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下剋上の標的

作者: 緋燕

 『魔王』は今やすっかり馴染んだ玉座にゆったりと身を預け、各地の報告を読み上げる腹心ヴィルフリートの声に耳を傾けていた。

 手にしたグラスを脇のテーブルに置く動作を合図のように、部屋へと入って来た1人の侍女が、酒の満たされた水差しを持ち静かに歩み寄る。


「―――報告は以上となります。後はカレル地方ですが……やはり1度、(おさ)を召集しておいた方が良いのではないかと……。」

「その必要は無い。どうせ直接会う必要があるのなら、私が出向いた方が早いからな。」

「魔王様、それは……。」

「距離が空く程に影響は薄れる物だ……長だけを呼び寄せたところで、いずれこの問題は……」

 淀みなく続いていた言葉が途切れ、同時に魔王は僅かに訝しげな表情を見せると、左脇のテーブルへと視線を移した。


 身を屈めた侍女が水差しを傾けている。

 通常であればなんら注意を払う事もない、見慣れた筈の風景。

 だが、侍女の顔は酷く青ざめ、震える両手は空のグラスを上手く捕らえられずにカチカチと不愉快な音を奏でていた。

 魔王の視線に気付いたヴィルフリートは後を追い、直後、射るような眼差しを侍女に向けると一気に跳躍してその右腕を背中へ捻り上げた。

「貴様! 何をしている!」

「あ、あ……わ、私は、その……。」

 限界に達した恐怖心と驚きが侍女から力を奪い去った。

 手から離れた水差しはテーブルを滑り、グラスや花瓶と共に床へと転がり落ちて行く。

 床に広がった液体に触れた花が、焼けるような音を上げ一瞬にして消し飛んだ。

 ヴィルフリートは驚きに目を見張り、一段と険しい表情で侍女を捕える手に力を込める。

「『テトラアーカイド』か……これを自由に動かせる者はそう多くはないのだがな……。」

 一連の出来事を意に介した様子もなく、魔王は緩やかに立ち上がると、何故か楽しげな笑みを浮かべヴィルフリートを見つめていた。


 ドラゴンの皮膚すら溶かす強酸、テトラアーカイド。

 処刑よりは拷問用途として使われる事の多い劇薬の使用権限は魔王の他、ごく一部の限られた者にしか与えられていなかった。

 そしてその()()()()容疑者の1人、魔王の右腕である腹心ヴィルフリートは僅かに顔を歪め、侍女を床へ座らせると、頭の後ろを掴んで床の液体へと近付けた。

「確かに、これを使える者は()()はありません……その素晴らしい効果を、この不届き者に身を持って味わって頂きましょうか……。」

「ま……お、お待ち下さい! 私、私はただ、シュルヴェステル様に言われた通りに……お願い、やめて……!」

 恐怖に見開かれた瞳から涙が零れ落ち、跳ね返る小さな(しずく)が侍女の頬を焦がしていた。

 名目上は腹心ヴィルフリートの下に位置する、魔王の側近の1人シュルヴェステル。

 保身に走る口から漏れたその名は予測されていたのか、ヴィルフリートは舌打ちすると侍女の体を引き上げ、拘束していた手を離して立ち上がった。

「詳細は本人に直接聞いた方が早いでしょう……直ぐに捕らえて参ります。今しばらくお待ち下さい。」

 言うが早いか、ヴィルフリートはこれまで全く姿を見せなかった翼を背中に広げ、謁見室を飛び出して行った。


 巻き起こる風に床まで伸びる長い髪を(なび)かせた魔王は、クスリと笑みを漏らすと呆れた様子でため息をついた。

「……せっかちな奴だ。」

 誰にともなく呟き、未だ(うずくま)り震えている侍女へゆっくりと近付いて行く。

 魔王の動きに気付いた侍女は、顔を上げるとまるで救いを求めるかのような表情を浮かべた。

「シュルヴェステルはお前に何と言ったのだ?」

「あ……そ、その……魔王様のお酒に入れろと小さな瓶を渡されて……バレたら自分の名前を出すようにと……こ、殺されたくなければ言う事を聞けと言われて……だから……。」

「矢張りそうか。」

 再び小さくため息をついた魔王を、侍女は怪訝な表情で見上げている。

 魔王は考えを巡らせている様子で少しの間侍女を見つめていたが、やがて静かに口を開いた。

「だが、こうして露呈してしまったら、所詮命は無くなると思わなかったのか?」

「それは……でも、それでも……あの方に長い苦痛の中嬲り殺されるのは……。」

「……確かに、私はシュルヴェステルのような趣味は無いな。」

 ため息のように吐き出された声音は、呆れと共に心なしか苦味を帯びていた。

 魔王は緩やかに(きびす)を返して体を反転させると、一転して良く通る声を部屋へと響かせた。

「シュルヴェステル、そこに居るのだろう。それとも……()()()()消し炭になる事を望むか?」


 部屋を満たしたその声の余韻と混ざり合うように、空気が微かに動いた。

「……それは、出来ればご勘弁願いたいところですね。」

 魔王の背を固唾を呑んで見つめていた侍女は、その向こうにゆるりと現れた姿に小さな悲鳴を上げた。

 謁見室の中ほど、脇の壁に持たれていたシュルヴェステルは、初めからそうしていたかのように、ごく自然な様子で魔王へと向き直った。

「『本体』のようだな。()()の薄いところを見ると城にダミーを残したか。」

 回答を必要としないその質問にも、シュルヴェステルはただ、笑みを浮かべただけだった。

 魔王は再び侍女に視線を戻したが、先程よりも酷く怯える様子に訝しげに眉を寄せる。

「お前はもう下がって良い。お前自身の為にも、この件はあまり広言しない事だ。」

 侍女は体を震わせたまま1度魔王を見上げ、やがて這うようにその足元に蹲るとマントの裾に縋り付いた。

「魔王様……どうか、どうかご慈悲を……お願いです、せめて貴方の手で……!」

 魔王は小さく目を見開き、有り得ない懇願に必死になる侍女を見下ろしていた。


 仮に無罪放免となったとしても、侍女の罪が消えてなくなるわけではない。

 既に気付いている者が居る可能性、シュルヴェステルが今後取るだろう行動を思えば、魔王に()()()()事こそが、彼女に残された唯一の苦痛の少ない道だったのだ。

「……遣り残した事は無いのか?」

「はい……私は特に親しい者もおりません。魔王様の御手に掛けて頂けるのなら……もう何も思い残す事は……。」

 立ち上がるよう促された侍女は、覚悟を決めた様子で俯き両手を硬く握り締めた。


 魔王は少しの間、静かに侍女を見下ろしていた。

 やがて、その顎に左手を添えて軽く持ち上げると、震える唇に柔らかく口付けた。

 侍女は驚きに目を見張るが、次第に頬に赤みが差し、ゆっくりと瞼が下りて行く。

 まるで夢を漂うような心地の中、背中に回された魔王の右手が熱を発した時にはもう、侍女に意識は無かったのかもしれなかった。




「あのような者に口付けなど……貴方の唇が穢れてしまいます、魔王様。」

 非難の色を隠さず大股に近付いて来るシュルヴェステルに、魔王は血も凍るような瞳を静かに向ける。

 シュルヴェステルは怯まず魔王の頬に手を添えると、その唇をそっと親指でなぞった。

「フン……裏切り者に触れられる事に比べれば、大した問題では無いだろう。」

 その言葉は相当予想外だったのだろうか、シュルヴェステルは愕然として目を見開くと、慌てた様子で魔王の足元に跪いた。

「魔王様、誤解です! 俺はそのような……貴方に危害を加えるつもりなど微塵も……。」

「今更そんな戯言が通用すると思っているのか。」

 魔王はただ蔑みの目をシュルヴェステルに向けていたが、チラリと脇のテーブルへ視線を移し、表面を覆う液体に軽く左手を触れさせた。

「な……魔王様、お止め下さい……!」

 小さな音を立て、魔王の指先から僅かに煙が生じた。

 シュルヴェステルは今度こそ驚き、両手で魔王の左腕を取ると、未だ燻る指を自分の口へと運ぶ。

 先程とは比べ物にならない大きな音が上がり、口内を焼かれる苦痛にシュルヴェステルは顔を歪めたが、腕に添えられた手や、()()を拭う舌には決死の気遣いが感じられた。

「……もう良い。無駄な真似は止せ。それとも……口が利けなくなる事でも狙っているのか?」

 静かに左手を引いた魔王を、シュルヴェステルも止めようとはしなかった。

 湯気のように煙を上げる自身の口を手で押さえ、ごく僅かに首を振る姿に、魔王は目を閉じて小さくため息をつくと右手を緩やかにかざした。

 『魔王』のみが与える事の出来る、見る間に痛みの引くその感覚に、シュルヴェステルの表情が安堵に緩む。


「お前が、ヴィルフリートを私から離そうと画策したのは理解っている。1対1なら、この私に敵うとでも思ったか。」

 恍惚と魔王を見上げていたシュルヴェステルは、殊更に悲しげな表情を浮かべた。

「違う……誤解なのです、魔王様。テトラアーカイドを使ったのも、気の弱い侍女を選んだのも、万が一にも貴方に害が及ばないよう敢えてやった事で……。」

 (ひざまず)くシュルヴェステルは懇願するように魔王を見上げたまま、まるで誓いを立てるかの如く右手を自身の胸へと持ち上げた。

「どうか、これだけは信じて下さい……俺は貴方に仇名そうなどと思った事は、ただの1度としてありません……。」


 憐れにすら見えるシュルヴェステルの仕草も、魔王の心に届いた様子はなかった。

 魔王は冷ややかな視線をシュルヴェステルへと向けたまま、静かに口を開く。

「理解らんな。内密な話があると言うのなら、ただ口でそう言えば済む事だ。こんな面倒な方法を取る必要があるとはとても思えん。」

「お言葉ですが……例え魔王様が俺の希望を聞き入れて下さったとしても、あの腰巾着は何だかんだ理由を付け、絶対に邪魔をしてくるに違いありません。」

 事実、その試みは既に行われたのかもしれなかった。

 言葉を続けるシュルヴェステルに、隠し切れない苦い物が浮かぶ。

「魔王様……貴方は聡明な方だ。そして何よりも、誰もが貴方を『魔王』と認めるその力……貴方の側近として居られる事、これ程の喜びは他にありません。ですが、あのドラゴンだけは……ただ貴方の古くからの知己というだけで、大した力も無いのに腹心として居座り続けている。俺はそれがどうしても納得行かないのです。」


 ようやく思惑を理解したのだろう。

 魔王の眼光が緩み、同時に可笑しそうに喉の奥で笑った。

「ククク……なる程。お前の目的はヴィルフリートか。だが、それこそただ勝負を挑み、捻じ伏せれば良いだけの話ではないのか? 魔物の全ては、その『力』で決まるのだからな。」

「勿論、この後必ずや勝利を収め、俺の言葉を証明してみせましょう。ただ……力が全てとは言え、我ら側近の地位はやはり、貴方の裁量によるところが大きい。」

 シュルヴェステルは緩やかに立ち上がり、笑みを浮かべる魔王に真剣な眼差しを向けた。

「頭の悪いドラゴンが如何(いか)に役に立たないか、直接貴方の目に示したかった。魔王様……どうか今一度、何が本当に貴方の力になるのか考えて頂きたい。」

 そこまで言うと、シュルヴェステルは足を踏み出し魔王へと体を近付けた。

 その瞳に浮かぶ欲望が(あらわ)になっても尚、魔王に動く様子は見られない。

「何が役に立つのかを、か……。」

 目を伏せて呟く魔王の笑い声は、まるでため息のようにも思えた。

 互いに息が掛かる程の場所で、シュルヴェステルは喜びに目を細め、ゆるりと上がる両腕が魔王の背中を捉えようと動く。

「俺の力は絶対に貴方のお役に立ちます……あぁ、魔王様……力だけでなく、誰もが惹かれるその魅力……何の邪魔もなくこうしてお側に居られる事を、ずっと夢見てきました……。」


 魔王は答えない。

 己を見つめる恍惚とした顔を、ただ、じっと受け止めているだけだった。






 ヴィルフリートは数人の部下を伴い、シュルヴェステルの居城を目指していた。

 その厳しい表情には、抑え切れない怒りが滲み出ている。

 突然の来訪に驚く番兵の側に次々と降り立つと、戸惑いの制止を振り切り城内へと足を踏み入れる。

 ヴィルフリートの纏う険のある空気に、1人の執事が慌てて正面の階段を駆け上がって行った。


「シュルヴェステル、居るのはわかっている! 大人しく出て来い!!」

「これはこれは……いつも魔王様に張り付く腰巾着が、単独で一体何の御用ですか?」

 落ち着かない様子の執事に促され姿を現した()()()()()()()()は、さして急ぐ素振りもなく緩やかに階段を下り、ヴィルフリートの前に立つと悠然と笑みを浮かべた。

「お前には反逆の容疑が掛けられている。魔王様の城まで来て貰うぞ。」

「物騒なお話ですね。何を証拠にそんな事を?」

「とぼけても無駄だ。年中『裏切り者』の相手をしているうちに、頭まで染まり切ったか、シュルヴェステル。」

「……例え魔王様の腹心と言えど、身に覚えのない事でそのような侮辱を受ける言われはありません。」

「言い訳は後でゆっくり……」

 一触即発の空気の中、ヴィルフリートは唐突に言葉を切った。

 魔王の元を離れ謁見室を出てから、ずっと喉に刺さる小骨のように引っかかっていた『何か』。

 その違和感、自分が犯した間違いにようやく気が付いたのだ。


 感情の見えない漆黒の瞳が、金に輝くドラゴンのそれへと変容して行く。

 同時にヴィルフリートはシュルヴェステルの懐へと飛び込んだが、爪が僅かに触れた瞬間、笑みを浮かべたままのその姿は跡形もなく掻き消えてしまった。

「ヴィルフリート様!」

「クッ……やはりダミーか……あの野郎……!!」

 ヴィルフリートの部下達はようやく事態に気付き慌てた様子を見せたが、怒気を孕み膨れ上がる強い気配に固唾(かたず)を呑んだ。

「フィル! お前は念の為ここに残り見張りを! 残りの者は全速力で魔王様の元へ戻れ!」

「はっ!!」

 部下達が体勢を立て直した時には、ヴィルフリートの姿はもうどこにも見えなかった。

 一際大きくなった翼を(ひるがえ)し、ヴィルフリートは魔王の城へと急ぐ。


 怒りを遥かに上回る、心配と不安を携えて。






「ん……。」

 反射のように、魔王の喉から微かな声が漏れた。

 夢中でその唇に吸い付くシュルヴェステルの左腕は魔王の体を抱え込み、頭の後ろを固定する右手と共に、それはまるで獲物を捕らえる蜘蛛さながらに強固な意志を感じさせる。

 口内を蹂躙する舌の感触にも大した反応を見せず、魔王はただ、時が過ぎるのを待っているかのようだった。

「はぁ……魔王様……本当に、夢を見ているようです……。」

 ようやく口を離したシュルヴェステルは、うっとりとした表情で魔王の目を見つめていた。

 対する魔王はさして興味のない様子でその視線を受け止めていたが……僅かに俯くと、喉の奥で小さく笑った。

「駄目だな。シュルヴェステル。」

 瞬間、仮面が剥がれたかのようにシュルヴェステルから表情が消えた。

 魔王は再び可笑しそうにクスリと笑みを漏らす。

「キスすらこの程度ではな……()()()に期待したところで無駄という物だろう。今のお前をヴィルフリートの代わりとする利点が、私にはどこにも見つからない。」

「なっ……そんな、事……今まで1度として言われた事は……。」

「ククッ、当然だろうな。今まで、お前に正直に下手だと言い切れる者を相手にした事が、1度でもあったのか?」

「そ、それは……。」

「まぁ……正確に言えば、及第点といったところだ。安心するが良い。ただ……それではやはり、私には何の利点も……」

 全てを言い終わらないうちに、からかうような笑みを浮かべた魔王の視線が脇へと逸れた。

「……やっと戻って来たか。」

 その目が見ているのはシュルヴェステルの背後、今はまだ閉ざされた謁見室の扉。

 シュルヴェステルが何かに気付いた様子で振り返ったのと、派手な音を立て扉が開いたのはほぼ同時だった。


「な、何……っ?!」

 部屋に飛び込んだヴィルフリートは、2人の姿を目にした瞬間にはもう、既に体は動いていた。

 文字通り瞬きする間もないうちにシュルヴェステルを捉え、振り下ろした爪が空間を切り裂く。

 刹那の思考で反撃の意図を捨て去ったシュルヴェステルは、際どいところでその攻撃を受け止め、体が裂かれる代わりにそのまま壁まで吹き飛ばされた。

「がふっ……ば、馬鹿な……。」

「ほう、即死は免れたか……()()()だな。」

 シュルヴェステルは即死ではなかったというだけで、受けたダメージは致命的と言っても過言ではなかった。

 未だ事態を把握出来ず、悠然と笑みを湛えて自分を見つめる魔王を放心したように見上げる事しか出来ない。

「お前は運が良いぞ、シュルヴェステル。ヴィルフリートが『本気』になる事など、滅多にないからな。」

「ヴィ、ル、フリート……? そんな、まさか……。」

 片腕を上げ、魔王を守るように立つヴィルフリートに視線を移し、シュルヴェステルは信じられないといった様子で呟いた。

 明らかに大きくなった体の一部にドラゴンの鱗を纏い、鋭い爪は正にドラゴンそのもの。

 シュルヴェステルが散々馬鹿にしていた筈の姿は、そこには微塵も見られなかった。


 魔王は目を細めて満足げな笑みを浮かべ、ヴィルフリートを片手で制してシュルヴェステルの元へと向かった。

 かざされた右手から治癒の光がシュルヴェステルに降り注ぐ。

 だが、先程のように感覚を楽しむ余裕は、最早シュルヴェステルに残されてはいなかった。

「シュルヴェステル。これでもまだ、自分の方が『強い』と言い張る事が出来るのか?」

「……。」

 シュルヴェステルが奥歯を噛み締める音が響く。

 そうして、そのまま何も答える事なく、シュルヴェステルは謁見室から姿を消した。






 再び訪れた静寂の中、魔王はゆるりと踵を返した。

 まるで何事も無かったかのようなその振る舞いに、ヴィルフリートの瞳に戸惑いが浮かぶ。

「魔王様……。」

「殺すな。それから、部下も全て引かせておけ。」

「な……魔王様、それは!」

「あれの能力は役に立つ……それに、奴の狙いは私ではなかったのだ。過ぎた悪戯の罰はもう、十二分に与えただろう。」

「しかし……」

「……もし、更に罰を与える必要があるとすれば、お前にも同様の罰を与えねばならないという事になる。ヴィルフリート……お前がまんまと策略に嵌ったお陰で、私は無能者を重宝しているとの(そし)りを受ける破目(はめ)になったのだぞ。」

 思わず気色ばんだヴィルフリートは言葉に詰まった。

 言われるまでもなく、その自覚があったからこそ、咄嗟にシュルヴェステルを追おうとする自身を押し留めていたのだ。


 歯痒さに俯くヴィルフリートが顔を上げるのを待ち、魔王は再び口を開いた。

「まぁ……しばらくの間、謹慎を命じておこう。シュルヴェステルには下手な罰を与えるより、余程堪えるだろうからな。」

「それでは、『裏切り者』の管理は如何(いかが)致しますか。」

「勿論、私がやる。」

「魔王様!!」

「元々……如何(いか)に魔物と言えど、拷問やその詳細な調書を平気な顔でやれる者は少ない。シュルヴェステルがあそこまで増長したのは、それも理由の1つだろう。無理に一時的な調整をするよりも、得られる効果は大きいと思わないか?」

 忠実過ぎる実直なドラゴンの苦言は想定内だったのだろう。

 魔王は表情を緩めたが、問い掛ける口調はそれが決定事項である事を示していた。

「ですが……何も魔王様自ら御手を汚される事は……。」

「私に背いた者に対して、お前が()()()手を抜くのは難しいだろうからな。」

 つい今しがた、結果的には魔王の意思に反してシュルヴェステルに『本気』を出してしまったばかりなのだ。

 ヴィルフリートは今度こそ言葉を失い、目を伏せたまま動く事が出来なかった。


 奥歯を噛み締め、両手を強く握る仕草、とりわけ纏う気配がヴィルフリートの心情を暴き出していた。

 魔王は少しの間、そんなヴィルフリートの姿を観察するような瞳で見つめていたが……やがて、静かに目を閉じクスリと笑みを漏らした。

「では、こうしようか。直接動き、手を下すのはお前に任せよう。ヴィルフリート。ただし、その時には常に私が側に付き、様子を見る……これならどうだ?」

「そういう事であれば……冷静に対処出来るよう、努力致します。」

「よし。これで何も問題は無いな。」

 魔王は嬉しげに目を細めると、ヴィルフリートへ近付き両手でその頬を包んだ。

「本当に……お前のその姿を見るのは久しぶりだ……。」

 視線を絡め、自身を焦らすようにゆっくりと唇を押し付ける。

 初めは動こうとしなかったヴィルフリートも、誘うように動く舌に抗う事は出来ず、魔王の背中に回した両腕の力を制御するのが精一杯だった。

「矢張り、お前が一番良い……この腕も、その力も……そしてキスも、お前が誰よりも優れている……。」

 僅かに口を離し呟く魔王の言葉に、ヴィルフリートはピクリと体を震わせた。

「……キス?」

 考えるよりも早く、ヴィルフリートの手が魔王の髪を掴む。

「キス、したのか? アイツと……?」

「なんだ、理解っていたから怒ったのではないの、か……っ……」

 呆れた様子で眉を寄せた魔王は、髪を強く引かれ、それ以上言葉を続ける事が出来なかった。


 魔王の言う通り、ヴィルフリートはきちんと理解していたし、だからこそ、時に自身すら食らい尽くそうとする本能的な衝動を必死に抑えていた筈だった。

 だが今、押さえ込まれていた怒りは再び顔を覗かせようとしていた。

 湧き上がる衝動にヴィルフリートの瞳は輝きを増し、無防備に仰け反る白い首筋はその血を更に逆流させる。

 さすがの魔王も、走る痛みに耐えるような表情を浮かべた。

「……っ!」

 その時、僅かに残った理性が魔王の苦痛を辛うじて認識した。

 まるで冷水を浴びたようにヴィルフリートは目を見開き、髪を掴んでいた手を静かに開く。

 そして、そのまま俯くと緩やかな動きで跪いた。

「……申し訳ありません、魔王様。」

 魔王は髪に残る痛みを払うように軽く頭を振り、ヴィルフリートを見下ろしていた。

「何を謝っているのだ? ヴィルフリート。」

「自分を抑えられず、無礼を働きました。」

 ヴィルフリートは俯いたまま動こうとせず、ただ淡々と言葉を繋ぐ。

 魔王は僅かに口角を上げると、ヴィルフリートを覗き込むように膝を落した。

「構わないと、何時(いつ)も言っているだろうに……。」

 言うなり魔王の右手が光り、呼応するように人差し指の爪が伸び始めた。

 そうして、魔王はヴィルフリートの膝に置かれた左手を取ると、その爪を手の甲へと滑らせる。

「魔王、様……っ!」

 鋭く尖る爪はドラゴンの皮膚を易々と裂き、真新しい傷に魔王はゆっくりと舌を這わせた。

「ほら、ヴィルフリート……お前の血が流れているぞ……?」

「ま、お……っ、ユリ、ウス……ユリウス、頼む……。」

 魔王の視線から逃れるように、ヴィルフリートは強く目を閉じ頭を振った。

「ユリウス、頼むから……今の俺を、挑発するな……!!」


 搾り出された悲痛な声は、哀れに震えていた。

 魔王は動きを止め、ヴィルフリートをじっと見つめている。

 やがて……興が殺がれた様子でため息をつくと、手の甲の傷へと右手を重ね、治癒の結果を確認する事もなく緩やかに立ち上がった。

「そこまで『解放』してしまったら、戻るのに大分掛かるだろう。さっさと行くが良い。」

「……出来る限り早く戻れるよう、努力致します。」

 ぎこちない動きで立ち上がったヴィルフリートは、1度も魔王と目を合わせず、そのまま静かに謁見室を後にした。

 そして魔王もまた、そんなヴィルフリートを目で追う事すらしなかったが……床に落ちた血痕に気付き、軽く手を上げた。


 ギリギリの場所で揺れ動いていた、必死の抵抗の痕。

 光る魔王の右手に呼応し、ヴィルフリートの血が浮き上がった。

 引き寄せられた血球を手で受け止めると、魔王はそれを舌で掬い取る。

 まるで極上の美酒を味わっているとでも言いたげに、その動きは惜しむように緩やかだった。






 魔王はぼんやりとした様子で頬杖をつき、玉座に身を沈めていた。

 元通り綺麗に片付き、先程までの喧騒など無かったかのような静寂。

 脇のテーブルには酒の注がれたグラスが置かれていたが、口に残る血の香りを押し流してしまうのを嫌ったのか、魔王は手に取ろうともしなかった。

「一昼夜……精々早くて半日か……。」

 目を閉じ、誰ともなくぽつりと呟く。

 瞼の裏に映る、自分を射抜く金の瞳にむしろ苛立ちを覚え、魔王は静かに立ち上がった。

「……つまらんな。」

 そうして、どうした物かと思案しようとしていたところに、謁見室の扉を叩く音が響いた。


「失礼致します、魔王様。ヴィルフリート様より急ぎの文が届いております。」

「ヴィルフリートから?」

 きちんと丸められた書簡を受け取り、魔王は目を瞬かせた。

 丁寧に封を施されたそれは、確かにヴィルフリートの物で間違いはないようだ。

 魔王は再び玉座に腰を下ろし、封を解いた文を広げて目を走らせる。


『お前が寝るまでには必ず戻る。

 暇だからと他の者を呼び寄せたりしないように。―――ヴィルフリート』


 大仰な見た目と反した、ごく短い言葉。

 魔王はゆっくりと瞬きを繰り返し、やがて本当に可笑しそうに喉の奥で笑った。

「こんなモノで私が言う事を聞くとでも思っているのか?」

 目の前に浮き上がり、炎に包まれる文を見上げ、魔王は呆れたように呟いた。

 やがて、再び楽しげに肩を揺らすと緩やかに立ち上がり、謁見室の扉を開き自身の寝室へと向かう。

「退屈の代償はきっちり払って貰うからな……ヴィルフリート……。」








 静かな寝室に、気遣わしげなノックの音が響いた。

「失礼致します。お待たせして申し訳ありません、魔王様。」

「入れ。」

 魔王はソファーに身を預け、膝に置いた本のページを捲っていた。

 扉を押してヴィルフリートが現れたのを合図のように、本を閉じて立ち上がる。

「ちゃんと待っていてくれたんだな、ユリウス。」

「あと少し遅かったら、私はここに居なかったかもしれないがな。」

 魔王は非難の目をヴィルフリートへ向けていたが、それは拗ねた子供のようにも見える。

 ヴィルフリートは愛しげに目を細め、魔王の頬を優しく撫でた。

「やっと……お前に触れられる……。」

 (つい)ばむように軽く口付け、ヴィルフリートは魔王を抱きしめようと1歩を踏み出した。

 だが、俯いた魔王は片手でそれを押しやり腕から逃れ出る。

「私は禁じた覚えなど1度もない。お前が勝手に私から逃げているだけじゃないか。」

「ユリウス……。」

 金の瞳、その力に煽られ、挙句に待ち惚けを食らわされたのだ。

 悲しげに自分を見つめる様子は、今の魔王には苛立ちの元でしかなかった。

 だが同時に、魔王は先への期待、その実現性の高さに密かに心躍らせてもいた。

「まぁ良い。今日は珍しい物も見られたからな。まさかキス程度であんなに怒るとは思わなかったぞ。」


 魔王の『本当の名』を知る者も少なくなった今、腹心ヴィルフリートとの関係に気付く者は皆無と言っても過言ではない。

 また、魔王の属する悪魔種族は子を成す事を好まない性質ではあったが、例えどれ程()()()()()いたとしても、魔物として、欲が薄いと見られるのは得策ではなかった。

 志願者のみで構成される使()()()()()側室も含め、それは魔王ユリウスの地位を磐石とする為の施策として、他ならぬヴィルフリート自身が理性を()って勧めていた事でもあったのだ。


「……増徴を避ける為に側近には手を出させないと決めたのはお前自身だろう、ユリウス。何故許したりしたんだ?」

「あまりに自信満々だったのでな。もしかしたら能力以外に私の知らない利点があるのかもしれないと気になっただけだ。まぁ……結局は大した事はなかったが。正直な感想を言ったら、さすがにショックを受けた様子だったぞ。」

 魔王はクスクスと可笑しそうに笑った。

 自分を見つめるヴィルフリートの気配の変化を感じながら、からかうような笑みを浮かべ続けている。

 ヴィルフリートは少しの間、そんな魔王をじっと見つめたまま動かなかった。

 やがてゆっくりと大きく息を吐き出し、首に腕を絡めてくる魔王を緩やかに抱きしめる。

「クス……まるでバジリスクの瞳のようだな……私の大好きな目だ……。」

 力を解放したわけではなかったが、抑え切れない怒りはヴィルフリートの瞳を変容させてしまっていた。

 魔王の言葉に、巧みに引き出された事に気付いたヴィルフリートは僅かに顔を歪めると、腕を解きそのまま跪いた。

「……失礼致しました、魔王様。ですが、1つだけ申し上げておきます。幸い何事も無かったとは言え、今後もまた同じとは限りません。今日の様な戯れは、出来ればもう御止め下さい。」



 (うつむ)き、跪くヴィルフリートを見下ろしていた魔王は、まるで時が止まってしまったかのように静まり返っていた。

 口を閉ざしたヴィルフリートもまた、魔王の言葉を待ち視線を落としていたが……突如噴き上がった音の無い爆音のような気配に、反射的に顔を上げると魔王を仰ぎ見た。

「私を……この部屋で『魔王』と呼ぶな……ヴィルフリート……。」

 その彫刻のような端整な顔が怒りに歪む事はなかったが、魔王は燃える瞳を湛え、緩やかな動きでヴィルフリートの胸倉を掴んだ。

「シュルヴェステルが私に陶酔し切っているのは明らかだった。お前は私に見る目が無いとでも言いたいのか!」

「ユリウス……。」

「立て。お前は都合が悪くなると直ぐにそれだ……私がお前の口から『魔王』と呼ばれる度に、どんな気分で居るか考えた事があるのか?!」


 魔王の寝室には強固な結界が張られ、その力が外へ漏れ出てしまうような事はない。

 だが、少しでも及ばなければ部屋に踏み入った瞬間に消し飛んでしまいそうな程の、圧倒的な『力』が魔王から噴き出していた。

 魔王の力に呼応しようとする自身の本能を感じ、命じられても尚立ち上がる事の出来ないヴィルフリートの表情は泣き出しそうにも見えた。

「ユリウス……それでも、お前は『魔王』だ……どんなに嫌だと思っても、代わってやりたくても、それが純然たる事実なんだ……。」

 絞り出された言葉に、魔王は遂にその顔を歪ませた。

 ヴィルフリートから手を離して体を起こすと、まるで何かを受け入れるかのように両腕を広げる。

「ならば、お前が()()()良い。お前なら出来る筈だ……魔物の頂点たるドラゴン、その一切を統べる長ヴィルフリート!!」


 本当に()()()いたのは、魔王の方なのかもしれない。

 ヴィルフリートは気圧されそうな状況に在りながら、同時に胸に暖かな物を感じてもいた。

 誰も見る事のない、こんな風に感情を(あらわ)にした魔王の姿は、ヴィルフリートすら滅多に目にする事がなかったのだ。

 1度視線を外すと、ヴィルフリートは静かに立ち上がった。

 そのまま魔王へと近付き、宥めるようにその頬をそっと撫でる。

「残念ながら……正面切ってお前を捻じ伏せられる程の力は、俺には無いよ。例えどうにか殺す事が出来たとしても、間違いなく俺自身も無事では済まないだろうな。」

 ヴィルフリートは魔王を柔らかく抱きしめ、静かに髪に指を通した。

 ゆっくりと頭を撫でる仕草に促され、気配と共に魔王の緊張が緩んで行く。

「寝惚けた事を……永い歳月を経たドラゴンが私に敵わないと言うのなら、そんな風に力を抑える必要も無い筈だ。本当ならお前を弱いと哂える者など、この世界のどこにも存在し得ないのに……。」


 一言で言えば、口惜しさ。

 これこそが、魔王の一番の本音だったのかもしれない。

 ヴィルフリートが普段鋭い爪を落とし、悪魔、或いは()()と同じ形態を取っているのは、(ひとえ)に魔王を少しでも傷つけない為。

 だが、一般に知られる他のドラゴン達は、プライドの高さ故に姿を変える事を好まなかったし、まして爆発的なその力を隠すように押さえ込むなどもっての外だと思う者が殆どだった。

 ヴィルフリートがドラゴンの長である事は周知であり、だからこそ、振り撒く力の薄い姿は首を傾げる者も少なくなかったのだ。


「ユリウス以外の誰に何を言われようと、俺にはどうでもいい事だ。ただ、今日みたいな事にはならないように、今後は少し気を付ける。でも俺は……。」

 ヴィルフリートは1度言葉を切ると身を起こし、じっと自分を見つめる瞳と視線を合わせた。

 今は元の漆黒に戻り、悲壮に揺れるヴィルフリートの瞳は、微かに怯えの色が潜む気配を帯びている。

「お前の血だけは見たくない。自分の血を見る事になるより、よっぽど嫌なんだ。」

「だからと言って……。」

「……確かに、俺にとって唯一かもしれない、手ごたえの在りそうな相手と戦ってみたいと思うし、お前を殺す事で、独占したいという想いも否定は出来ない。だけど……お前の、ユリウスの居ない世界で生きる事になるくらいなら……自分が死んだ方が遥かにマシだ……。」

 強過ぎる闘争本能が、いつか大切な物を切り裂くかもしれない。

 過度に力を封じ込めるヴィルフリートが真に恐れる物、それは自身の本能に他ならなかった。

「さっきは、悪かった。ごめん。お前を『魔王』と呼ぶ時の俺は極端で、お前に辛い思いをさせる事もわかってはいるんだ……でも……。」

「もういい。私だって、理解していないわけじゃない。」

 纏わり付く言葉を払うように、魔王は俯きゆるりと首を横に振った。

 そして、両手を開くとじっと(てのひら)に目を落す。

 そこには零れ落ちる何かが見えているのだろうか、魔王は小さくため息をついた。

「何故私は……『魔王』になど成ってしまったのだろう……人間も、魔物ですら私にはどうでも良い……ヴィルとこうしている時間以外に、大切な物など無かったと言うのに……。」


 囁くような呟きに、ヴィルフリートの表情が悲痛に歪んだ。

 魔王はヴィルフリートに嘘を付く事こそなかったが、奥底に閉ざされた本音を口にする事は滅多にない。

 この上なく喜ばしい筈のその言葉は、むしろヴィルフリートの胸に酷く突き刺さった。

「今……こうして平和で居られるのは、お前が『魔王』だからだ。ユリウス。アイツが……()()()()がそのままだったら、俺が今ここに居る事は間違いなくなかった。」

 ともすれば浮かんでしまいそうな涙をどうにかやり過ごし、ヴィルフリートは魔王の涙の無い泣き顔を両手で包み込んだ。

「……そうだな。」

「大体、アイツが魔王のままなら、もう魔物なんて誰も居なかったんじゃないか? もっとずっと前に、人間に駆逐されていても何も不思議じゃない。」

 ただ唯一、自分よりも愛しい者の為、ヴィルフリートはその勤めを果たしたかった。

 沈んだ瞳が芽吹く事を願いながら、柔らかな笑みを顔へと乗せる。

 そうして、魔王を促してベッドの縁へ座らせると、自分も静かに隣に腰を下ろした。


「そう、だな……あれはどうしようもない悪魔だった……だが、ヴィルフリート。私は今でも後悔しているのだ。あの時私の代わりに、お前に魔王を倒させれば良かったと。」

「はは……きついな、それは。あの頃俺はまだ、お前の足を引っ張らないように動くのが精一杯だったし……。」

 髪に手をやり、ヴィルフリートは苦笑を浮かべた。

 前任の『魔王』を2人で打ち倒した時、ヴィルフリートはまだ若く、『ユリウス』の代わりに止めを刺すような動きは荷が重過ぎたのは明らかだった。

 ユリウスは緩やかに片手を上げると、ヴィルフリートの頬に静かに触れた。

「お前は本当に強くなった……ドラゴンは晩成だと言うが、まさかこれ程とは思わなかったぞ。」

 ようやく顔を覗かせた笑みに、ヴィルフリートは嬉しげに目を細めた。

「俺がここまで生き延びたのも、お前のお陰だ。小競り合いは有りながら、人間とも共存して……お前は素晴らしい『魔王』だよ。ユリウス。共に世界を創れた事を、本当に誇りに思う。」

「それは全く有り難くない言葉だ……だが、お前が『魔王』では、確かに難しかったのかもしれないな。」

 ユリウスは渋い表情を浮かべたが、同時に呆れた様子で口元に笑みを湛えていた。

「……俺が『魔王』だったら、きっと前の魔王より酷い事になる。」

 目を伏せて唐突に呟かれた()()()()()言葉の意図がわからず、ユリウスは小さく眉を寄せた。

「だって俺は……ユリウスを俺から奪うかもしれない、全てのヤツが邪魔でしかない。あの時にもし今の力があったら、間違いなく俺は全ての魔物を消滅させていた。」

「私が信用出来ないのか?」

「違う。頭ではわかっているんだ……でも、ユリウスが俺以外のヤツと話しているのを見たくない。誰かがユリウスを見ているのが嫌だ。俺だけを見て、俺以外の誰にも見せたくない……。」

 ヴィルフリートはまるで縋るように、両腕でユリウスを強く抱きしめた。

 意味のない事は口にしない、そんなユリウスに合わせたわけではないのかもしれないが、ヴィルフリートもまた、全てを曝け出していたわけではない事にユリウスは改めて気が付いた。

 初めて(かたち)となったドラゴンのその純粋な想いは、ユリウスの心に緩やかに浸透し、空虚を優しく包み込む。


 ユリウスはそっと目を閉じると、静かに微笑んだ。

「私の全ては、お前だけの物だ。ヴィル。」

 ヴィルフリートはゆっくりと体を起こし、ユリウスと視線を合わせた。

 出会った頃と何も変わらない、自分の我侭を受け止めるその笑顔は、ヴィルフリートの闘争本能すら抑え込む、何よりも強力で優しい『力』。


 顔を歪めたヴィルフリートは、今度こそ泣き出してしまうのかと思われた。

 次第に安堵に緩むその表情は、やがて本当に幸せそうな笑みへと変わり、ユリウスを大切な宝物のように両腕で包み込んだ。








 裸で身を寄せ合い、ユリウスは自分の髪を撫でるヴィルフリートの手をぼんやりと感じていた。

 ふいに何かを思い出した様子で顔を上げ、ヴィルフリートの瞳をじっと見つめている。


「そういえば……ヴィル、お前はドラゴンの瞳に戻るのを嫌っているが、私を抱く時は大抵()()()()()いる事に気付いているのか?」

 不意打ちのその言葉は余程予想外だったらしく、ヴィルフリートは目を見開いたまま動きを止めてしまった。

「気付いていなかったのか……どうして普段あんなに嫌がるのか不思議だったのだが、やっと合点が行った。」

 思わずといった様子で小さく噴き出したユリウスは、口元を手で押さえ楽しげに目を細めた。

「最近の事か? まさか今までずっと?」

「ん……何時からだったか……最初からではなかった記憶はあるが、少なくとも私が『魔王』になる前からだったのは間違いないな。自分が捕食されているようで、初めは戦慄したものだ。」

 クスリと笑みを漏らし、ユリウスは昔を懐かしむような表情を浮かべた。

 ヴィルフリートは逃れるように目を伏せると、少しの間、考え込む素振りで押し黙っていた。

「ヴィル?」

「ユリウス……。」

 口を開きかけて言い淀み、ヴィルフリートは悲痛な面持ちでユリウスの頬に触れた。

 目を瞬かせてその様子を見つめていたユリウスは、やがて呆れたように微笑んだ。

「また何か勘違いしているのか。私はお前の金の瞳が好きだと、何度も言っている筈だぞ?」

「でも、怖いんじゃないのか。」

「昔の話だ。殺されても構わないとすら思っているのに、私がそれを嫌がる理由がどこに在ると言うのだ?」


 ユリウスの言葉に、嘘はないように思えた。

 それでも尚残る若干の迷いを振り切るように、ヴィルフリートは身を起こし、ユリウスへと覆い被さる。

 隅から隅、指の先まで知り尽くした、何よりも愛しいユリウスの身体。

 時折漏れる甘い声に煽られながら、ヴィルフリートは自身の瞳の変容を認めざるを得なかった。



 殺して、全てを自分の物に。

 ユリウスを抱く事、それは、ヴィルフリートの最も恐れるその願望を、傷つける事なく叶える唯一の方法だったのだから。

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