若紫
父母のお話。
茉里は15で子供を産んだ。
決して好きになってはならない人の子を。
今、彼女は1人。
やっと首の座った息子は、手の届かないところに行ってしまった。
親にも勘当された。
15も上の男の子供を産むなんて信じられないと。
でも仕方ない。
産みたかった。好きで、好きで仕方のなかった人の子。
彼も彼女を抱いた。優しかった。
あの時のぬくもりさえあれば、生きてゆける。
そうして、彼女は誰に気付かれることもなくひっそりと生きている。
*
息子は父親の元に引き取られていた。
尚志は、親も、その親もまた政治家で、自分もその道を志していた。
そんな時、茉里という少女に出逢った。
不覚にも心から彼女を愛してしまった自分に気付いた。
この少女と共に生きてゆこう。
そう決めたから、精一杯抱いた。
それなのに、彼女は目の前から消えてしまった。
捜しに捜した。心が壊れてしまうほど。
それでも結局見つからなかった。
そして1年の後、自分の小さな頃と瓜二つの赤ん坊が連れてこられた。
全てが分かった。父を恨んだ。
でもその時すでに歯車は回り始めていて、子供に見合うようにと結婚までさせられてしまった。
*
茉里はテレビを見ない。新聞も読まない。
かつて愛した彼が、その中で確かに生きているから。
この間、たまたま職場で見たブラウン管に、彼と、美しい女性と、その隣にちょこんと座る男の子を見つけた。
思わず泣いてしまった。
仕事仲間は皆、驚きの目で彼女を見つめていた。
それまで彼らは、彼女が笑った顔すら見たことがなかったのだから。
*
尚志はほとんど家に帰らなかった。
代々の地盤とその風貌、頭の良さ。
彼が昇りつめていくのに時間がかからなかったのは事実だけれど。
もともと心の繋がらない妻と、愛した女性を思わせる瞳をした息子のいる家。
彼は息子に触れようとする時、あの娘に触れた時のようにしたいと思ったのに、どうにも上手くいかない。
本当に心が壊れてしまったのだろうか。
十数年経った頃には、息子は口もきいてくれなくなっていた。
彼の結婚生活も、何度も終焉を迎えていた。
この頃彼は未来を嘱望されていたから、後に座る女はいくらでもあてがわれた。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
想いめぐってそれでも彼の求める女性は、今も昔も1人だけ。
*
厚生省の次官が、職場を視察するという。
茉里はしがない給食作りのパート員だったけれども、全員参加というので仕方なくその場に残る。
物々しい雰囲気で入ってきた長官をみて、時が止まった―――。
彼女が時の厚生省長官なぞ知るはずもなかった。
まさかずっと夢の中でしか逢えなかった恋人だったなんて。
胸が締め付けられる思いがした。
駆け出してその瞳に私を映して。
でもすぐに思い出した。あの時見た彼の家族を。
だから彼に気付かれないようにそこから離れ、急ですいませんが、とその日のうちに仕事を辞めた。
*
やっと見つけた。
まさかこんなところにいたなんて。
彼は電光石火の勢いで彼女を捜し出した。
15年ぶりだった。
彼はあの夜言えなかったことを告げた。優しく。
想いは時を超えた。彼女は美しく泣いた。
ここでもし彼女が拒んだとしても、もう離したくない。離さない。
*
成人したばかりの息子は、高校を出てから一歩も家に寄り付かない。
ずっと心の中で、息子の幸せを願ってきたというのに。
皮肉なことに、彼は息子に昔の自分がされたことを繰り返している。
未だに上手く心のバランスが取れないのだった。
だからかもしれない。
あの時も、そしてあの時も、いつでもあの子にこうしてあげたかった、という想いは全て、もう1人の小さな息子に注がれた。
2人分、愛した。
*
「こんなんじゃ、日本の未来は危ないな」
不器用な政治家は、はは、と自嘲する。
やっとのことで手に入れた妻も、切ない顔をしている。
息子は、聡介は、自分が愛されているとは露ほども思ってはくれないだろう。
ああ、今、私たち家族はやっと1つになれたのに。
お前がほんの少しこちらに心を向けてくれたなら、この想いを伝えたいのに。
*
聡介。私の可愛い息子。
本当は親譲りで心の弱い息子。ずっと本当のことが言えないでいる息子。
ずっとひとりぼっちにさせた母を、あなたは許してくれないでしょうね。
でも、いつか分かってください。
あなたのお父さんは、本当にとても深く私を愛してくれたのよ。
私がもう少し強ければ、もっと早くあなたを抱きしめてあげられたのに。
ごめんなさい。
茉里は待合室で座ったまま、今まさに弟を救わんとして戦っている兄のことを思った。