再会しました
「これは学科の時間割。そして、こちらが実地の予約端末。時間と教員を選んで、予約してください。質問は?」
自動車学校の夕方の部の入校式が終わり、私達は女性職員の説明を受け、自由解散となった。
このあと、第一回の学科の授業が十分後に組まれていて、夕方コースはそれで終わり。夕方の入校式に出るのは、私のような社会人が多いこともあり、やや年齢が高めではある。まあ、それでもみんな大学生っぽい感じなので、私より若いのだろうなと思う。三十を越えて免許を取りに来る私のような人間はあまりいないようだ。うん。私もこの年になって免許を取りに来るとは思わなかった。
私こと 栗田結衣の勤めている会社は、半年後、少し田舎に移転する。今まで電車で十五分、徒歩五分という、すばらしい位置にあったのに、電車十五分さらにバスで四十分もかかる場所に移転する。
距離的には家から変わらないのだが、直接的にそこへ向かう交通手段がそのバスしかない。
方向音痴を理由に免許を取る気のなかった私だが、そうも言っていられなくなった。自動車通勤なら、家から二十分。遅くまでの就労を強いられることも最近は増えたから、そのほうが楽なのは間違いない。
実技は、明日以降にしか受けられない。当然、予約制だから、みんな列をなして予約をする。
とは、いえ。入校の資料に学科の時間割はあったものの、指導員について、全く説明はない。
どうすりゃいいのだと思いながら、私はコンソールを覗きこんだ。とりあえず、明日の夕方の予約可能な指導員の一覧を出してみる。
あれ?
ずらずらと並ぶ、名前の中に、見覚えのある名前。
『山口仁志』とある。
それほど珍しいという名前でもない。
まさか……と、思いながら。私は、つい懐かしさに、予約ボタンを押した。
やっぱり、そうだった。
実技の授業は、予約時に出た指定番号の車の前で指導員を待つことになっている。
私は、夕闇にかげり始めた黄昏の中、歩いてくるたくさんの指導員たちの中に、見知った顔を見つけた。
山口仁志、というのは、私の幼少期からの知り合いである。幼稚園から高校まで、いっしょだった。だが、特に親しいわけではないので幼馴染とはいえない。馴染んでないから。
すらりと背が高い。精悍な顔立ち。陽に焼けた肌。相変わらず人目を引く。私の他に駐車場には何人かの女性がいるが、ちらちらと彼に視線を向けている。予約がとれたのは偶然で、ひょっとしたら、大人気の指導員なのかもしれない。
彼は、小学生のころまではパッとしない感じだったが、中学生ぐらいから、グンと男っぽくなっていき、高校時代には、追っかけファンが存在した。ほぼ十年時を経た今でも、人目を引く容姿をしている。
「栗田結衣さんだね、山口です。よろしくお願いします」
「よろしくおねがいします」
教科書通りの挨拶をすると、彼は車の点検についての説明を始めた。懐かしさも特別さも何もない。
型通りの対応。私が同級生だとは気が付いてはいないのかもしれない。
ほんの少しだけホッとしながら、同時にちょっと寂しくも感じた。いくら、親しくはないとはいえ、名前くらいは覚えてもらっていると思っていたから、がっかりした。
自分の影の薄さを、しみじみと感じる。
「それじゃあ、車に乗ってみよう」
うながされ、私はドアを開けて、シートに座る。
とにかく、私は免許を取りに来たのだ。山口に会いに来たわけではないと、意識を切り替えた。
「シートベルトをして、エンジンをかけてみて」
にこやかにうながされ、私は、シートベルトをしようとして……止まる。目をやったさきに、ベルトが見当たらない。
「運転席は、右側だよ」
「あ、すみません」
左側の肩に目をやっていた私に、山口は指摘した。とても恥ずかしい。当たり前のことだが、運転席に座ったことは初めてなのだ。習慣って恐ろしい。
私は顔に熱が集まるのを意識しながら、シートベルトをしめた。そして、シートとハンドルの位置を確認する。
「栗田、結婚するの?」
エンジンキーを受け取り、差し込もうとしたら、突然、山口がそう口にした。
興味津々、といった視線である。
「へ?」
「違うの? 三十すぎて自動車免許取るって、たいてい、そんな理由が多いケド」
先ほどとは明らかに違う、ため口。私は思わず、山口の方を見た。
「同級生って、気が付いていたの?」
「バーカ。住所も年齢もこの書類にのっている。当然わかるだろうが」
ぶっきらぼうな口調で言いながら山口は「エンジンキー、差しこめ。時間なくなる」と促した。
私は手順通りに、エンジンをスタートさせる。ブルブルと車が振動をはじめた。
「結婚じゃないよ。相手もいないし。会社が移転するから取らないと困るの」
「ふーん」
山口はそれ以上、聞かなかった。興味もないのだろう。
私は、気を取り直し、緊張しながらゆっくりとサイドブレーキを戻して、おそるおそるアクセルを踏む。
「もう少し、アクセルを踏んで。怖がり過ぎ。前見ろ」
十年越えの再会ではあったが、旧交を温める余裕は私にはなかった。自動車の運転に必死だった。
「ほら、そこで曲がる。ハンドルをゆっくり。そう。怖がるな」
自動車学校の大きな直線をぐるりと回るだけのコースなのに、ずいぶんと私は疲労した。
「……それじゃあ、今日の授業は、ここまで。とりあえず、怖がり過ぎないように」
山口はそう言って、私の書類に印鑑を押す。
「ありがとうございます」
私は書類を受け取り、頭を下げると、がっしりとした彼の手が頭の上で、軽くはねた。
「がんばったな。また、次、予約しろよ」
山口はそう言って、ニッコリと微笑んだ。
会社から大急ぎで帰ってきて自動車学校についた私は、予約の端末を睨んで、ふうっとため息をついた。
本当に、あの日、山口を予約できたのは偶然だったようだ。次の予約は4回目の実技だが、山口はまた、予約済みだった。予約できるのは、原則、ひとり一つ。ただし。この自動車学校は、夜間料金がない。つまり、朝から晩まで授業は好きなときにできるから、予約さえ空いていれば、朝乗って、夜に乗ることもできる。そんなこともあって、夕方の時間だけ通っている私の場合、指導員を選んで乗ることは、まずできない。
明日まで待てば山口の予約は出来るけど、そんなことをしていたら、卒業できないかもしれない。諦めて、空いていた指導員を予約する。社会人は、毎日来られるとは限らないのだ。
今日は、学科と実技が一時間ずつ。学科は、日付と時間が限定されるから、優先でとる。
教室の席は、いつもそこそこ埋まるのではあるが、今回は、やけに若い女の子が多いな、と思いながら、私はあいていた端っこの席に座った。
すでに夕刻であるから、いつもなら、あまり女の子はいない時間なのだ。
女の子たちは、友達同士なのかウキウキしながら話をしている。
はて? と思うと、謎はすぐに解けた。
やってきたのは、山口だった。学科の担当の指導員は比較的年配者が多いが、若い指導員だって行うことがある。私は学科については、時間割しか気にしていないが、担当指導員もそういえば事務室の前に張り出してあるから、『人気の指導員』の『追っかけ生徒』も存在するのであろう。
教壇のすぐそばは、若い可愛い女の子たちが座り、なんかいつもとちょっと違う雰囲気で授業がはじまる。
取り立てて、何が違うというわけではないが、若い女の子がいるというと、それだけで男性生徒の方にも張り合いが出るのだろう。どこか、いつもより、みんなのやる気スイッチが入っているようだ。
山口はぐるりと見回して、通常通り授業を始めた。自動車学校の授業というのは、ほぼテキスト通りで、テキストを読みながら、解説を加えていくものだ。
なるほど、人気があるのは、顔だけが原因ってわけではないらしい。非常にわかりやすい。
「というわけで、制動距離は……」
説明を聞きながら、鉛筆でメモを書きこんでいく。どうせ向こうは、気がついていないだろうが、顔を合わせるのはなんとなく恥ずかしくて、私は、テキストに目を落としていた。
我ながら、自意識過剰だなと思う。
「雨の日というのはこのように……」
テキストを読み上げながらウロウロと歩いていた山口の足が、私の机の前でピタリと止まった。
「あ、ちょっとペン貸して」
ひょいっと、手が私の前に伸びた。
「え? あ、はい」
私は、思わず顔を上げて、筆箱を開けてペンをその手に渡す。精悍な顔が見上げた先にあって、思わずドキリとした。同時に若い女の子たちの視線も感じて、ちょっとぞわりとする。
「ありがと」
山口は、何事もなかったように教壇に戻り、ビデオの上映を始めた。
みなの視線がビデオに向けられると、私のペンで、何かの書類を記入しはじめるのが見えた。
何も、私のペンなんて使わなくてもいいのに。
つい、そう思う。
私と彼とに、運命の糸はなかったのだから。
幼稚園から、小学四年まで、私と山口は同じクラスだった。仲が良かったとは言い難いが、その縁の強さに私は、ひそかに運命の糸を感じはじめていた。しかし、その矢先の小学五年に別のクラスになった。運命ではなかったのだ、と思い、私はショックを受けた。
仲も良くなかったのに、変だと思われるかもしれない。でも、意識のどこかで、私は彼を意識していたのだと思う。
その後。同じ中学に入り、中学二年と、高校二年にもう一度同じクラスになりはしたが、男っぽく成長した山口は、クラスの人気者で、クラスの端っこで地味に生息している私とは、住む世界が違っていた。
高校になると、誰も私と彼が幼い頃、腐れ縁であったかなんて、知らなかったし、私達も言わなかった。
そもそも、クラスが一緒だけって、たいした縁ではなかったともいえる。考えてみれば、田舎の高校の話だ。同じ中学出身の同級生は他にもたくさんいたのだから。
私の目は、そのころでも、いつも彼を追っていたけれど、私の姿は、彼の視界には入っていなかった。
彼に彼女が出来たと聞いたのは高校三年のとき。
私は、全てを忘れることにした。
陸上部の山口は進学して、その後、実業団に入ったと聞いていた。家が近所だけあって、親同士は多少交流があるため、彼が怪我をして実業団をやめたというのは聞いていたが、自動車学校に勤めていることまでは知らずにいた。
今、こうしてこんな場所で再会したのは、運命ではなく、単純に近所だからという、それだけの理由だと私は知っている。
でも。
わかっていても、胸が騒ぐ。夢を見てはいけないと思う。
山口は、誰が見てもカッコいい。三十になっても恋人もいない私とは違うのだ。
授業が終わりに近づき、山口が各生徒に出席の認め印を押した書類を戻していく。
「ペン、ありがと」
山口が、私にペンと書類を渡してくれた。
あれ? と思う。
書類に、小さな黄色い付箋紙が張ってあった。
『バスで帰るなら、角のコンビニで待っていて』
そして、小さな文字でアドレスが書かれている。
終業のベルとともに、山口は女の子たちに囲まれた。
次の授業が待っている。真意を確かめる暇はない……私は、実技の授業へと向かった。