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薄雲  作者: 山口ゆり
2000s
12/18

人魚姫

リカ 大人編(本編後)

私はまるで海の底に沈められた、泡のよう。



「桐原、それじゃダメ」

「はい、すいません」

「……だからさ、さっき言った通りにしてほしいんだけど」

「はい」

「ますます暗くなってるんだけど、やる気ある?」

「すいません」


最近あたしは謝ってばかりだ。

一時どん底にいた私を、社長と敏腕マネージャーが救ってくれて今日がある。

この仕事は精神力がモノをいう。

幸い私はそういうのは丈夫に出来てるらしく、皮肉にもあれからの方が仕事が増えた。


考えてみます。そう答えた。

社長はこれはいい話なんだと言った。

私もそう思う。上手くすればもっと活動の範囲が広がるかもしれない。

モデルの仕事ももう10年を越え、それなりに地位も得た。

顔も知れて、今では月刊誌で5冊、私のための特集を約束してくれている。

今しかない。社長はこうも言った。


女優、かぁ。


そうかもしれないな。

いくら名が知れても、もういい年だ。

勝負を賭けるには今が最後。今を逃したら、次はない。

そう思って決めた映画の話。女優としての第一歩。

私は結構気合いを入れて臨んでたつもりだった。

でも。


「カーット!休憩っ」

「すいません」


共演者もスタッフも、驚きと不安の目で私と監督を見ていた。


喜多川(きたがわ)監督。新進気鋭の映画監督。

噂通りの徹底ぶりだったけど、まさかこんなに私に集中砲火だなんて思いもしなかった。



ここ3日、1日中ずっと1シーンを撮影している。

私が初めて演ずるのは、人魚姫を助けて王子様とくっ付けるためにこちらの世界からあちらの世界に入り込んで、彼女が失った美しい声で毎夜王子への熱い想いを歌い上げるという話。

私この台本が来たとき、なんかピンときた。

姫のために歌っているはずがいつの間にか自分も王子に惹かれて、苦しみながらも最後は結局、姫に代わって海の泡と消える女。

それはなぜか、あの時の私に思えた。


引き際が肝心。

ううん、そんなことちっとも頭になかった。

本当は私、ずっとあのひとの隣にいたかった。

あの人の中に見え隠れする幼馴染のその女の人を憎んだりもした。


可笑しいわね。私、あの人のこと、そんなに好きだったわけじゃない。

でも、でも―――。

ずっと一緒にいたのは私なの。

こんなに好きになってしまったなんて。


結局、私はあの人の手を離してしまった。

もう二度と繋がれることはないと分かってたのに。


だからかもしれない。

私、この女の気持ちがよく分かった。

分かったからこそ、やろうって決めてその役のことだけ考えてきたのに。

他の仕事もキャンセルするくらいに。

でも喜多川監督は、女が王子に惹かれてしまうあたりでぱったりと撮ってくれなくなった。

しかも私がその原因。

私は訳が分からずに、悩んでいた。

それでも時間は刻々と過ぎていき、周りの人たちの苛立ちや焦りが手に取るように感じられるようになった。


結局その日もそれで打ち切り。

私は噂を聞いて心配になって見に来た社長にすごく激励されて、かえって落ち込んだ。

他に仕事もないし、私は自主稽古をすることにして撮影所に残った。



ああ、お月様。あの人は彼女の想い人なのです。

私は確かに彼女の分身ではありますが、私にまでこんな想いをさせないで。

出来るなら、今すぐ帰ってしまいたい。

誰もいない向こうの世界へ―――。


はぁ。何が悪くて私、怒られてるんだろう。

こんなことも分からないようじゃ、やっぱり女優なんて出来ないのかな。


「桐原」


え。

喜多川、監督……?


「監督、どうして……」

「あんたが困り果ててるだろうなーと思ったから」


監督がゆっくりと近づいて、隣に腰を下ろした。

そして大きく息をつく。

……やっぱり、私に呆れてるんだろう。



「あんた何で俺が止めてばかりいるか、分かる?」

「……いえ」


下を向く。本当に分からなかった。

苦しい。

仕事してて、こんな思いは初めてだった。


「それを俺は掴んでほしい。……あんたさ、今まさにマリアそのものだよ。だから、ダメなの」

「え?」


マリアというのは、王子に恋焦がれて泡になる女、その人。

だったら、なぜ?


「……マネージャーさんに聞いた。あんた昔の恋引きずってるんだってね」

「それは……っ」


関係ない。そう、言いたかった。

でも本当にそうは言い切れない自分がいる。


「それは仕方ない。でもあんたは現実に生きてる。マリアじゃない。それなのに苦しみにふたをして、無理やり立ってる。だから、マリアになり切る余裕がない」


え―――?


「あんたはマリアの仮面を被りきれてない。フィルムの中であんたは『桐原リカ』でしか映ってないんだ。分かる?俺の言いたいこと」


私はマリアになれていなかった?

桐原リカでしか映らない?


「その経験は多分、マリアに通じる。ただ、フィルムの中には、桐原自身はいらない。マリアが欲しい」


監督が私の顔を見つめる。

なんだか久しぶり。こうやって男の人の隣にいるなんて。


「……それに、あんた自身のことは監督としてじゃなく、喜多川っていう男としてもっと近くで見てみたいって思ってる」

「え……?」


監督がそっぽを向く。


「何て言うか、その……なんだ、カメラから覗く桐原リカじゃなく、現実のあんたに手を触れてみたい」


監督は、赤い顔をしていた。


監督のこんな言葉や態度に反応する以上に、私は嬉しかった。

心が軽くなる感じがした。

私はずっと、恋を失ったことに縛られていた。

それを監督は教えてくれた。


「あの……監督ってお名前、なんていうんですか?」

「え?あ、『そう』。壮年の壮」

「え……?」

「ん?何?」

「あ、いえ」


この人は違う人。

いつまでも彼の影を追い続けることはない。

私は、俯き加減だった顔を監督の真正面に向けた。


「あの……ありがとうございます。……それと、現場以外では壮さんって呼んでもいいですか?」


監督は心底驚いてるようだった。

すぐに嬉しそうに頷いてくれたけど。



今、暗い海を上がると、そこには、これから先も広い海原が待っているだろう。

でも、私は大丈夫。

あの人から教えてもらった気持ちも、あの子から学んだ愛し方も、彼から受け取ろうとしている想いも、みんなみんな、私の心の強さに変えてみせる。

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