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薄雲  作者: 山口ゆり
1980~90s
8/18

蜻蛉

聡介小学生編2

それは夏の昼下がり。

2人目の母親が出て行き、3人目が来るのも時間の問題だった。


俺は、触れてはならない人に触れてしまった。



俺のために用意されたこのだだっ広い部屋は、まるで監獄のようだ。

なんでも揃っているが、俺の欲しいものは何1つない。


眼下に見えるあの小さなベランダのある部屋には、俺の心をさらって行ったまま、棲み続ける女がいる。


「若菜ちゃん」


彼女の母親は彼女をそう呼ぶ。

彼女にとって母親はずっとあの人1人だけだ。

2人はとてもよく似ていると思う。


若菜は母親の手伝いを良くする娘だった。

今日も、いつものように洗濯物をとり込んでいる。



彼女とは、通学班が一緒だった。

5年経ってもピカピカの赤いランドセルの右側には、いつか俺が投げつけて欠けてしまったハート型のキーホルダーがぶら下がっている。


俺は若菜のことが嫌いだった。


俺の手に入らないものを何でも持ってる若菜。

どんなにはねつけても優しい瞳で見つめてくる若菜。


……本当は、好きだった。

ずっと、ずっと。


皮肉にも通学班では若菜が班長、俺が副班長だった。

2,3年を間に入れて歩く5分間。

このたった5mくらいの距離で隔てられ、俺の伸ばした腕は永遠に彼女には届かない。



勉強なんてしなくても出来た。

『出来る』ということが、俺の周りにいる大人たちの評価の基準だ。

だからむしろ、やらなかったしやりたくなかった。


今日はアイツが来るという。

わざわざここを視察するなんて、アイツはどこまでも俺を痛めつけて、楽しむんだ。

そっちがそのつもりなら、こっちはもう最初からそれに従うまでだ。


俺は人から逃げるのが上手くなった。



4年の時サボリを覚えて早1年。

夏の昼下がりは、ここに限る。

俺は葉っぱしかない中庭の桜の木の下に寝転んで、木漏れ日を感じながら目を閉じた。




「う、わぁ……っ!!!」


え。

ぼんやりと目を開けると、上から人が降ってきた。

腹と背中に鈍い痛みを覚えて、思わず乗っかってきたヤツを睨んだ。


若菜。


「いったたた……あ、え!?そ、聡介くんっ!!ご、ごめ……っ!!!」


彼女は細い腕の中に小さな三毛猫を抱えていた。


「あのっ、聡介くんいないから探しに来てっ、そしたら木の上にこの子がいてっ、降りられなくなっててっ、それで……っ」


その大きな瞳に涙をいっぱい溜めて、伏し目がちにする。


「ごめんなさい……」


そうやってポロポロと涙を零す。

若菜の口癖だった。

それは俺のせいだった。


猫を抱えたまま、若菜は俺の上から降りようとした。

それを止めて、引き寄せる。


「謝るな」


回す腕に力を込める。


「そ、聡介く……」

「謝るな」

「う、うん……」


上体を起こして、ふわふわした髪に顔を埋める。

このまま時が止まってしまえばいいとさえ思った。



今日も彼女は母親と、歌を口ずさみながら洗濯物を入れている。

そして俺もまた、いつもと同じようにそれを薄暗い部屋から見つめている。


あの時、何であんなことをしてしまったのか。

あの後、どうやって離れたのか。


彼女は軽かった。

触れた手が、腹が、鼻先が思い出すたび苦しいくらいに熱い。


ベッドの上に四肢を投げ出すと、耳に届くかすかな歌声。

彼女はなんて美しいんだろう。

目を閉じると、涙が頬を伝った。

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