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薄雲  作者: 山口ゆり
2030s
18/18

花宴

快晴だった。

昼間も皐月晴れで空気が穏やかな本当にいい天気だった。

慌しい妻や娘に放って置かれて、彼は手持ち無沙汰でテラスに出る。

彼は、長男の結婚式のために彼が住む沖縄に来ていた。

明日が式である。


そこに現れたもう1人の手持ち無沙汰の男。

彼は誘う。


「なぁ中田、飲まないか」



沖縄の初夏は美しい。

日が暮れかかっている今でも、ガラス越しに海と戯れる人たちの姿を捉えることが出来る。

紅い空に染められた海。

人影がシルエットになって、細波に揺れる。

聡介はブランデーを康太郎のグラスに注いだ。

康太郎はグラスを持ちながらその様子をじっと見ていた。


彼らはかつて先輩後輩の仲だった。

いろいろ複雑な事情があって20年近く顔を合わせていなかったのだが、ひょんなことで再会することとなってしまった2人。

そのきっかけは明日結婚を控えたそれぞれの子供たちの縁だったのだから人生何が起こるか分からない。


「あーあ」


50過ぎの男にしては随分と気の抜けた声だな。

そう思った。

けれどそれが高井康太郎という男なのだ、と感じて嬉しくもある。

いろいろあって、しかもそれは全て自分のせいだったというのに、この人はこうして時を超えても昔と何も変わらずに自分に接してくれる。

本当にこの人がいなかったら今頃自分はどうなっていたことだろう。

聡介は隣に座る男にゆっくりと目をやった。


「娘までお前に盗られるとはなぁ」

「……また大げさな」

「だってなぁ、愛里(あいり)は俺の可愛い可愛い1人娘なんだよ。小さい頃から俺の後ばっかり追いかけて志保(しほ)に呆れられてたくらいなのに、どこで間違ってお前の息子なんかの後くっ付いてっちゃったんだよー」


康太郎はおどけた風にそう言う。

けれども、娘まで、と言ったところが胸に痛い。

かつて一緒に働いていたときも、いつも「子供が欲しい」と言っていたっけ。

遠い昔に思いを馳せる。


この人はいつもこうだった。

本当はこれは本心だということを経験上知っているから苦笑いしか出来ない。

自分の気持ちよりも何よりも、相手を思い遣ってしまう人。

30数年前、自分の妻である女性は彼の恋人だった。

自分にも別に恋人がいた。

ずっと素直になれなくて、いや、素直になることが怖くて、彼の彼女に対する想いをいいことに彼女を彼に押し付けて逃げた自分。

それでも彼女を何も言わずに守ってくれて、そしてやっと決心したときには笑顔で送り出してくれた彼。

いくらあの頃の自分は幼かったにせよ、きっといつまでもこの人には敵わない。

心からそう思った。


康太郎はグラスを傾ける。

そう言えばこうして一緒に酒を酌み交わすことなど今まで1度もなかった。

あんなにいつも一緒にいたくせに、それが可笑しい。




「なぁ中田、お前今幸せか?」




ふいに康太郎がそう訊いてくる。

目は未だ綺麗な紅い海に吸い寄せられたままで。


幸せかそうじゃないかって?


聡介はまた、苦笑いする。

だってそんなこと答えるまでもないことだから。


「まぁ訊かなくてもそうだと思うけど」

「ええ」

「そうだって言わなきゃシメるけどな」


康太郎もかすかに笑っていた。


先輩知ってますか?

俺は人生の中であなたに出逢えたことを3本の指に入るくらい幸せなことだと思ってます。


康太郎がグラスを置く。

気付かぬ間に空になっていた。


「そうじゃないとか言ったら殴ってるけどな。……昔みたいに」

「そんなこと言いませんよ。殴られたくないし、先輩って力がムダに強いしね」

「ムダとか言うな、ムダとか」


けらけらと笑い合う。

ふと、今がおそらく一番幸せなのだと痛感した。

やっぱり泣きたくなる。

これも歳のせいだろうか。

そして訊いてみたくなる。

今目の前にいるこの人は、自分がこの手でさまざま奪ってしまったこの人は幸せなのだろうか、と。




「先輩。先輩は今幸せですか?」




康太郎が初めてこちらを向く。

そして一瞬その瞳に射抜かれる。

頭の上に手を置かれて、それこそ30年振りにいい子いい子された。

こんな歳にもなってやることでもないけれど、この行為がこんなにも愛しい。


「……なぁ、明日もいい天気かな」

「ええ、天気予報ではそう言ってました」

「そっか……なら、俺は幸せだよ」


明日は若菜の誕生日。

その日に決めたのは、新婦だと聞いている。


手が頭から離れた。

本当に泣きそうになった。

何でこの人もこの人の娘もこう。

恨めし顔で見つめると、康太郎はまた笑った。


「さぁて、戻るかな。娘からのお礼のお言葉が待ってるかもしれないし。俺楽しみにしてんだ、アレ」

「先輩」

「じゃあな」


……ありがとうございます。


また、言葉に出来なかった。

言葉にしなくても分かってくれているような人だけれど。

その背中を見送る。

康太郎は柔らかい笑顔を残して去ってゆく。



先輩、今夜は泣くかもしれないな。



そう思って、聡介は1人グラスを傾けた。

氷が乾いた音を立てる。

外はいつの間にか暗闇に変わっていた。

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