蜻蛉
聡介小学生編2
それは夏の昼下がり。
2人目の母親が出て行き、3人目が来るのも時間の問題だった。
俺は、触れてはならない人に触れてしまった。
*
俺のために用意されたこのだだっ広い部屋は、まるで監獄のようだ。
なんでも揃っているが、俺の欲しいものは何1つない。
眼下に見えるあの小さなベランダのある部屋には、俺の心をさらって行ったまま、棲み続ける女がいる。
「若菜ちゃん」
彼女の母親は彼女をそう呼ぶ。
彼女にとって母親はずっとあの人1人だけだ。
2人はとてもよく似ていると思う。
若菜は母親の手伝いを良くする娘だった。
今日も、いつものように洗濯物をとり込んでいる。
*
彼女とは、通学班が一緒だった。
5年経ってもピカピカの赤いランドセルの右側には、いつか俺が投げつけて欠けてしまったハート型のキーホルダーがぶら下がっている。
俺は若菜のことが嫌いだった。
俺の手に入らないものを何でも持ってる若菜。
どんなにはねつけても優しい瞳で見つめてくる若菜。
……本当は、好きだった。
ずっと、ずっと。
皮肉にも通学班では若菜が班長、俺が副班長だった。
2,3年を間に入れて歩く5分間。
このたった5mくらいの距離で隔てられ、俺の伸ばした腕は永遠に彼女には届かない。
*
勉強なんてしなくても出来た。
『出来る』ということが、俺の周りにいる大人たちの評価の基準だ。
だからむしろ、やらなかったしやりたくなかった。
今日はアイツが来るという。
わざわざここを視察するなんて、アイツはどこまでも俺を痛めつけて、楽しむんだ。
そっちがそのつもりなら、こっちはもう最初からそれに従うまでだ。
俺は人から逃げるのが上手くなった。
*
4年の時サボリを覚えて早1年。
夏の昼下がりは、ここに限る。
俺は葉っぱしかない中庭の桜の木の下に寝転んで、木漏れ日を感じながら目を閉じた。
「う、わぁ……っ!!!」
え。
ぼんやりと目を開けると、上から人が降ってきた。
腹と背中に鈍い痛みを覚えて、思わず乗っかってきたヤツを睨んだ。
若菜。
「いったたた……あ、え!?そ、聡介くんっ!!ご、ごめ……っ!!!」
彼女は細い腕の中に小さな三毛猫を抱えていた。
「あのっ、聡介くんいないから探しに来てっ、そしたら木の上にこの子がいてっ、降りられなくなっててっ、それで……っ」
その大きな瞳に涙をいっぱい溜めて、伏し目がちにする。
「ごめんなさい……」
そうやってポロポロと涙を零す。
若菜の口癖だった。
それは俺のせいだった。
猫を抱えたまま、若菜は俺の上から降りようとした。
それを止めて、引き寄せる。
「謝るな」
回す腕に力を込める。
「そ、聡介く……」
「謝るな」
「う、うん……」
上体を起こして、ふわふわした髪に顔を埋める。
このまま時が止まってしまえばいいとさえ思った。
*
今日も彼女は母親と、歌を口ずさみながら洗濯物を入れている。
そして俺もまた、いつもと同じようにそれを薄暗い部屋から見つめている。
あの時、何であんなことをしてしまったのか。
あの後、どうやって離れたのか。
彼女は軽かった。
触れた手が、腹が、鼻先が思い出すたび苦しいくらいに熱い。
ベッドの上に四肢を投げ出すと、耳に届くかすかな歌声。
彼女はなんて美しいんだろう。
目を閉じると、涙が頬を伝った。