4.聡介と2人の天使
聡介は天使と出会った。
子供たちの世界は美しい。取り繕うことなど何一つなく、全てが実像。
何よりその瞳には希望の光が見える。それがありがたくもあり、嬉しい。
*
205号室の住人は、血を病んだ少女だった。
毎日の採血で、まるでこの世のものとは思えない白い肌を青黒く変色させている。
「先生、今日は暑い?」
「いや、別に。今日はジメジメしてなくていい感じだな」
「そう」
窓の外は、外科病棟の、壁。ただ知るのは、遠い遠い空の色。
それと同じで、どこまでも透き通った綺麗な瞳をした彼女。
「私ね、最近調子いいみたい。秋朔もそうなんだって」
「そりゃ良かった。担当医としては助かるな」
「こちらこそ」
採血が終わってパジャマの裾を手首まで戻してやる。
淡い色が良く似合う少女だった。
秋朔と呼ばれた少年もまた、この特異な血の病を抱えていた。
2人は生まれたときから共に戦ってきた仲なのだ。
配属になる前高井に連れて来られて会って以来、2人は聡介を兄のように慕っていた。
実際のところ、データを見ても2人の病状は言葉とは正反対であった。ほとんどその時を待っているという状態。
なのにこの少女ときたら、気持ちよさそうに笑っている。
「秋朔がね、また源氏物語の話をしてくれるの」
「今日はどこから?」
「えーと……何だったかな」
少女は古典を語る少年に恋をしていた。美しくて、眩しい。
聡介は初めて会ったときから、この2人をじっと見守ってきた。
聡介にとって2人はとても大事だった。
こんなに穏やかな顔をして美しく恋を語る若者たちを、自分よりずっと大人だと感じていた。
「涼子」
「ん?」
「……でもあんま、無理すんなよ」
「はーい」
医師は事の深刻さを知っているがゆえに、患者も自分のことであるがゆえに、一番重要な部分は言葉に出さずとも分かっていた。
だから、少しだけ注意。
つんのめらないように。それだけ。
「あれ、中田さん」
「おう」
「なんでいっつも涼子が先かなぁ」
「男と女だったらそりゃあ女をとるよ、俺は」
「うわっ、最悪医師」
「褒め言葉をどうも」
扉を開けて入ってきたのは、青いチェック柄のパジャマ。
少しくせっ毛で、背の割には全く肉のない身体をしていた。
彼は聡介のことをさんづけで呼んでいる。
「グッドタイミング。今秋朔の話をしてたとこよ」
少女が破顔する。
王子様の登場に、その小さな身体いっぱい喜びを溢れさせて。
少年もそれに応える。
勧められる前にお姫様の横に座り、彼女のためだけに笑顔を作る。
聡介は時々、その景色が現実なのか2人に触れて確認してみたくなる。
「では邪魔者は消えるとするかねぇ」
「あーそうしてよ」
少年はいたずらっぽく告げる。
それを見て少女は2人はまるで兄弟みたいと笑う。
彼は、聡介が昔自分の手の中で亡くした弟の瞳に似ていた。
今一番護りたいもの。それがここにあった。
*
2人が、日に日に痩せていく。8月もお盆を過ぎた頃。
聡介はこっそり、毎日の見回りの回数を増やしている。
「あ、先生」
「よ」
「何しに来たのさ。今日これで何度目?全く暇な医者はこれだから困るよ」
「うるせぇ」
バレていた。そう言いながらも2人は、聡介を受け入れる。
よく分かっていた。この担当医が、自分たちのことを自分たち以上に心配してくれていることを。
「明日なんだけどさ、お前ら外出てみたくないか?」
急な提案。
「えっ!?なんでどうしたの?」
「や、別に、ここらでいっぺん家に帰ってみるのもどうかと思ってよ」
ドキドキしながら返事を待つ。
「……うん、いいかもね」
少年が少しの間の後そう言う。
この2人は、生まれてこのかたここを出たことがない。
そして、両親たちは何をしてあげれば良いのか分からず、接し方に苦労していた。
そんな時に聡介が来た。聡介は彼らに、自分が子供の頃望んでいたことを伝えた。
―――何も考えずにそばにいてやること。
おそるおそるではあったが、彼らはそれを実行した。
それまで絶対に会おうとしなかった2人も、2年ほど前から何も言わずに彼らを拒まなくなったのだった。
「うわぁ、どこ行こうかなぁ」
少女は夢を見るように呟く。
「行きたいところに行ってこいよ。今までベッドの上でそういうこと散々考えてただろ」
「うんっ」
そしてこれは最後の旅だから。戻ってきたら、きっともう二度と外には出られないから。
だから、うんと風を感じてこい。
めいっぱい草の匂いを吸い込んでこい。
干からびるくらい陽の光を浴びてこい。
自分の足で、広い世界を見てこいよ。
そしたら、お前たちのこの小さな世界がどんなに綺麗なものか分かるよ、きっと。
「ねぇ中田さん。中田さんだったらどこ行くよ?」
「え?」
「どっか1つだけ行けるとしたら、中田さんだったらどこに行く?」
「んー……」
ここだよ。
今休暇を与えられても、きっとここに来てしまうだろう。
お前たちのいるここが、俺にとっての一番の場所。
「やっぱ家だろう」
「えー?何で?」
「寝る」
「つまらん人間だなぁ」
「つまらなくて結構。俺様は、日々君たちの面倒を見ていて大変なのだよ」
「恩着せがましいの。あんたそれが職業だろうに」
「うるせーなーお前らもっと俺に感謝しろ、感謝」
「「えー」」
聡介は、日々この2人の存在が自分をとても穏やかにしてくれるのを感じていた。それと同時に、死なせたくないという思いが膨らんでゆくのも。
人がそれを責任感と呼ぶのなら、俺は小児科を選んで間違いなかった。そう思った。
けれど彼らと過ごした日々は、いよいよ終わりを告げる。また、助けてやることが出来なかった。
それでも絶対に忘れない。豊嶋秋朔と深沢涼子という人間が確かに存在していたことを。そして、中田聡介という人間に生きる意味を教えてくれたことを。
そう。彼らは命がけで聡介に教えてくれた。人を愛することの美しさを。一生懸命生きる人たちの輝きを。
そして……聡介にも、生まれてきた意味があるということを。
彼はずっとその答えを探していた。探し続けていた。
こうして誰かに言って欲しかったのかもしれない。あなたに会えて、良かったと。
今回登場した2人の天使は、別作「空蝉」の主人公です。
よろしかったらぜひそちらもお願いします。