約束
聡介&誰かさんの弟
自分はどうしようもない人間だということを嫌なほど知っている。
愛されたかった、ずっと。
けれど純粋に自分を愛してくれるその人を大切にすることが出来ず、いつも傷つけてしまう。
愛されたいと願いながら、愛されることが怖かった。
自分を好きでいてくれる彼女が幸せになれないような気がして。
だから未だに怖くなる。
彼女がそばにいてくれることが。
彼女が俺だけに微笑いかけてくれることは夢だと思う方が信じられた。
そして、彼女はこんな自分にも守れる命さえも与えてくれた。
だから俺は、この世で最も愛しい存在の1つである息子を命がけで守ってゆく。
遠い日。
こうしてうとうとしているといつもあの歌が聞こえた。
窓を閉めた途端に自分のいる世界が隔絶される恐怖。
彼女のいる世界は暖かく、優しい。
けれど俺はその優しさに溺れることは出来なかった。
いつも無駄にでかい部屋で身体を抱きしめて寒さを凌いだ。
寒くて、痛くて、辛くて。
逃げ出したくてたまらなかった。
けれど泣けはしなかった。
泣くことは自分にとって何にもならないことを最初からよく知っていたから。
母親と名乗る女たちは皆自分が親父にとってふさわしくなることのほうが重要で、俺はその邪魔をしないことを覚えた。
だから俺はあの頃、とうの昔に涙を捨てていた。
自分の痛みを堪え、人のために泣くこともない。
痛みも苦しみも、見ないようにするのは容易い。
それでも5年前、俺は涙を止めることは出来なかった。
―――秋と涼子を失って。
彼らだけが心の支えだった。
あんな風に強く、優しくお互いを想い合えるようになりたかった。
いつもいつも、2人の世界は透明で、綺麗で。
どうして。
どうして俺は2人を助けてやれなかったんだろう。
どうして何も出来なかったんだろう。
出逢うべくして出逢った2人。
彼らも彼らの世界ではたった2人だった。
俺は医師ではなかったか。
俺は治療をしていたのではなかったのか。
いくら問うても、答えてくれるあいつらはもういない。
だから俺は、あいつらの病気がどうしたら治るのか、それだけをこの何年か研究してきた。
それで償えるとは思ってないけれど。
「中田先生、中田先生」
当直明けの医局。
俺はソファに倒れこんでいた。
まだ。まだ何も掴むことが出来ないでいる。
もしいつか彼らと同じような子供が来た時、その病気を治すことが出来る医者でありたい。
そう願っている。
誰かが呼んでいるらしい。
目が開けられなくて、顔だけそっちのほうを向く。
医者になってから、いつもこんな風だなぁと思う。
そしてふと、もうすぐ2人の月命日だと思い出す。
「……ぁい」
「先生に会いたいとおっしゃっている、患者さんの、たぶん……ご家族だと思うんですけど……」
「……分かった」
目を開くと眩しい世界。
声を掛けてくれたのは、いつか俺を好きだと言ってくれた看護婦だ。
もう立派な先輩ナースになっていた。
俺は彼女も傷つけたに違いない。
俺は今でも生きているだけで誰かを傷つけるのだろうか。
守るべきものがあったとしても。
何も出来ずに、ただ生きることしか出来ずにいたあの頃の自分のように。
彼女の瞳は翳っていた。
*
目の前に現れたのは、どう見ても小学生。
「あの、……君?俺を呼んだのは」
その瞬間震えが来た。
俺はもの凄い勢いでその小さな男の子に睨みつけられたからだ。
「……どうかしたかな?」
「兄ちゃんを返せ!」
目の前が真っ黒になった。
人生で何度目かの衝撃。
何も言い返せなかった。
「君、は……?」
「僕は豊嶋秋朔の弟だ……っ!」
尚も睨みつけられる。
ああ、ここにも俺が傷つけてしまった人がいた。
その険しい顔が、何も言わない俺を見つめたまま崩れていく。
「どうして……どうして兄ちゃんは死んじゃったんだ……」
そう言って、彼は泣き始めた。
俺はなだめてやることすら出来ず、彼を呆然と見つめていた。
「兄ちゃんはもうどこにもいない……っ!!!」
「君……」
「先生はお医者さんなんだろ?どうして兄ちゃんは治らなかったんだ。どうして帰ってこないんだよ。教えてよ」
その問いにどう答えたらいいのだろう。
俺自身すら出ない答えなのに。
電気の消された待合室は無機質で、薄暗い。
廊下の端から入ってくる光が長細く伸びる。
イスに座るように促したが、彼は座らなかった。
「僕、兄ちゃんを憶えてないんだ……」
立ち尽くしたまままた、彼は泣いた。
泣くという行為をまだ失っていない美しさ。
「兄ちゃんをどうして治してくれなかった」
「それ、は……」
無理だった、と言ってもこの子は納得しないだろう。
何より俺がそれで納得出来てもいないんだ。
もう少し早くあいつらに出逢っていたら、俺は治せていただろうか。
それとも、いつだったとしても今と同じことになっているのだろうか。
……俺はあまりに無力だった。
「家に帰ってきたとき、兄ちゃん、先生のことたくさん話してたって。信じてたのに……」
もうその声は叫びだった。
心の悲鳴だった。
俺は息も出来なかった。
「先生はヒトゴロシだ。僕、絶対に先生を許さない」
強い瞳に射られる。
人殺し。
……そうかもしれない。
*
あの子の名前は豊嶋恭平。
今年で7歳になるという。
7歳。
憶えてないのも無理はない。
2人が家に帰ったのはあの子が3~4歳くらいのときだった。
秋の弟は、迎えに来たじいちゃんばあちゃんに手を引かれて帰って行った。
彼らの話によると、秋が亡くなってすぐに父親も母親も後を追うように亡くなってしまい、弟は彼らが引き取ったのだという。
……そうだったのか。
俺は本当に、何をしているんだろう。
「何をしてるんだか……」
「聡介くん?」
ふと顔を上げると康介を抱いた若菜が不安げに俺の顔を見つめていた。
「疲れてるの?大丈夫?」
「いや……うん、ちょっと」
言いたくないと思った。
たぶん彼女は俺が言わなければ何も訊ねないだろう。
「……はい」
顔を上げると、ソファの端に沈んでいた俺の隣に座って、康介を俺の膝に預けた。
康介は母親そっくりの溶けそうな笑顔で俺を見つめている。
抱き締めると、優しい香りがする。
これだけで俺は幸せだと思った。
ああ、この子には幸せになってもらいたい。
そして、これから携わる命を、もっともっと大切にしていきたいと願った。
「聡介くん」
「ごめん……ダメなんだ、俺……自信がなくて」
康介の髪に顔を埋める。
息子はくすぐったそうに腕の中で暴れる。
「ダメじゃないよ。だって私、幸せだよ?」
「若菜……?」
顔を上げる。
きゃっきゃっと声を上げてはしゃぐ康介。
同じ顔の最愛の女性が俺を見つめている。
「聡介くんは、ダメなんかじゃないよ?聡介くんは、私にいっぱい幸せくれるもの。家庭も、康ちゃんも」
「でもずっとお前を傷つけてきただろう?それと同じように、俺が生きてく限り、どこかで誰かが傷つくかもしれない。そんなの……」
「確かに辛かったときもあるけど……でも今はそれ以上に幸せだもん。それより、聡介くんがいなくなっちゃうほうが悲しいよ。どうしたらいいの?私にも康ちゃんにも、ただ1人の聡介くんっていう家族がいなくなったら」
「若菜……」
「患者さんだってそうだよ。聡介くんがいてくれて良かったって、思うときもきっとあるよ。だって聡介くん一生懸命頑張ってるもん。大丈夫だよ……大丈夫」
ご機嫌で笑い続ける康介の頭を、若菜が優しく撫ぜる。
俺は胸がいっぱいでもう何もいらないと思った。
彼女が俺のすぐそばにいてくれた幸運を声を出して叫びたいほどだ。
ただ、頑張りたいと思った。
この人のために。この子のために。
そして、子供たちの未来のために。
俺は片手を伸ばして若菜を康介ごと抱き締めた。
康介はやっぱり笑っていた。
いつまでもこの笑顔が見られたらいいと願う。
*
数日後。
医局を出た俺を、彼は待ち構えていた。
俺は、彼に向き直った。
天気のいい日だった。
彼はランドセルを背負っていた。
この春、小学校へ入学したのだと言う。
その姿が眩しかった。
「僕、お医者さんになるんだ」
彼は確かにそう言った。
俺はその真っ直ぐに前を向くその瞳の先を、一緒に見たいと思った。
「僕がお医者さんになって、絶対にみんな、みんな治してみせる」
明るい所で見ると、あいつの面影があるその横顔。
あの命は、こうして俺の中で生きているのかもしれない。
「……なってくれ」
「え?」
「なってくれ、な。みんなを治せるような医者になってくれ……」
俺は彼の頭に手を置いて、くしゃくしゃと撫でながら泣いた。
俺にもまだ泣くことが出来た。
それが嬉しい。
それが幸せでたまらない。
「あ……」
困ったような声を出した彼。
俺は泣かせてもらった。
いつか本当に、彼が医者になってくれればいいと思った。
俺が出来ないことを出来る医者に。
「先生も、一生懸命患者さんのために頑張るから。だから……」
「うん!」
ぼろぼろといい大人が泣くのを見て躊躇っていた彼は、俺の台詞に大きく頷いた。
俺はハッとして顔を上げる。
「僕も頑張る!だから先生も頑張って!」
「え……?」
「僕が大きくなるまで先生が見てて」
「……っ」
「見ててくれなきゃ一生許さない!」
思わず抱き寄せた。
小さくて、それなのに確かにちゃんと生きているその命。
許されているように感じるのはなぜだろう。
彼から全てを奪った俺に、何が出来るだろう。
「約束する」
守ってみせる。
必ず、君が望む未来を形取れるように―――。




