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薄雲  作者: 山口ゆり
本編
1/18

1.聡介と過ぎる毎日

聡介には彼女がいた。桐原(きりはら)リカという名の、美貌の元同級生。

頭が良くて、輝かしいばかりに綺麗だった。

あの頃は、誰もが彼らを見て振り向いた。

しかしそんなことは彼らには関係なかった。

高校卒業後彼は医学を志した。彼女も目の眩むような世界に羽ばたき、今では有名な女性誌の表紙を飾っては深夜のコンビ二で彼を驚かせたりしている。


コンビ二から戻る道、18まで住んでいた懐かしくもないバカでかい家の横をわざと通り過ぎる。

やけに小さく見える隣の家の2階はやはり今日も暗く、それを確認するように見つめて、また職場へと戻っていく。

それはもう当直のときには癖のようになってしまっていて、そんな自分に腹の中で苦笑する。

もしそこでばったり出くわすようなことがあったとして何が言えるというのだ。彼女があの頃のように笑ってくれないことを知っているのに。

そしてそれは、自分自身が仕向けたことだというのに。



毎日が壮絶な戦いだ。相手には言葉も通じない。ただ泣いて、叫んで。

それを選んだのは自分自身であるにも関わらず、何ともおかしい。

コンビ二から帰るなり急変した患者の処置が終わり、おぼつかない足取りでソファーという名の寝床に倒れこむ。

自分は何のために、生きているのだろう。

何のために生まれて、死んでゆくのか。

どうして生まれてきたのか。

頭がぼんやりすると、いつもこれに突き当たる。

答えの出ない問い。苛立ちは募るばかり。

けれどその答えを誰かがくれるわけではなかった。


「おーい中田せんせー生きてるかぁ?」

「……」


瞼が目に張り付いて、目の前が真っ暗で時計が見えない。

今は何時だろう。何時間寝てないのだろう。

……いいや、このまま寝てしまおう。


「中田っ、無視して寝てんじゃねぇ」


声を聞くだけで誰だか分かる。

無防備にさらけ出されたかわいい後輩の頭蓋骨をためらいもなくブッ叩くこの人は彼の恩人。

……間違いなく。


高井(たかい)先輩……痛い」


頭をさする。

おもむろに立ち上がり、冷蔵庫からさっきコンビ二で買ってきた牛乳プリンを出して差し出す。

これはこの人のお気に入り。


「おーおーお前もやっとそういうトコに気が利くようになったかぁ。大人になったなぁ」


向かいに座ったその人は唇にスプーンを挟んでやたら笑顔で蓋を開けた。じっとその様子を見ていた聡介を、高いところからいい子いい子する。

こういうことは、成人した大人の男同士がすることか。

この人だけなんだよな、自分より背が高いのは。

聡介は、見えないように顔をしかめた。


「でもそんなお前は見たくねーな」


スッと視線を合わせてから、すでに半分くらいになった牛乳プリンをまたひとすくい頬張る。

ったく、あんたにはかなわねーよ。心の中で毒づいた。


高井康太郎(こうたろう)とは、高校時代に知り合った。思えばもう長い付き合いになる。

聡介(そうすけ)はあの頃がとにかく一番荒れていて、今こうして医者という道を歩めるのも高井に出会えたからに他ならない。

荒れていたと言っても、よく言う非行というわけではない。

非行に走って殴ってくれる親がいるほうが、どれだけ幸せだっただろう。

あの頃の聡介は、いつもそう思っていた。

自分にはその価値もないのだと知っていたから。


聡介は高井が苦手だった。

それまで心を許した人など数えるほどしかいなかった彼は、誰かに気安く話しかけてもらったことなどなかった。

けれど高井は聡介に向かって笑いかけた。

だからかもしれない。大学も、高井の背中を追いかけた。

高井もそんな不器用な聡介のことを見守るようにずっと前を歩いてくれた。笑いながら、時には厳しく。

そして……彼の大切なものを守ってくれると約束までしてくれた。


卒業後一足早く本物の医者になった高井は、小児科というある意味最も過酷な分野を選び、聡介も道連れにした。

犠牲になった聡介は1年目にして、昼夜問わず赤ん坊たちのきつい洗礼を受ける日々。

やっとの思いで付いていっていると思っていたのに、高井は独立開業するために来月にはここを辞めるという。そんないい加減な。

そのため近頃高井は「こいつは俺の後を継ぐ期待のホープ」とか勝手なことを同僚に吹き込んだ挙句、聡介に色んなことを押し付けているのだった。

自分がやっていた仕事は、一つももれなく。


「なぁ中田。お前に最後の頼みがあんだけど」

「……何?」

「その顔で睨むなって。かっこ良過ぎて怖いから。……いやぁ、203と205のクランケなんだけど」


刹那。

目が合う。この人の瞳は逸らせない。

言わんとしていることが分かってしまうから、高井康太郎という人との間にあるこの感覚が嫌だ。


「秋と涼子、ですか」

「ああ」


今までまっすぐ前を見据えていた瞳が光を失う。

高井はゆっくりと瞼を閉じた。

聡介は気付かれないように鼻で息を吸って、言葉をこぼした。


「だいじょぶですよ。俺に任せて、先輩はとっとと行っちゃっても」

「……お前なぁ」


心を見透かすように苦笑いする。


高井康太郎という人は、こんな自分をどう思っているのだろう。

その目には、中田聡介はどんな人間として映っているのだろうか。

心の中で深々と頭を下げた。もうこの人の後ろを歩くことは出来ない。

それだけでまた孤独な世界に放り込まれるような恐怖が襲う。

それが高井の優しさだと知っているのに尚怖い。

怖いと分かっているのにそれは言えない。

聡介は、甘えることを知らない子供だった。

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