才能の開花
「はあ……はぁっ……!」
薄暗い森の中――。
自分の生まれ育った村の近辺にある森。
幼いころからの遊び場だったため、勝手知ったる森である。
さらに、相手は森を歩き慣れていない。
それが幸いして、後ろから追いかけてくる追手は未だこちらに追いつけないでいた。
息を切らしながらも、僕はこのまま走れば逃げ切れると思った。
しかし――。
「に、兄さんっ!」
僕の妹であるレイアは、そうではなかった。
僕が手を引いて多少は走れていたが、領主貴族の箱入り娘として育てられたレイアは体力の限界を迎えていた。
腰まで届くブラウンヘアーは汗で白い肌に吸い付いており、蒼い瞳には恐怖、悲壮、諦念の感情が垣間見える。
それに、屋敷を急いで飛び出したため、レイアの服装は白いドレスだった。とても走りにくいだろう。
森の枝などに引き裂かれてボロボロだが……。
「……きゃっ!」
疲労から、足がもつれたレイアは転んでしまった。
13歳の少女の、それもほとんどの時間を屋敷で過ごしてきたのだ、体力的にこれ以上走るのは難しかった。
「くっ!」
僕はレイアを背中に担いでまた走り出した。
走ってきた方角を見ると、真夜中であるというのに空は炎で茜色に染まり、遠くからは微かに悲鳴のような声がする。
――僕たちの育った村が燃えている。
いや、燃やされたのだ。
突如として現れた、紫色の鎧を着た武装集団『魔王軍』に。
掲げる黒い旗に描かれた紋章には、白い髑髏に金色の王冠が被さっている。
相手の規模は数千にも及び、地方の村である僕たちの村はまともな抵抗もできずに一瞬で奴らに侵略された。
領主貴族である父と母は最期まで領民の避難を行うと言った。それが責任だと。
……父と母は助からないだろう。
魔王軍に捕まれば、女は強姦され、男は惨殺され、子供は奴隷に売り払われる。
父と母は、僕たちを逃がした。途中で僕たちの護衛をしていた騎士たちは魔王軍によって殺された。
父と母、護衛の騎士たちのことを思うと、泣きそうになった。
けど、僕が泣くと妹のレイアが不安になる。
必死に涙を堪えて走り続けた。
◇◇◇
どれくらい走ったのか、震える足で、森の出口付近にまで来た。
この森を抜ければ、さすがに追手も来ないだろう。
「うっう、うぐっ……!」
レイアは、僕の背中で泣きじゃくっていた。
僕の首に巻かれたレイアの腕を、優しく撫でた。
「大丈夫、ここまで来れば追って来ないはずだ。」
とにかく、近くの村や街に行かなきゃ。
近くの街までは距離があるが、1日も歩けば辿り着くはずだ。
少し休憩してから出発しよう。
森の出口の前でレイアを降ろし、僕は木に体を持たれかけた。
「ひっく……くすん。」
レイアは膝を抱えて涙を流していた。
これから街までに川などがあるとは限らない。できれば水分を体外に出すのは避けたいが、泣き止めとは言えない。
僕はレイアの頭を撫でながら、泣き止んだら出発しようと考えた。
――ガサリ。
草を踏みしめる音が聞こえた。
音が聞こえた方に振り返ると、紫色の鎧を着た男が立っていた。
男は兜の面を上げて素顔をさらすと、レイアの方を見て下卑た笑みを浮かべた。
「ぐへへ、こんな上玉を見つけれるとはな……森の奥まで来た甲斐があったぜ!」
レイアは、がくがくと体を震わせ、僕の手を掴んだ。
最悪だ。
森に逃げ込んだ人は多い。そのうちの1人を追いかけてここまで来たんだろう。けど、この森の出口付近までは街から相当な距離があり、森自体も小さくない。僕たちのいるこの場所に来たのは偶然のはずだ。
そこにたまたま居合わせてしまったのだ。
そう、たまたまだ。偶然だ。運が悪かったのだ。
けど……こんなことがあるのか。
僕たちが、なにをしたっていうんだ。
「へへ、お嬢ちゃん、男を殺したら存分に可愛がってやるぜぇ」
男は腰に下げていた剣を抜きながらそう言った。
「い、いやぁ……!」
僕は、護身用に持たされた腰の短剣を抜く。
貴族の男児として、幼いころから剣術は習っていたが、実戦経験などなく、まして、15歳の僕が大人の、戦争を経験している男に勝てる可能性は限りなく低かった。
けど、何もしなければ僕は殺され、妹は目の前の兵士に犯され、果ては性奴隷として売られることだろう。
そんなの、認められない。
「お、やる気かクソガキィ! 男には興味ねぇ、おとなしく殺されりゃいいのによぉ……ははははっ!」
男は余裕の笑みを浮かべて俺を見ていた。
死にたいわけじゃない。
死ぬのは怖い。
けど、僕が殺されることはまだいい。
僕が絶対に許せないのは、妹を傷つけられることだ。
それだけは、死んでも阻止しなければならない。
僕の手を握っていたレイアの手を優しく解いて、男の前に立った。
「兄……さん?」
僕は後ろのレイアに優しく微笑んで言った。
「レイア、時間を稼ぐからお前は逃げるんだ。」
「……っ! い、嫌です! わたしは兄さんが死ぬなら一緒に死にます!」
「レイア。」
「絶対に嫌ですっ!」
レイアだけでも逃がしたかったが、その場から頑なに動こうとしなかった。
「へっ……兄貴を殺されて、絶望の中で犯されて、泣きわめく姿……想像すると最高に興奮するなぁ! ははははは!」
……さっきから不快なことしか喋らないなこいつは。
僕は、男を殺意を込めて睨んだ。
「あ?」
男の態度が急変した。
「なんだその目はぁぁぁ!」
捕食者が獲物から殺意を向けられる。
僕の態度が気に食わなかった男は、剣を振り上げて突進してきた。
男の剣が届く位置まで近ずくと、神経を集中させて相手の動きを注視した。
首を跳ね飛ばす勢いで剣が斜めに振り下ろされた。
一瞬背筋に冷たいものが走ったが、状態を低くすることでかわした。
頭上で、剣が振り抜かれた風圧と音がした。
僕への油断か、大振り気味に振り抜かれた剣は、すぐに戻すことができない。
この隙をついて、僕は短剣を鎧の隙間を縫うようにして左膝に突き刺した。肉を裂くリアルな感触が手に伝わった。
「ぐあぁぁぁ!!」
男は短剣が刺さると苦痛の声をあげた。
あれ、思ったよりも、やれる……?
短剣を引き抜くと男の膝から血が噴き出し、僕は態勢を立て直すために後ろに飛んだ。
しかし、
「このガキィィィ!!」
後ろへ飛んで宙に浮いているところに、僕の左脇腹へ男の右足による蹴りが直撃する。
「ぐふ……っ!」
レガースを着用していた男の蹴りは、鉄球で殴打されたような衝撃を錯覚させ、僕の体は吹き飛ばされた。
数メートル体が吹き飛び、背中を強く木に打ち付け、地面に倒れる。
「兄さんっ! いやぁぁぁ!」
「ぐっ……げほっ! ごほ……っ!」
「このクソガキがぁ……!」
腹部に鈍痛を感じながら、口から血を吐いた。
赤い液体は雑草にかかり、血が滴っていた。
確実に肋骨が折れている。もしかしたら、内臓に損傷があるかもしれない。
血反吐を吐いたんだ、おそらく内臓も無事ではないか……。
目が霞む……。
意識が消えそうになった僕は、右手で左手の小指の爪先を掴み、力を込める。
ビリ。
小指の爪を剥いだ。
「うぐっ!」
激痛が走り、顔を歪めたが、おかげで意識を持ち直した。
まだ、やれる……。
すぐに目の前の男を見据えると、僕に向かって剣を振り下ろそうとしていた。
「うらあ!」
体を転がせて斬撃を避けた。
避けきれず、左肩が少し切られた。
「くそが!」
地面に剣が突き刺さっており、男は剣を引き抜くのに手間取っている様子だった。
この隙に僕は状態を起こして、距離を取ると、短剣を構えた。
男は地面に突き刺さっていた剣を引き抜くと、僕を見た。
「…………。」
まるで、遊びは終わりだと言うように、男は叫ぶのを辞め、静かな殺意と、剣を僕に向けてきた。
――死ぬ。
僕の何かがそう告げていた。
自然、短剣を持つ手が震える。
男は先ほどよりも姿勢を低くして、間合いを詰めようとすり足で距離を調整していた。必殺の間合いまで一瞬で移動できる距離を測っているのだ。
男はある地点で止まると、瞬間、10メートルは離れていた僕との距離を、たったの一歩で詰めてきた。
「……っ!」
先ほどまでとは動きが違いすぎた。
一瞬、対等に戦えると思ったが、思い上がりだった。
何度も侵略を繰り返して戦いを経験している魔王軍の兵士に、僕みたいなガキが勝てるわけなかった。
斜め下から僕の首を跳ねるような軌道で、剣が振り抜かれようとしていた。
避けるには間に合わず、短剣では受け止められないような威力が乗っていた。
明確に自分の死を理解した瞬間、
――視界の端に、レイアの顔が見えた。
僕が死ねばレイアが傷つく。
僕が死ねばレイアが一人になる。
僕が死ねばレイアが目の前の兵士に凌辱される。
僕が死ねば……。
僕が死んだらレイアには不幸が訪れる。
そんなの……嫌だ。
絶対嫌だ。
レイアが傷つくなんて嫌だ。
レイアを一人ぼっちになんてさせない。
レイアを泣かせるわけにはいかない。
レイアの未来はこんな奴が奪っていいものじゃない。
……死ねない。
僕は死ぬわけにはいかない。
生きるっ!
――生きるんだっ!!
世界が一瞬真っ白に染まった。
――男は地面に突き刺さっていた剣を引き抜くと、僕を見た。
「…………。」
まるで、遊びは終わりだと言うように、男は叫ぶのを辞め、静かな殺意と、剣を僕に向けてきた。
あれ、なんで……? え、さっきまであいつは僕のすぐ目の前にいたはずじゃ……?
それに、この光景、この空気が変わる瞬間……つい数秒前のと同じ――。
男は先ほどよりも姿勢を低くして、間合いを詰めようとすり足で距離を調整していた。必殺の間合いまで一瞬で移動できる距離を測っているのだ。
同じ、だ。
これは、さっきと同じだ。
同じということは、あと数瞬で、もう一度あの信じられない間合いの詰め方をされて、僕の首めがけて剣を振るってくるということだ。
相手の次の動きが分かっているということは、相手の動きに合わせて攻撃できるということで、相手の意表を突くカウンターなら、あの兵士を仕留められるかもしれないということで。
男はすり足である地点までくると足を止めた。
――来る。
考えている場合じゃない。これはチャンスだ。
ここでカウンターを決めれば勝てる……勝てるんだ!
勝って、レイアを守る!
男の姿が視界から一瞬消えた。
先ほどと同じで目で追うことすらできない。
だが、目で追えなくてもどの位置に移動し、どのような攻撃をするのかは分かっている。
男が消えた瞬間と同時に、僕は前進しながら短剣で空を斬った。
ズシュッ!
いや、空を斬ったのではない。僕からしたら空を斬ったつもりだが、僕の短剣の軌道上にはしっかりと男の首があった。
先ほど見た、自分の死の間際の光景で、男の首があった位置に短剣を振るったのだ。
男の動脈を切り裂くと、背中でものすごい風圧がした。
見ると、男の剣が空中で振り抜かれていた。
……あれを受けていたら確実に死んでいた。
よろよろと少し歩いた後、男はうつ伏せに倒れ、地面を真っ赤に染めた。
それを一瞥すると、全身の力が抜ける。
体が悲鳴を上げており、疲労が限界に達していた。
それに……。
足元を見ると、僕の血で小さな池が出来ていた。
血を流しすぎていた。
倒れ込もうとすると、駆け寄ってきたレイアに抱かれた。
「兄さん……兄さん! うぅ……うえぇぇぇん!!」
レイアの泣き声が聞こえたところで、僕は意識を手放した。
――守れた。
僕は安堵した。