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薄雲  作者: 山口ゆり
2010s
17/18

夢浮橋(2)

「……かわいいな」


ふと、そばの男がそう呟いた。


「私は……お前にすまないことをしてしまった」


驚いて、その顔を見る。

今までこんな顔をするこの人を見たことがあっただろうか。

こんなに真っ直ぐに見つめられたことなど、あっただろうか。


「茉里は、お前の本当の母親だ」


その言葉の重みはいかばかりだろう。

聡介は父の顔をぼんやりと見つめる。

父はそのまま、その経緯を聡介に話した。

尚志は必死だった。

息子がそれを受け入れてくれなかったとしても、それは自分のせいだ。

罰も責めも甘んじて受けよう。

でももし今伝えなかったら、自分は父として、息子に何もしてやれないような気がするから。

お前は父とこの母が愛して生まれてきたのだということ。

愛し方を間違ってしまったこと。

それでも本当に息子を愛していること。

それをこの一言に込める。


「本当に、すまなかった」



若菜は息子を抱き上げて、夫の顔を見つめていた。

夫は、泣いていた。


今、この時にも義母は生きようと戦っている。

義父も夫のために、戦っている。

そして、夫も、自分と戦っている。

自分は、何がしてやれるだろう。


聡介はただ、涙を流し続けていた。

知っていた。

分かっていた。

ここで眠る女性が、母だということを。

あの深茶の瞳が自分を見るたび、既知感を感じていた。

そして父も、自分を愛していたということを。

だからただ、なすがままに泣いた。


涙は、体の中に流れる血の一種だそうだ。

だから泣いたらきっと。

父も、母も、今まで抱え続けた想いも受け入れることが出来るような気がしていた。



次の朝。

聡介は仕事に行かなければならなかった。

周りの世界はいつもと同じように動いていた。

母はまだ、目覚めない。


「……いい風だ」


尚志が口を開いた。

カーテンを揺らす爽やかな風が4人の間を吹き抜けた。

聡介もそう思った。


なんだ。

あるじゃないか。この人と共有出来ることが。


なんだか笑えた。

そして微笑んだ。

その姿を見て妻が微笑む。

息子も笑っていた。



聡介は昔のことを思い出しながら20年ぶりに煙草をふかしていた。

あまり美味くない。

その煙にちょっとだけむせて、涙目になる。


「パパ、大丈夫?」


娘が言う。

むせただけだと返す。

大きくなった。

きょう初めてその喪服に袖を通したという。

似合っているよと告げたら、似合ってても嬉しくないと言われた。

こうしてみると、母にそっくりだ。

その瞳に自分の姿が映るたび、そう思う。

そんなことを思って写真の中の父に目をやった。


台所から母が出てくる。

あの頃からそうだったが、変わらない。

1番悲しんでいるのは彼女だろうに、来てくれた親戚や友人に食事を振舞ったりして座る暇もない。

薄手の黒い服が揺れていた。

あの部屋のカーテンを思い出した。

火を消して、立ち上がった。

母に近づいて、手にしていたお盆を奪った。


「休んでこいよ」


母は笑った。

哀しげに。

ありがとう、と言ってエプロンに手を掛ける。



結局、父の方が先に逝ってしまった。

だから母は、自分が護っていかなければ。

決めたんだ、俺を愛してくれる人を愛してゆくと。


だから父さん。心配するな。

父さんがいたからあるこの命、それを必要としてくれる妻、子供たち、そして母。

感謝している。


いてくれて、ありがとう。

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