンは幼い頃から、その綺麗な顔立ちから女の子と思われる事が多かった。
泣き虫で、優しい性格も手伝って、この閉鎖的な村では「男らしさに欠け、村の戦士として将来が心配である」と、そういう評価であった。
同世代の男児からは、よく女々しいとからかわれたものだった。
男手ひとつで育ててきたサムバにとっては、サンは希望であり、全てであった。
ここらで一つ、男らしい部分をアピールして周囲の鼻を明かしてやろう、そんな思惑もあった。
意気揚々と散策を続ける二人。
しかし、父のサムバは散策を続けるうちに、いつもとは違う森の異様さに気づく。
周辺は異様な静寂に包まれ、近くに生き物の気配がまるで感じないのだ。
この森での狩に慣れたサムバにとっても初めての出来事で、妙な胸騒ぎを覚えた。
普段であれば感じる事の出来る、煩いほどの虫の声、むせ返るような緑たつ香りに微かに混じる獣の香り、それらが一切無いのである。
獣は基本的に自らの痕跡を消す修正がある。
泥を体に擦り付けて自らの匂いを消し、周囲と同化させて暮らしている。
だが、それでも生きている限り、全ての痕跡を断つことは出来ない。
狩人は、その微かな痕跡を頼りに獲物を追うのだ。
サムバは、なんとか獲物の痕跡を探そうと目を凝らして周囲を探った。
足跡、糞、彼らが通った後である獣道、食事の痕跡。
どんなに目を皿のように凝らしても、獣の痕跡は見つけられなかった。
小動物の糞や足跡を見つける事は出来たが、いずれもかなりの時間が経過しており、それらは近場には獲物が存在していない事の証明でもあった。
だが、今日は大事な息子の晴れ舞台だ。
余程の大物を捕獲しないと、村の連中に格好がつかない。
この焦りが、判断を狂わせた。
焦ったサムバは、普段は足を踏み入れないような森の奥まで歩みを進めていた。
サンも不安になりながらも、父の後ろをついて行く。
気がつくと、辺りはすっかりうす暗くなり、ワラビーミミズクの鳴き声が遠くからこだまする。
「ワラビーミミズクの声か…不吉だな…」
ホロロー、ホロローと鳴り響く、薄気味悪い声に反応するように、サムバが顔を歪ませる。
ワラビーミミズクは、この森周辺で独自の進化を遂げた、鮮烈な朱色の羽を持つフクロウの一種である。
その血を連想させるような鮮やかな色合いから「森で出くわすと不吉な前触れ」と昔から云われている。
ただの迷信だ。この日までは、サンもそう思っていた。
かなり奥まで来た所で、突如として開けた場所に出た。
直径50メートル程だろうか、円形状に綺麗に整備されている。
大きな木や石は根こそぎ取り除かれ、足下の草は不自然に枯れ果て、整地されていた。
自然現象ではあり得ない、明らかに人工的なものである。
周囲には2メートルほどの大きな巨石が、規則的に整然と並んで点在している。
サンが見上げるほどの大きい巨石である。
誰がどうやって運んだのだろうか。
それに巨石の配列は明らかに人為的なもので、どこか儀式めいたものを感じた。
巨石には一つ一つ文字が刻まれていたが、サムバとサンが見たこともない未知の言語であった。
「おかしいな…この森にこんな場所があるなんて、聞いたこともないが……」
サムバが訝しげに巨石に触れる。
その時、背後で気配を感じた。
ガザガサ、ガサガサッッ!!
初めて見る遺跡を、興味深げに観察していた二人の背後から、草むらを掻き分け一匹の魔物が飛び出してきた。
接近するまで気配を感じさせず、木陰から突然飛び出してきたため、完全に不意をつかれた形だ。
驚きのあまりサンは目を見開き、目の前の魔物を凝視した。
魔物の体長は3メートル前後。
四本足で立っていても二人を見下ろすほどの巨体である。
一見、狼のような風貌だが、ずんぐりとした分厚い体に不釣り合いなほど大きな頭がついている。
巨大で真っ赤な口は耳まで裂け、鋭い牙が不揃いに並ぶ。
全身は灰色の硬そうな毛で覆われており、背中には同じく灰色の毛で覆われた翼が生えていた。
額には鋭く太い黒光りした角が一本、天に向かって反り上がっている。
見るからに強い殺傷力を持った危険な角であるのが見て取れた。
「ま、まさか…サイクロンウルフか?!ありえない!なんでこの森に…。もっと北の雪原に出る最高ランクの魔獣じゃないか…」
サムバは咄嗟に腰のダガーを抜き、前に構えた。
「サン!お前はゆっくり下がれ!背中を見せずに…ゆっくりとだ…そして隙を見て逃げろ!」
サンは突然の出来事に驚嘆して声も出せずにいた。
父の言葉は聞こえていたが、全く足が動かない。
左手で震える膝を抑えながら、もっと震える右手で腰にかけていたダガーを手探る。
焦りから、なかなか探り当てる事ができない。
彼のダガーは、父が今回の狩のために誂えてくれたものだ。
すぐに取り出せるようにと、父が腰に備え付けてくれた。
だが、緊急時には中々冷静ではいられないものだ。
ようやく手探りでダガーに手をかけたものの、どう構えたらいいのかも分からない。
山菜や果実を採取するために森に入ることはあったが、本格的な狩の経験もなく、こんな大きな魔物を見ること自体が初めての出来事であった。
魔獣サイクロンウルフは、鼻先に突き出された得物にも一切躊躇することなく、涎を垂らしながら一心不乱にサムバ達に飛びかかった。
ドンッ!という鈍い衝撃音と共に、二人は強く弾き飛ばされた。
「うわあっ!」
魔獣の突進によりサムバの体は激しく飛ばされ、担いでいた矢と体は風船のように宙に舞った。
それでも突進の勢いは収まらず真後ろにいたサンも弾き飛ばされ、後方の大木に激しく叩きつけられてしまう。
呼吸が一瞬止まり、サンはそのまま気を失ってしまった。
……。
「ぐぼあっ!!」
どれほど気を失っていたのだろう。
突然、耳元で鳴り響いた叫び声にハッと目を覚ましたサンの目に信じられない光景が飛び込んだ。
まず飛び込んだのは苦しそうな父の顔。
視線を下げると、その胸には不自然に飛び出た黒い物体があった。
魔獣の角が父の背中に突き刺ささった瞬間であった。
背後から容赦なく突かれ、正面の肺の上あたりから先端が覗いていたのだ。
あまりの衝撃的な光景に感情が追いつかない。
恐らくは父が抵抗をしたのだろう、魔獣の首元にはダガーが浅く刺さったままなのが見て取れた。
だが致命傷には至らず、魔獣は全く意に介さない。
「さん、に…げ、ぐ…うっ!」
最後の力を振り絞り、逃げろと促すサムバの口からは大量の鮮血が溢れ、声が溺れている。
とにかく逃げなくちゃ、そう焦るが足に力が入らない。
魔獣が狂ったように頭を振り回す。
その度に、箒に絡まった雑巾のように振り回される父の身体。
激しく周りの木に叩きつけられた四肢は千切れ、見る見るボロボロになっていく。
飛散した鮮血が木々の幹を赤く色付けて行く。
目の前で行われる凄惨な光景を、成すすべも無くただ見つめる事しか出来ない。
あまりの無力感に涙が頬を伝う。
「誰か、誰か助けて。誰か…うぅ…」
動かぬ体を無理に這わせながら、ありったけの声で叫んだつもりだったが、もはや言葉にはならず慟哭は虚空へと吸い込まれる。
放心しながら「なんとかして早く逃げなきゃ。」そう思うも、足に上手く力が入らない。
いや、足の感覚さえもない。
?!
パニックになりながら、恐る恐る足に手をやるが、その手は虚しく空を切る。
腿の付け根から先、あるはずの足が無くなっているのである。
真っ赤に染まった生々しい肉の間からは白い骨が僅かに覗いている。
傷口からは夥しい量の鮮血が溢れ、一向に止まら気配はない。
気を失った僅かの間であろうか。足の腿から下を喰い千切られていたのだ。
「ああ、僕の足…そんな…」
混乱しながらも、無我夢中で腿の付け根を手で抑える。
止血のためなのか、自身でも理解していない。
何故、誰も助けに来てくれないのか。
サンは理不尽なこの世界を呪った。
ふと、自室の本棚に並んだ物語達を思い浮かべていた。
子供の頃から英雄を描いた童話が好きだった。
それらの主人公である英雄達は、世界を股にかけて飛び回り、どんなピンチにも駆けつけては魔物をばったばったと退治してお姫様を救い出したり、王国を危機から守ったりするのだ。
そんな英雄譚を夢中になって読み耽ったものだった。
あぁ、何故僕の元には英雄は現れてくれないのか…。
本の中の話だけで、現実には英雄なんてのは居やしないんだ。
諦めにも似た感情が心を支配して、暫し恐怖すら忘れていた。
そして、冒頭の場面となるのである。
しばらく放心していたのか、ふと、我に帰ると辺り一面が血の海となっている。
目の前には醜く歪んだ魔獣の顔。
鼻息まで温かく感じるほどの距離で唸り声をあげている。
世界までも飲み込んでしまうのではないかという大きな口を目一杯に開け、今にも自分を飲み込もうとしている。
真っ赤な口の周りには、不潔そうに黄ばんだ牙が不揃いに並んでいた。
そう、ここで冒頭の現在に至るというわけである。
サンの全身を、絶望感が支配していた。
悔しさで涙が止まらなかった。
体を横たえたまま、震え続ける歯を無理に噛みしめる。
彼は全てを諦め、ぎゅうっと強く目を瞑った。
このまま死ぬのだろうと、半分死を受け入れてさえいた。
永遠とも思える暗闇の中、ふわっと風が駆け抜けた気がした。
ふんわりと花の匂いを運んできた風が、さあさあと辺りの木々を揺らし、血と泥で額に張り付いていた前髪がさらさらと流れた。
恐る恐る、ふと目を開ける。
眩い光がそこにはあった。
……ま、眩しい。
直視できないほどに煌々と輝く光の中に、うっすらと浮かび上がる、一つの人影。
背中には翼のような影が見える。
これは…女神様?
素直にそう思えるほど神々しく、眩い逆光の中にその人はいた。
いや、正確には神でもなければ人でもなかった。
雪のように白い肌、背中には対照的な漆黒の翼。
腰まで届くほどに長く、美しい艶やかなダークブルーの髪が風でたなびく。
胸元までざっくりと開いた、漆黒の服を見に纏っていた。
服の隙間からは、豊満な胸の谷間が顔を覗かせている。
服の裾は長く、風でひらひらと舞い踊る。
一陣の風とともに颯爽と現れたその人は、美しい女性の姿形をしていたが、頭には小さな角が見え隠れする。
どうやら魔族のようであった。
魔族。
田舎の村で育ったサンでも、噂には聞いたことがあった。
純人族とは一線を画す種族で、高い魔力を有し、魔術の扱いに長けているとされる種族である。
太古の時代から、人間とは対立と衝突を繰り返してきた歴史があり、人間側からの印象では、漠然と残忍であるとのイメージが強い。
サンの好きな童話の中にも、大抵が悪役として登場していた。
全身から迸る魔力のオーラが立ち上る湯気のように全身を包み、体の輪郭をぼかしている。
サンはさらに目を凝らした。
背中から生えた黒い翼は非常に艶やかで、禍々しいほどに美しく、どことなく蝙蝠を思い起こさせる。
彼の熱い視線に気づいた彼女は、本当に女神のような優しい微笑みを浮かべ、すらっとした手をサンの元へ伸ばしてきた。
彼女の夜空のように濃いダークブルーの瞳に吸い込まれるように、サンもまた自然に手を伸ばす。
獲物を横取りされると思ったのか、サイクロンウルフがぐるんと矛先を彼女へと変え、その牙を剥く。
ちらりと横目で見る魔族の女。
「下がりなさい!」
パンッ。
魔獣の牙が触れるか触れないかの刹那の出来事だった。
彼女が大きく叫んだ瞬間、飛びかかったはずのサイクロンウルフが音も無く飛散した。
突然、風船が破裂したかのように文字通り弾け飛んだのだ。
原形を留めず、辺りに飛び散る血と骨と肉片。
もはや魔獣の姿形など、どこにもない。
微動だにせず、真っ直ぐにサンを見つめる美しい魔族の女性。
「私はイザベラ。怖かったわね、もう大丈夫よ。
だけど、このままでは貴方は確実に死ぬ。
なんとか貴方を助けたいのだけど…、時は一刻を争う。
もはや手段は限られてるわ。
貴方、私と一緒に呪われる覚悟はある?」
呪い?一体何を言っているのだろうか。
彼女からの突然の申し出に戸惑うサン。
だが、逡巡している時間はない。
食いちぎられた腿からは大量の出血で全身もぼろぼろ。
今にも命は尽きてしまうような逼迫した状況である。
他に選択肢などはなかった。
力無く頷く姿を見て、同意と受け取ったイザベラはサンの手を取り、おもむろに顔を近づけ、くちづけをした。
なんて綺麗な顔なんだろう。
自身が今にも事切れそうな時にも、サンは呑気にそんな感想が頭をよぎった。
イザベラの薄い唇と、自分の唇が微かに重なる。
ブウゥンッッッ!
突如として鈍い起動音が鳴り響き、紫色に光り輝く魔法陣が地面に現れる。
魔法陣はサンとイザベラの二人を中心に鋭い輝きを放ち、魔力が辺りに満ちていく。
周りに並立していた、巨石群も淡く輝き出した。
巨石の頭から、光の柱が天に向かって伸びていく。
その優しい光りに包まれながら、サンは生気が吸い取られていくような妙な脱力感と喪失感を覚えた。
あぁ、力が抜けていく。
だけど、なんだかいい気持ちだ。
身体が熱い。
まるでお風呂の中のような…。
薄く目を開くと、頭上には満月が爛々と輝いている。
普段よりとても大きく見える。まるで落ちて来ているようだ。
今夜は満月だったのか。このような状況にもかかわらず、頭に浮かんだのはそんな呑気な事だった。
次いで頭に浮かんだ台詞が、思わず口から出ていた。
「月が…とても綺麗ですね…。今まで見た中で一番綺麗だ…」
くす。と、イザベラが少女のように微笑んだ。
彼女もまた、頭上に輝く一際大きな月を見上げて呟く。
「そうね。もしかしたら、今なら手が届くかも知れないわね」
すぅーっと意識が遠のいていく感覚の中で、こちらを覗き込むイザベラの瞳が印象的だった。
綺麗だ。
サンは薄れゆく意識の中で、素直にそう思った。
これまでの人生の中で見た何よりも、誰よりも美しかった。
これほどまでに他者を美しいと思った事があっただろうか。
彼女のダークブルーだったはずの瞳の色は、いつのまにか真紅に染まっていた。
危険なほどに美しく、嘘みたいに妖艶に輝いている。
瞳の中に映る自分の顔に驚く。
今にも死にそうな状況だというのに、微笑を浮かべていたのだ。
緩んだ口元はだらしなく口角を上げ、その瞳はまるで待ち望んだ飼い主の帰宅を喜ぶ飼い犬のよう。
もし尻尾があるなら、ぶんぶん振り回しているに違いない。
「待ち焦がれたわ、この時を…。何せ、十の世紀を越えてきたんですもの」
甘く危険な香りに包まれながら、そのまま糸の切れた操り人形のように、深い深い眠りに落ちていった。