修了検定です。
今日は、ようやく修了検定の学科の試験。修了検定は、平日の昼間なので、今日は会社を有給で休む。
会社の休みはなかなか自由にならないので、落ちるわけにはいかないから必死である。
こんなに勉強したのは、学生以来。
でも……これで、自動車学校の履修項目は半分終わったことになる。
修了検定が合格すれば、『仮免許』での路上授業。それがおわったら『卒業試験』。
まだ、先は長い。長いけれど、山口と会えるのは、卒業までだ。
あれから何回か送ってもらった。山口はとても親切だ。
でも――それは、私が同級生で、家が近いというだけのことなのだと思う。同級生として、それぞれの友人たちの近況を話したりするのが、楽しくて、懐かしい。でも、それだけだ。
一度は消したのに、また育っていく自分の気持ちが怖い。
山口は知らないだろうが、私は、この年になるまで男性と付き合ったことがない。仕事は男性が少なくない職場であるし、別に男性不信というわけではない。恋をしたことも、されたこともないというだけの話だ。
実は、学生時代、一度だけ山口に告白をしようと決意したことがある。
あれは、高校二年のバレンタインだ。
その年に結婚した姉が、すごく幸せそうで。それを見ていたら、自分も一歩踏み出せそうな、そんな気がして。玉砕覚悟で、チョコレートを作った。断られても笑顔で笑えるように、何度も笑顔の練習をした。
ところが。私は、当日に高熱を出して学校を休んだ。インフルエンザだった。
前の晩に用意していた手作りチョコなんて、いろんな意味で渡せるはずがない。
一週間、寝込んだ後……登校したころには、バレンタインは、すでに過去。
私は、告白を諦めた。縁がなかったのだ。
ずっとこっそり見に行っていた山口の陸上の試合も見に行くのをやめた。どうせ、山口自身は知らないことだったし、誰にも何も言われなかった。
高校三年生になり、クラスが変わって――山口にカノジョが出来たと聞いて、私はすべて忘れた。
ひょっとしたら、と、子供の頃に信じていた赤い糸。
でも、それは私にはないものだ。これ以上、この気持ちを育ててはいけない。
それに。
私は、ここに免許を取りに来たのだ。卒業すれば、山口にはもう会えない。懐かしさだけの交流は、卒業とともに、やがて消えてしまうだろう。
学科試験を終えると、試験結果が出るのは昼すぎだと告げられた。
学校内に食堂はない。コンビニか、喫茶店。もしくはラーメン屋、あとは定食屋だ。
学科試験を受けている人間はほとんど学生だ。友達がいるみたいで、連れだって歩いていく。
なんとなく世代の違いを感じてしまい、私はあまり若い世代が入りそうもない定食屋の暖簾をくぐった。
店内は、自動車学校の生徒ではなく、近隣の工場勤めの人間が多いようで、なんとなくホッとする。
カウンター席を陣取りながら、いつの間にか、定食屋で一人飯も平気になっている自分に、気が付いた。
若い頃は、一人で外飯なんてなんとなくできなかったけど、今は一人晩酌だってできる。孤独って、なれなんだな……と、私は、苦笑した。
「はい、生姜焼き定食、おまちっ」
目の前に運ばれてきた食事に手を伸ばしかけた時、店に一組のカップルが入ってきた。
腕こそ組んでいないが、肩が触れ合うほどに近い。
山口と、自動車学校の事務員の制服を着ている女性だった。年齢は二十五くらい。とても綺麗な子だ。
「あ、あっちあいているよ」
その女性は親しげに山口の腕をひく。その仕草にためらいがない。
二人は向かい合わせの席に座った。山口の顔は見えないけれど、にこやかな女性の顔を見るに、話がはずんでいるのだろう。
『恋人にしたい子はいる』
山口の言葉を思い出す。
そばにいる女性はとても美人で、お似合いだ。
「そうだよね」
思わず声に出して呟く。最初から分かっていたことだ。彼と私に運命の糸はないのだ。
つうっと、頬に何かが流れた。
私は慌ててお手拭きを顔に当てて、意識を生姜焼きに集中させる。
この期に及んで、ごはんを残そうとか思わない私は、やっぱり可愛くないなと、思う。込み上げる想いを流し込む勢いでご飯をかきこんだ。
味はほとんどわからなかった。
学科は合格していた。
午後の授業を受けて、明日の予約をする。
この学校は、昼と、夕方前に大きな休憩時間がある。今日は、もう私は受けられる授業がないから、予約をして帰るだけだ。
今度の実技からは路上運転なので、地図でコースを覚えないといけない。
冬になると仕事が忙しくなるから、学校に来られなくなる可能性が高い。失恋の痛みなど感じている暇はないのだ。
予約の端末を除くと、山口はやっぱり予約がいっぱいで、なんとなくホッとしながら、また山田を予約した。
「栗田さん、試験、どうだった?」
気さくに声をかけてきたのは、噂の山田であった。隣に、山口と、もうひとり別の指導員もいた。
ちょうど休憩時間なのだろう。
「はい。おかげさまで。また、よろしくお願いいたします」
私は頭を下げる。
「へえ、噂通りじゃん。ねえ、オレもたまには予約して」
ニコニコと知らない指導員が笑いかける。名札に『佐藤』とあった。
それにしても噂って何? 三十女が自動車学校って、そんなに珍しい?
「馬鹿いうな。栗田さんはボクの担当だから」
山田が佐藤に告げる。受けた授業の回数的には、そうかもしれない。
ここで、そんなつもりはないとか言うのは、さすがに失礼だろう。実際、山田の授業は丁寧でわかりやすいのも事実だ。
「あの、噂って何ですか?」
気になって口にする。
「ああ、それ、ボクが栗田さんの話をしたからって意味ね」
「……まさか、S字カーブでひっかかって、立ち往生したコトとかですか?」
ブッと、隣りにいた山口が噴き出した。
山田が咎めるように山口をみる。
「それは、けっこうありふれた話で、話題にもならないよ。栗田さんが美人だって話」
「はい?」
言われた意味がわからず、キョトンとする。
「自動車学校の先生は、車の運転だけじゃなくって、トークもお上手なのですね」
私は、ようやく笑みを返した。一応、客商売的なところもあるから、リップサービスってことなのかもしれない。
「山田さーん、ちょっと!」
事務室から、お昼に見た女性が山田を呼ぶ。
「あ、じゃあ、栗田さん、ごめんね」
言いながら山田は慌てて事務室へと走っていった。
「急げ、山田、内藤は待たせると怖いぞ!」
佐藤がその背に声を投げる。
「綺麗な方ですね」
私は女性の姿の方を見て、呟いた。胸がチクリと痛む。
「綺麗? ああ、まあそうかもな」
佐藤が首をすくめた。何か含むところがあるらしい。
「あーでも、内藤の本命は山田じゃなくて山口だから、そんなに気にしなくても」
言いかけた佐藤の頭を山口が殴る。そりゃ、人気指導員のスキャンダルを生徒に言っちゃダメだ。
私は苦笑いを浮かべた。佐藤の中で、私は『山田』を狙っている女に見えたようだ。
「私、別に山田さんを狙っているわけじゃないですよ?」
それに……山口の相手だってわかっている。
「大丈夫。誰にも言いません……って」
突然、山口に腕をつかまれた。
「違うから」
強い口調で山口はそう言った。射るような視線。胸がドキリとする。
「俺と内藤はなんでもない」
「おい、山口、そこまで熱くなるなよ」
「うるさい。おまえ、馬に蹴られろ」
ちょうど、休憩時間が終わるチャイムが鳴った。
山口は私の手を離し、背を向ける。
「なんなんだよ、いったい」佐藤が小さく呟いた。