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薄雲  作者: 山口ゆり
本編
2/18

2.聡介と彼の恋

来いと言われたので出向いた先輩医師の新しい城。そこには彼女がいた。

そうだ、付き合っていたんだった。後ろ手に閉めた扉を握る手が、心なしか震えた。

彼女もまた、驚いていた。

昔はしていなかった薄めの化粧が、あの頃の面影を残しつつも彼女の顔をさらに美しく彩っていた。


3年。当たり前か。

ふとそんな考えてもどうしようもないことをまた考えてしまって、心の中で苦笑する。

いざこうして会えてしまうと、どう振舞ったら良いものか。

顔だけでも見られないかと毎回のようにあの窓を見つめているというのに。そのことを、彼女はもちろん知らない。知らないほうがいい。


「よぉ中田。ホントに来てくれたのか」

「来いって言ったのは自分のクセに」


ははは、とこの男は無邪気に笑う。

聡介も笑って見せた。彼女も笑顔だった。

笑顔がおぼつかなくなったので差し入れの牛乳プリンを袋ごと手渡すと、今度は手持ち無沙汰で落ち着かなくなった。

彼と彼女の顔を、見つめ返される前に見つめて瞼の裏に焼き付ける。

こんな狭い場所にこの3人。形だけでも笑い合えるようになるなんて思いもしなかったから。


若菜(わかな)、コイツに茶でも出してやって」

「あ、いけない。……ごめんなさい、気が付かなくて」

「いや、別に……お構いなく」


ぱったぱったぱった。部屋を出た真新しいスリッパの音が小さく響く。

後ろ髪が伸びて、毛先に向かってゆるくウェーブがかかっていた。

聡介は気付かないうちに、ぼーっとその行く先を見つめていた。

あの頃のようだ。


「アイツ、綺麗になったろ」

「え、あぁ、まぁ……」


そんなこと訊くなよ。そう思って見やった横顔は、同じようにまっすぐに彼女を見つめていた。

自分もそんな風に彼女を見ていたのだろうか。


「相変わらず冷てぇよな、お前」

「……」


反論の仕様がないだろう。この人は何を言わせたいんだ。

気付いているのに知らないふりが得意な、この人は。


「先輩も、相変わらずキツイ」

「……それくらいのこと、言わせろよ」


苦笑した。あの時中田聡介という底なしの渦からアイツを掬ってくれたのは紛れもなくこの人だ。

若菜も何も言わず、付いて行った。

きっとこの人は、自分を憎んだろう。投げ捨てるように彼女の手を振り切った自分のことを。

静かに泣き続けていた彼女の隣で、一緒に苦しんでくれたんだろう。


「幸せそうで、良かったです」

「……まぁね」

「俺、そろそろ帰ります」

「なぁ中田。お前のこと好きだけど、若菜のことはもっと好きだから」

「……勘弁してくださいよ。ノロケなんて聞きに来るほど暇じゃないんでね、俺は」


ありがとう。そう胸の中で呟いていた。

このひとには感謝してもしきれない。

あなたと若菜が幸せでいてくれて、心から安心しているんだ。だから。

聡介はまた、苦笑した。



小泉(こいずみ)若菜は聡介の隣の家の一人娘だった。互いに幼稚園に入るまで面識もなかった。

聡介は友達を作る気はなかったし、いくら隣の家の子だとは言え他人だ。だから彼女と仲良くするつもりはなかった。

随分ひねくれた子供だったに違いない。

好んで過ごす場所は屋上。フェンスの近くに腰を下ろしてぼうっとしているのが常だった。

大半の子供たちが母親と別れるのが嫌で泣き叫ぶ中、彼はそういった行動を取ったことがなかった。

綺麗過ぎるほどの制服。泥んこになって遊ぶこともなかった。

それなのに、若菜は隣の家の子だというだけで聡介に親しげに近寄ってきた。

自分のそばに人がいるという慣れない感覚。

聡介はそれを感じるのが嫌いだった。嫌いなのに、振り解けない。

その笑顔が聡介をそうさせたのだろうか。分からないけれど、聡介は若菜といるといらいらした。

けれど、きっと人生の中で一番長い時間を共に過ごしていた。小学校も中学校も、そして高校も一緒だった。クラスも何度か同じになった。

けれど、幼稚園を含めて15年間で自ら彼女に話しかけた記憶はほとんどない。それなのに、気付くと彼女は隣で笑っていた。

小学生にしてサボることを覚えた。中学・高校ではそれが当たり前だった。勉強なんて学校でしなくても出来たし、問題はなかった。

山のようにあった不登校記録も大人たちの事情が全部チャラにしてくれる。彼女はそんな彼に対して初めて怒りを表した人間だった。

大抵の人間は怒る前に途方に暮れる。この子とはやっていけないと分かってしまうからだ。

聡介が生きる中で何度か変わった母親たちもみんなそうだった。

そういう人間たちの扱いには慣れていたはずなのに、彼女にはそれが通じない。


「このままだと聡介くん、ダメになっちゃうよ!」


自分のことのように怒る彼女に、返す言葉もなかった。

ダメ?何がダメだって言うんだ。

聡介も腹を立てた。ダメな人間だと言うなら、放っておけばいいじゃないか。どうせ自分には生きている価値なんてない。

ただ、決められた人生を歩むように生かされているだけなんだから、中身なんていくらダメだってなんだっていいじゃないか。

大体、彼女には関係ないことだ。

そう言ったにも関わらず、彼女は翌朝から彼の家に来るようになった。彼を迎えに。

そんな必要はどこにもない。

若菜は母親でもない。なぜそんなことをするんだろう。苛立ちが募った。

通学班で前を歩く彼女のことが理解出来なかった。

だから駆け寄って、ランドセルの横に付いていたキーホルダーを力任せに引っ張ってちぎり、彼女の顔に投げ付けた。叫び声が上がる。

その日の晩に、父親の秘書と共に彼女のところに謝りに行かされた。

渋々ながら頭を下げると、彼女も、彼女の母も笑って許してくれた。

その日以来、小泉若菜は聡介の胸の一番奥底の、彼にしか見えない部分に棲み付いている。


中学に上がっても高校に行っても、彼女は毎朝聡介を迎えに来た。

彼氏と彼女ではなかった。ただ毎朝15分間の逢瀬。

嫌いで憎くてたまらないはずなのに、どうしてこんなにも胸が締め付けられるのだろう。

彼女を泣かせることしかしていないのに、どうして彼女は自分のそばから離れないのだろう。自分もどうして彼女から離れないのだろう。

それが分からなくて、また苛立った。

ちょうどその頃リカと出会った。聡介はリカと恋人同士になった。

若菜をまた泣かせてしまった。

そして気付いた。彼女の不毛な想いに。自分の想いに。


バカな恋をしている。自分も、彼女も。

バカだから止められないのかもしれない。

生まれて初めて、誰かに幸せになってほしいと願った。

だから、彼女を高井に引き合わせた。

聡介は彼女を突き落とすことでしか彼女から離れる術を知らなかった。

どうせなら、自分のことなんて記憶から抹殺してほしい。

こんな自分と知り合ったことを後悔されるなら、その方がずっとましだ。

聡介と若菜の関係は、そこで途絶えた。

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