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薄雲  作者: 山口ゆり
本編
3/18

3.聡介と彼の生きてきた道

4年前。研修医として、聡介は救命救急にいた。

その最中、20も年の離れた自分の弟を救ってやれずに手を下ろした。

真っ青な顔をした義母を、薄いガラス1枚隔てたところに残したまま。


怖かった。意志とは関係なく動く指先。

聡介の顔を見て、同期の仕事仲間たちは不安を隠せずにいた。

みんなが聡介に気遣いの声を掛けた。

それはおよそ普段一分一秒を争っている世界と同じとは思えない光景だった。

運び込まれてきたのは深夜。

熱発と痙攣を引き起こしていた。これくらいの赤ん坊にはよくある症状。

しかしそれは、一瞬の予断も許さない。


聡介はまるでロボットのようだった。心の舵が取れなかった。

自分とよく似た顔。


―――眩暈がした。


皮肉にもこれが兄弟の初対面だというのに。

どんどん処置を済ませながら、この赤ん坊の将来を思った。

多分この子は自分と同じ環境で生きてゆくのだ。いや、もっと誰かに愛されて過ごすかもしれない。

それでも自分のこれまでの人生、何か良かったことなどあっただろうか、などと考えてしまう。

同じように生きても、この子のこれからにはここで眠る他の小さな命と同様の無限の可能性があるのだろうか。


必死だった。

もし、この小さな命が進んでいく道が自分と同じだったとしても、弟は自分じゃない。

父がいて、母がいる―――。

聡介は必死に救おうとした。それはきっと、幼い日の自分を重ねて。



聡介には、母がいない。

物心が付く頃には<そういう>存在は与えられていたけれども、彼には分かっていた。彼女たちは、本当の母親ではないことを。

彼は母のことを何一つ憶えてはいない。温もりも、優しさも、何もかも。

それが自分にだけ足りないということに初めて気付いたのは、いつのことだっただろう。

周りの同じような子たちにはあって、自分にだけないそれ。どんなに欲しくても手に入れられないそれが、聡介が一番望んだものだった。

今なら分かる。

父は、いないも同然の人間だった。他の人と同じように、テレビの中でその顔を見るほうが多いくらいに。

それなのに、聡介に対する父の存在は絶対だった。

逆らうことなど、許されるはずもなかった。

直接顔を合わせて話をしたこともないのにどんどん追い詰められる。

それは望みもしない偽りの母であったり、自分の進路であったり。うんざりだった。

だから、聡介にとって家という所は『帰る場所』ではなく、『牢獄』だった。

何のために自分はこの家にいるのだろうと考えていた。

少なくとも、自分が中田聡介だからこの家にいなくてはならないだけであって、自分という人間そのものを必要としている者などこの家のどこにもいない。

総理大臣という看板を背負った父と、その妻を演じる義母、そしてその息子をするためだけに生きる自分。家族などではなかった。

血の繋がりが疎ましい。

どうして生まれてきたりしたんだろう。

子供は親を選べないのか。

大人というものになれるのだとしたら、すぐにでもこの家から出て行きたい。そんな思いが膨らんでいった。


ちょうど中学に入った頃、何度目かの母親交替の時期が訪れる。

聡介は、また長くても2年くらいのことだと思っていた。

政治家の妻をすることだけで精一杯の女たち。きらびやかな世界で生きたがる彼女たちには、聡介は息子には成り得なかった。

なぜなら彼は彼女たちを母として見ようとはしなかったからだ。

おなかを痛めて生んだわけではない。とりあえず妻を演じていればそれで自分の生活は保障されるのだからと、日に日に彼女たちの足は聡介から遠ざかって行った。

聡介もそれを望んだ。母親面をした代わりのいくらでもいる存在など、いらない。

新しい母は、とても若かった。30になるかならないかの小さな体。

そんな女をあの父が娶った。そう考えるだけで吐き気がした。

女は名前を茉里(まり)と言った。

聡介はいつも通りに振舞う。それなのに、彼女は彼に笑顔を向けてくる。話しかけてくる。

分からないのか?俺はあんたを拒絶しているんだ。

聡介は心の中で何度もそう叫んだ。

けれど茉里は話しかけることを止めなかった。

まるで彼女が彼の本当の母親なのだと錯覚させるようなその態度は一体、何だ。

苛立つ心の奥底で、もう1人の自分が叫んでいる。

この瞳を知っている。自分が求めているのは、これだ、と。

胸やけするようなこの思いは何だ。

そして気付いた。自分を見るその目は、中田聡介を見ているわけではないと。

自分を通り抜けて、だんだんと似てくるこの世で最も憎むべき男を見ているのだと。

ようやく合点がいって、また吐き気がした。

可哀想な女だと思った。どんなに愛したとしても、彼は彼女を愛しはしないだろう。

自分がそうだった。決して彼は自分を愛してはくれなかった。

それなのに、その愛のために彼女は今、聡介の前に母として立っている。笑いかけている。話しかけている。

何て可笑しい人生絵巻なのだろう。



窓の外が白んできた頃、指導担当の医師が義母に告げてくれた。

半家族、半担当医という立場でそれを聞きながら、こらえきれずに下を向いた。

責められて当然だと思った。しかしこの女性は優しい光を持った哀しい瞳をして、ただ、静かに泣いていた。

そうやって、最後まで自分に投げつけられるはずの言葉は形になることはなかった。

責められた方がましだった。



寒い1月の昼だった。葬式に出るため何年かぶりに実家に帰った。

亡くなった自分の息子を溺愛していた時の首相は、もう1人の我が子を家族席にも座らせなかった。

聡介は聡介で、心が固まってしまったようにそれを見てから、廊下に移動してじっと庭の椿を見ていた。


あ、落ちた。


椿は生を全うすると、花ごとポトリと地に落ちる。その潔さに、心が軽くなるような気がした。

愛されていた。弟は、間違いなく。それが嬉しくて、切ない。

どうして愛されない自分がこうして生きているのだろう。

どうして愛されていたあの子を、助けてやれなかったんだろう。

それを思うたびに、夜も眠れない。


「……あ、」


会うのは1年ぶりだった。

高井に任せてしまったきり、彼女に会うことはなかった。黒い喪服に白いレースのエプロン。

少し痩せただろうか。肩先がさらにほっそりして見えた。

彼女は自分から手伝うとでも言ったのだろう、せわしなく動き回る中、聡介の前に足を止めたのだった。


「久しぶり」

「……ああ」

「小児科を選んだって聞いた」

「うん」


あの後、救急にはいられなくなってしまった。処置室に立つのが怖かった。苦しそうなあの息遣いを感じる。憶えている。

苦しそうに自分を見つめて、助けてくれることを信じている小さなあの瞳を。

この娘だったら分かってくれるだろうか。

包んでくれるだろうか、逃げ出した脆い心まで。

咄嗟にそう思ってしまっていた。2人には、時間が経ち過ぎていたのに。

あの日々と終わりを考えれば、すぐに分かっても良かったはずなのに。

若菜は聡介を見据えていた。


「ねぇ聡介くん、それって本当に聡介くんの意志なの?」


思いっきり、頭を殴られた気がした。

2日前、リカにそれを告げた時には「好きなようにすればいい」と言われた。そうさ、逃げたって言ってもそこでは精一杯やるつもりだ。そう自分を励ませたというのに。


「その自覚と責任がないなら、今からでも止めて」


彼女は保母として歩き出していた。

その言葉は、子供たちと接する間に刻まれた思いからなのだろうか。それとも、付き合い始めたと先輩からの影響だろうか。

強い瞳。初めて彼女が怒った、あの日のことを思い出す。

目が覚めた気がした。

いつまでも弱いのは、自分だけだ。それをここで思い知る。

若菜のその瞳は、今でも忘れない。



「中田先生、今日上がった後空いてます?」

「え?」


若い若い看護婦。名前は……。


「小坂るみ子。まーだ覚えてくれてないんですかぁ?」

「悪い」

「どっちに対して?」

「両方」

「ちぇーだ」


子供みたいに口を尖らせて言う。


「ねぇセンセ、好きな人、いるんでしょう?」


とっさにでも「彼女がいる」と返せない自分が悲しい。

この看護婦は、リカのことを全く納得していない。


「どうなんです?」

「だから、彼女がいるって言ったよね」


大人の口調で抵抗してみる。


「ああ、あの人ですか?」

「桐原リカ」

「私、先生とあの人、合わないと思います。なんていうか、もっと先生を包んであげられるような人じゃないと」


あんたなら包めると?その方がよっぽど無理だ。


「それに先生には他に手の届かない女の人がいるんだと思う」


女という生き物は実に鋭い。この看護婦とは知り合ってまだほとんど日がないが、たまに自分の人生見られてたんじゃないかという時がある。

あの時若菜が言った言葉は今でも胸に刺さったまま。

散々傷つけておきながら、いざ自分に帰ってくるとこんなもんだ。

今、小児科医として歩き出した自分は、あの日に彼女が投げかけた問いに答えられているだろうか。

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