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東京メトロで隣に座ってきた抜髪症の老婆について

作者: 矢野祐

抜髪症とは、自分で自分の毛髪を抜いてしまう病気です。

原因は、ストレスやトラウマなどがあると言われていますが、本当の理由はよく分からないようです。

人によっては、抜いた毛髪を食べることもあります。

 私がいま嫌な予感がしたのは、生の魚が発するような、酸っぱくて、でもどこか乾いたような据えた独特の臭いが、乗ったばかりの東西線に漂っていたからではない。

 隣の老婆が前に持った、穴や染みが目立つ灰色のリュックサックの上に、白や灰色の30センチほどの毛髪が山積みになっていることに気が付いたからだ。

 私以外の車両の人らは気が付いていたのだろう。

 老婆ではなく、もはや私を信じられないような顔で凝視している。

 よく見ると、いまも老婆は、くたびれたニット帽の下の、白と灰色の長い毛髪を指で一本ずつ引き抜いては、抱いているリュックの上に落としていた。

 それはリュックから落ちて、もはや床にも散らばって、絨毯のようになっている。

 帰宅ラッシュのピリピリした東西線の中でも、私と老婆の周りだけがぽっかり空いていた。

 いつから乗っているんだろう。

 席を変えたいが、恐怖と気持ち悪さで身体が動かない。

 その長くてちりぢりとして細く白い、ツヤのない毛髪を、私に、ほんの少しも接して欲しくなかった。



 私は髪を肩を越えるほど伸ばすことはない。

 それは小学生から続いている、潔癖性の両親の方針であった。

 特に父は異常ともいえるほどの潔癖性で、髪が長い女性の近くには寄れないような人だった。

 成人して働くようになってからも、髪の毛が長いということは不潔である、というイメージは私から抜けることはなく、自分の意思でショートヘアを選んできた。

 私は父が望むような髪形で、清潔感をいまも重要視している。

 だからこそ、不潔感のある長髪で、しかも抜髪をする老婆など不快で気持ち悪いことこの上ない。



 老婆が立った。大手町で降りるのだろう。やっと解放される。

 しかし、問題はこの瞬間だった。

 立ち上がった老婆からは、ずっと彼女が指でつまんで抜いてきた、無数の白と灰色のちりぢりの毛髪がパラパラと落ちてきたのだ。

 もちろん、隣の私の方にもその毛髪は流れてきた。

 一瞬、息が出来なくなった。

 それで口を開けて息をしようとした瞬間、あの老婆の乾いたすっぱい臭いが肺を満たし、まるであの毛髪が喉に詰まったかと錯覚するような違和感で、吐き気を催した。



 もう我慢ならんと、同棲している婚約者にSNSで抜髪症の老婆の愚痴と、風呂の準備をしていて欲しいことを伝えた。

 車内には毛髪がまだそこかしらに落ちていたので、席を立ち、他愛もないSNSを送受信している間に自宅最寄り駅に到着した。


 玄関を開けると、家の中には風呂の湿った清潔な香りが漂っており、とても安心するとともに、老婆の毛髪がこびりついているかもしれない自分の洋服をその場ですべて洗濯機に投げ入れた。


 婚約者は今日の私の不運を慰めながら、

「でも、よく抜髪症なんて言葉、知ってたね。調べちゃったよ」

 と笑って言った。


 その時、なぜ私があんなにもあの老婆に嫌悪感を感じるのか分かった。

 思い出した。

 私も抜髪症だったのだ。

 だから潔癖性の父は必ず短くさせたがっていた。

 同族嫌悪だったのだ。

 それに気付いた瞬間、一気に吐き気が襲ってきた。

 夕飯の香りに気付いたが、今日は食べられなさそうだ。

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― 新着の感想 ―
[一言] 小説のようなエッセイで良いですね。(良いとか言っていい出来事なのかはわからないけれど。) 抜髪症というものの存在は私も知りませんでした。
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