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薄雲  作者: 山口ゆり
1980~90s
7/18

パンドラ

聡介小学生編。

この坂を上った所には、それは大きな屋敷がある。

昔から聡介はその場所が大嫌いだった。

けれどどうしても坂の麓まで来ると駆け上がりたくなる衝動に駆られる。

そして今日も息を切らしながら目の前に映るそれを見つめて、やっぱり俺はバカだと自分で自分を罵った。



「あら、お帰りなさいませ。聡介おぼっちゃま」


真っ黒の服に身を包んだ女が1人、今日も彼の帰りを待っていた。

彼女は46、彼のほうはまだ10にもならないのに、ここではそんなこと何も関係ない。

やはりいつも通りの対応で気に入らない。


「ただいま」

「風邪をおひきにならないようにランドセルを置いたらすぐにうがいと手洗いをなさってくださいましね」


半ば無視するような形で自室に入る。

それは同級生には到底予想もできないくらいの広さであった。

聡介は最も奥の窓際にあるベッドへ脇目も振らずに近寄った。

そして窓を開けた。

彼にとって、そこから見える景色だけが明るく眩しい世界だった。

その世界には自分の居場所などないけれど。

そしてランドセルを投げ出して、布団に突っ伏した。

これから明日の朝まで、何をして過ごそうか。


今日は特別な日だということに、そこで気付いた。


聡介には友達はいない。

それは彼が妙に大人びてしまっていて周りが追いつけないこともあるが、彼自身が人と繋がることをどこかで拒んでいるせいかもしれない。

だから遊ぶことも、何もかも1人で、この部屋の中でできることを身に付けていった。

総じて彼は器用であったので何でもできたが、1人で遊ぶということはつまらないということを彼は小学校に上がる前に知っていた。



ふいにドアが開いた。

家政婦はそれに気が付かなかった。


「琴……」


自然の力に動かされて半開きになったドアの中には、雇い主の子供が立っていた。


「聡介おぼっちゃま?どうなされましたか?」


この子は自分に懐いてくれているのか今いち確信が持てなかった。

いつも哀しい色をたたえた瞳を浮かべている10歳の子供。

大人びているのに、その眸だけは真実を語っているような淋しそうな顔をしていて。

見ていて苦しかった。


その瞳がみるみるうちに涙に濡れた。

初めて見せてくれた感情に、戸惑いを隠せないのは確かであったのだが。

家政婦の女は、駆け寄ってきたその子を、しっかりとその腕で抱きしめた。


苦しい。


それがこの子の、聡介というこの家の息子の偽らざる本心なのだと思った。

それでも聡介にはここしかない。

琴はこの屋敷をまるでパンドラの箱だと思った。

けれどこの子を救い出せるのは決して自分ではないことを知っていた。

だからこそ、この腕の中ですすり泣くこの子を見守ってやりたいと思った。



遠い日。

自分はこうして母に抱かれたことがあるのだろうかと、ふと考えた。

もしかすると、こうして誰かに甘えるのは初めてかもしれない。

そして、今こうしていることも本当はいけないことなのかもしれない。

それでも。

今はこうして抱かれていたい。

せめて今日、今このときだけでも。


聡介は彼女の胸の中で涙を拭った。


「……悪かった」


そうとだけ言って、部屋を出た。

そしてまた自分1人の世界に戻ってゆく。


ああ、あんなにもここから見える世界は美しいのに。

何故自分はこの鳥かごの中にいるのだろう。

早く大人になりたい。

大人になって、ここを出て、1人で生きてゆくことを当たり前にしたい。

そうすればこんなに苦しくなんてないはずだ。

隣の家から聞こえてくる少し調子の外れた歌にこんなに切なくなる必要もない。

毎日あいつが帰ってくるかこないかをビクビク待つ必要もない。

名ばかりの母親なんていらない。




坂の上のこの屋敷は、聡介にとって地獄であり、そして唯一の居場所である。

聡介は11歳の誕生日の夜をまた、1人で過ごす。

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