少女の夢
透明な海の底に、私は沈んでいた。
それが夢だと気づくのに、そう時間はかからなかった。
夢らしく、全く感じない呼吸の苦しさ。液体のなかで反射する光とともに泳ぐ長い髪を見る。
夢だから、死になんてしない。
わかっていても、『水の中』というのは本来人間がとどまり続けるような場所じゃなかった。
最初は、夢にしては弾けるように鮮明で、生き生きとした世界に高揚していた気分が、沈んでいく。
顎を上に向け、両手を高く掲げた。揺らぐ水上は見通せない。
地上であろうが海底であろうが、はるか頭上の別世界を直視するのは無理、同じだった。
星の形をした砂を蹴る。まっすぐに、上を目指して直進。
手のひらで叩く度、ヒトデの形をした虹がバラバラに砕けて輝く。
人魚姫もこんな感じだったのかな。姫なんて柄じゃないけれど。
水圧と鬱陶しい瞬きを、延々浴びなきゃいなきゃいけないなんて、ファンタジーの世界の住人でさえ 夢心地だけでは生きていけそうにない。
空気が水に置き換わっただけ?
かきわけてもかきわけても、纏わりつく重さが振りほどけない。まるで人生だ。無駄に背伸びした思いつきに、自嘲する。
五本指の尾びれが疲れてきた頃、やっと質量を感じるなにかが目に映った。
何度か諦めようと思ったが、やめなかった甲斐があった。
そりゃね、逆らうばかりがいいとは限んないけどね。
水面に近づくと、何かに引っ張り上げられる感覚がした。とっさに目をつぶり、開いたときには、もう浮かび上がっていた。
この夢は、夜の夢だったらしい。
空には歪な淡い色がちかついている。不出来な金平糖をぶちまけたみたいだ。
ビロードを思わせる、艶やかな黒い下地には 酷く不恰好に映る。
お店に並べてもらえないようなお菓子。思い出話に上げられないような地味な相貌。
不出来でも何も考えずに、ああやってならんでいられるなら、うらやましい。
捨てられようが、食べられようが。
見ていられなくなって視線を落とすと、水面も黒一色に塗りつぶされていた。
黒と一緒に、私の拗ねた仏頂面が、波打ってこちらを見返している。ひっぱたいてやりたいくらい、不細工。
お菓子の星は、どうしてか映っていなかった。そこが気に入って、夢が覚めるまで空をみるのはやめようと決めた。
さて、別に待っていてもいいけれど、じっとしているのも退屈だ。
そら、すいすい。足で水を蹴れる。ちょっと気分がよくなったからか、先ほどまでよりずいぶん楽に潮の流れに乗れた。
こうしてみると、随分といい夢。なにをしようが、どう動こうが、私の勝手。自己責任。文句も注文も付けられない。
いきつく果てが世界の果て、天動説も真っ青、宇宙へまっさかさまでも へっちゃらだ。
へっちゃら? へっちゃらだろうか、だといいな。
しばらくして。
進む海には、船も岩もなにもなかった。
またもや、進むだけ。
どこまでも何もない、甘ったるい海がどこまでも続くかと思い始めた時、肌に何かが触れた。
体勢を変え、周囲を見渡す。目立つものはとっさに目に入らなかった。
そんなはずはない。腕で大きくかきまわすと、また何かが当たった。今度は二の腕から指先まで、ぺったりと貼りつく。
透明な薄い膜。触ってみると、あっさり破れてしまった。暖かい牛乳が冷めた時に浮かぶものに似ている。
水も、気のせいか濁りだしている。
海の中で腕をぶんとふり、膜を振り払う。
意外とあっさりとはずれたのも束の間、別の膜がはりつく。
うんざりとしたため息が唇から洩れた。
諦めて体に力を入れ、クロールを始めることにする。
腕を回すたびに、どんどん膜が重なっていく。体は重くなり、動かす腕は鈍る。
はっきり痛みとまではいえない強さで、苛々が脳を刺す。
しかし、「これは必要な苦しみなのだ」と脳裏に浮かぶ。ならば仕方ない。吐息と一緒に怒りは体外へ捨てた。
最初は早く、この鬱陶しくなってしまった場所から出たい、という感情でいっぱいだった。
不思議なもので、延々と同じ作業を繰り返していると何とも感じなくなってくる。愛着さえわいてくるのだから、呆れたものだ。
果てしない大洋は、すっかり白濁し、膜が目に見えて漂う。既に私も全身が膜で覆われていた。
そう思えば、はて。白く濁っているのは海なのだろうか、それとも私の視界そのものか。
どんなに腕を回そうとしても、もはや膜は複雑に絡んでほどけない。歯車に布がかんだときに似ている。
繭のような姿になった私は、自らにとれる行動を振り返った。腕はもはや単純な動きしかできない、指などもってのほか。足は纏められ、浮かぶボードにしか役に立たない。
やむを得ず、膝を抱えて丸くなる。多くが奪われていく、できることが。持っていたものが。
瞼を閉じると、真っ暗な闇が訪れた。チカチカと神経の瞬きが、七色の稲妻として駆け抜け、消え、生まれ。
数秒たって瞼の裏が黒に落ち着く。とろりとまどろむ安堵に、意識を閉じようとしたところで、裏側は白く染まった。
スクリーンに変わった薄い皮に、レトロに瞬く映像が映る。粘性を持っているのか、てらてらと光沢を放つ濁った液体。そこに楕円形の球体―糸でできた卵のようなものがうかんでいた。
あれは私。なるほど、どうやらこれは空から見下ろした光景らしい。
動きにくかったのは、膜のせいばかりではなかった。
卵は波に揺られ、たよりなく漂っている。
面白い物でもなく、かといって他に見る者もない。ザザザと不快なノイズをBGMに、単調な映画を鑑賞しよう。
かといってひたすら同じものを映し続ける映画などに意味はない、写真で事足りてしまう。
退屈に鼻を鳴らし、不規則に音を連ねるノイズに耳を澄ましてみた。
すると、なぜ今まで気づかなかったのか、それは様々な音の塊なのだと知った。
小石がぶつかって弾ける音、何かがかたいなにかをこすりながら走り抜ける音、高く澄んだ音が奏でる煌めくメロディ、そして無機物とは思えない音程。
最後に感じ取ったそれらは頻繁に調子を変化させ、お世辞にも美しいとはいえない。
だが、同じような音が発せられるときはトーンも似通って、高低には驚くほどの種類があるのに 共通項がある。何か意味があるらしい。
私はそれを積極的に拾うよう努めた。
結果、貴重なエネルギーを集中させ、ついに正体を把握するに至った。
これは、言語である。
私と同じ体構造を持つ生物が、言葉を交わしているのだ。
思い至ってみれば、私は感情を思い起こすことはあっても、それを口に出し、音としてあらわしてみたことはなかった。
試しに、口を開閉させてどうにか喉を動かしてみたが、でるのはヒュウヒュウという虚しさだけ。
どうにも、まだ私には困難な作業であるらしい。
なんとかして話してみたい。彼らの声からわからないだろうか。
時折体を動かす。すると、外から弾んだ声がよく響く。どうやら喜んでいるようだった。
特によく聞く、大人の女性と思われる高めで、だがしかし落ち着いた朗らかな声は、他とはまるで違う。比較しても通常と変わらないのに、どうしてか。彼女は私の特別なのだとわかる。
「カワイイコ、ハヤクカオヲミセテホシイワ」
意味は解らなかったが、私にいっているようだ。好意的な何かを感じる。酷く心地いい。
かけられる言葉に飽くことはなく、出られなくなってしまった卵のなかでうずくまっている。気が向けば手足を動かして、彼女に己の存在を誇示してみせた。
長く続いた時間のうちに、私の体は大きくなっていた。かつてそれなりの広さだった内部は、すっかり埋まって狭い。
体を揺らす波がめっきり減った頃、突如として外に出ねばならぬという使命感に襲われた。
卵を破り、安全で満たされた海を捨て、夢から目覚め現実に舞い上がらねば。
今までになく、激しく手足を動かす。今までで最も質量と実感を伴った打撃だった。
膜の糸を引きちぎり、殻を割る。久しくみる海を見ると、先ほどまで見ていた海はあっという間に赤く染まっていた。
鼻をひんまげるような、つんと鈍い臭いが赤い部分から臭いたつ。
フォームもなりふり構わず、滅茶苦茶に動き、ひたすら海から脱出しようともがく。
酷く苦しそうな彼女の声がする。心配するような低音がよりそう。海を進むと、どこまでもあると思っていた海が、だんだんと狭くなっていった。
白痴と英知の光が無形の心を焼き切っていく。鋭い祝福はいう。踊るのをやめろ、別れを告げる時が来たのだ。
体を通すのも困難な、細く、狭く、締め付ける通路を通り抜けて―
私は起きる。夢はきっと、覚えていない。