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ずっとずっと、好き。  作者: るうあ
ずっとずっと、好き。本編以前の小話
9/38

てのひら

 ―――守っていこう。

 与えられた、この温もりを。

 義務感からではない。

 差し伸べられた小さな手を取って、セオドアスは己に誓った。

 その誓いだけは、変わらない。 昔も、今も。


 しかし、時がもたらす「変化」という風は、心を不安定に揺らめかす。

 季節が移りゆくように、忠誠を誓った幼い姫も、変わってゆく。

 美しく、目映いほどに。

 そして姫は、琥珀色の双眸に切なげな色を乗せ、ひたむきに見つめる。

 その瞳に、自分が映っている。

 護衛役の騎士としてではない、自分……

 気づいていたからこそ、距離をとらねばならなかった。

 セオドアスは一歩退き、黙して、リアネイラを見守っている。

 今も、そしてこれから先も――。






 王女とは退屈の代名詞だ。

 と、王女であるリアネイラは常々こぼしていた。

 とはいえ、日がな一日、何もせずに過ごしているわけではない。

 語学、歴史、地理、文学などの授業があり、加えて「王女」としての教養、礼儀作法、詩歌なども強制履修させられた。

「勉強自体は、そんなにイヤじゃないんだけど」

 リアネイラはじっと座っているのが性に合わないようだ。だが本人が述懐するように、学ぶことを必要に感じ、ゆえにありがたいとも思っている。

 体を動かせるのは、乗馬の練習の時だけだ。これは護衛役のセオドアスに頼み込んで、「授業」に組み込んでもらった。もちろん指導者はセオドアスだ。やんわりと辞退しようとしたセオドアスに懇願し、強引に承諾を得た。

「ごめんね、無理言って」と、謝罪を繰り返していたリアネイラだったが、「乗馬くらいできなくちゃと思って。これも王女のたしなみの一つだと思うし」と言い、いたずらっぽく舌を出して笑った。

 セオドアスにしても、戸惑いはしたが、さほど迷惑というわけではない。リアネイラの、そうしたささやかなわがままは、嫌いではない。むしろ、もっとわがままになってもよいのに、とすら、思う。

 ちなみに、教養授業以外の勉強は、侍従のキィノも一緒だ。

「一人より二人の方が、先生だって教え甲斐があるでしょう? わたしだってそのほうがずっと捗ると思うもの」

 キィノが学びたいと思っている心情を察しての、提案だった。だがそれを理由にはせず、リアネイラらしい論法で、キィノの母親で女官長のハンナと、各授業の先生らを説き伏せたのは、さすがだった。

 履修科目は多いが、それで一日の大半を潰せるわけではない。

 暇を持て余したリアネイラは、屋敷の掃除を手伝おうと張り切った。しかし侍女達に「ハンナさんに叱られますから」と止められた。諦めずに、今度は馬屋の掃除と馬の世話に手を出した。だがこれも「おやめください、姫様! このようなことが知れたらワシらがっ」と泣きつかれた。彼らが罰を受けないよう、リアネイラは手を引かざるをえなかった。

 料理は得意ではないのだが、イモの皮向きくらいの雑用ならできますと、次は厨房に顔をだしたが、料理長に「ありがたいお申し出でございますが、あいにく人手は足りておりますゆえ」と、やんわり、はっきり、断られてしまった。

 こんなところをハンナに見つかっては、「皆さんの邪魔はなさらないように」と窘められていた。

 この時、リアネイラは十六歳。

 市井の娘であれば、とうに働きに出ている年頃だ。

 学校に通っている娘もいるだろうが、それでも大抵は何がしかの「仕事」を、家の外であれ内であれ、持っている。

 リアネイラにしても、屋敷に招かれる前までは、母親の手伝いを色々とこなしていた。幼くて、さほどできることはなかったが、おつかいにいったり、野菜を洗ったり、荷馬車の掃除をしたりと。


「……退屈」

 庭園のあずまやの内にある石造りの腰かけに足を投げ出して座り、リアネイラは首を伸ばして大きくため息をこぼした。

 その時、ふと、目についた。黙々と仕事をこなしている、庭師に。

 庭園の手入れをしている庭師は、たった一人きりだった。

 広い庭ではないので、一人で十分だというが、老年の庭師の姿は、「手伝い」を必要としているように見えたのだ。

「諦めが肝心」などという言葉は、リアネイラの頭の中には存在しないか、あるいは故意に塗りつぶされてしまっているようだ。

 どうにかこうにかハンナをごまかし、庭師の手伝いをすることを、許諾させた。

 たいした手伝いではない。落ち葉や切り取った枝葉を一箇所にまとめたり、切った花を生けて屋敷に飾ったりするくらいだ。

 ハンナを認可させたのは、後半部分だ。

「生け花」は「王女のたしなみ」に適うものだと思ったのかもしれない。



 虎視眈々と仕事を探すリアネイラの姿を、後方で眺め、セオドアスは微笑していた。

「笑い事じゃないよ、セオ」

 少しむくれて、リアネイラは言う。

「王女なんて、人形と同じ」

「……人形、ですか?」

「旅の芸人の中に人形を操る人がいたけど、あれと同じ。自分のしたいことは、何もさせてもらえない」

 苦々しく笑って、リアネイラは俯いた。

「……姫は、人形ではありませんよ」

「セオ……」

「少なくとも、私にとっては」

「…………」

 数秒、リアネイラはまじろぎもせずセオドアスを見つめていた。

 自分よりややくすみがかかっている金の髪、そして自分より濃く深いとび色の瞳。精悍な顔立ちなのに、その双眸の光の柔らかさが鋭さを隠している。

 背もうんと高くなって、首を伸ばして見上げなければならなくなった顔に、やや困惑の色が乗っている。目を逸らさずにいてくれるのは嬉しいが、逆に不満を感じることもある。

「……決めた」

「は?」

「ありがと、セオ。わたし、決めたから!」

「は、何を、ですか?」

 何が「ありがとう」で、そして「決めた」のか。セオドアスは首を傾げずにはいられない。

 リアネイラが突飛なのはいつものことだが、未だ慣れない。

 幼馴染みの侍従、キィノだけはすっかり慣らされているようだが。

「前から頼もうと思ってたの。セオ。剣を、剣術を教えて!」



 丁重に、何度も断ったのだが、まったく諦めようとしない。理由も訊いても、ごまかすだけだ。

 リアネイラはどこから用意してきたのか、長剣を手にしている。鞘から抜こうとしないのはありがたかったが、断り続けていれば、そのうち抜いてしまったかもしれない。

 結局、セオドアスが折れた。ハンナの反対も、リアネイラは押しきったのだ。

 相手がセオドアスだからということもあるのだろう。セオドアスの技量ならば、リアネイラに傷を負わせることはなかろうと踏んだのだ。

 乗馬の先生の次は、剣術の先生だ。

 護衛役としての仕事はないに等しかったから、「仕事」ができたことを嬉しく思うべきなのだろうか。

「…………」

 リアネイラに感化されてしまっているようだ、この思考の流れは。

「姫、いきなり真剣を使うのは危険です。これをお使いください」

 それは樫材の長剣だった。やや重く、硬い。かつてセオドアスも練習用に使っていたものだ。

「ありがとう、セオ」

 リアネイラは両手で柄を握り、「えいっ」と振り落としてみる。

 意外に木材の剣は重く、それだけで手が痛んだ。

 剣を振るった経験などむろんなく、基礎の基礎から習わなければならなかった。

「実は包丁すら満足にふるえないんだけど」

 包丁を使うのは苦手らしいリアネイラだが、剣術は目ざましく上達し、セオドアスを驚かせた。

「セオの教え方がいいからだよ」

 しかしそれ以上に、リアネイラに資質があったということだ。

 音感が優れているゆえの、反射神経の鋭さ。身のこなしは軽く、耐久力もある。

 教え甲斐はあるが、剣術の上達がリアネイラにとって「良いこと」なのかはわからない。

 セオドアスの悩みは尽きないが、リアネイラの楽しそうな顔を見るのは嬉しく、「良いこと」なのだと思っている。

「セオ、何? 今、わたしのこと見てなかった?」

「いえ、……すみません」

「何が、すみません、なの? セオ、時々ヘンだね。大丈夫? 何かあった? 具合悪いとか? それとも」

「いえ、大丈夫ですから、姫」

 リアネイラは歩み寄って、セオドアスの腕を掴み、心配そうに顔を覗き込んでくる。

 セオドアスは退いて、リアネイラから離れようとした。

「…………」

 セオドアスは気まずそうに顔を背けた。それがリアネイラの胸を痛くさせると、気づかないではなかったのだが。

「ごめん、セオ。言いたくない事って、あるよね」

 リアネイラの手が、離れた。

「姫」

「ほんとごめん。忘れてね、セオ」

「…………」

 セオドアスは、自身の変化にとまどっている。それゆえに度々リアネイラを傷つけてしまい、ましてやその傷を癒す術など、見出しようがなかった。

 騎士として、精神鍛錬も課しているはずなのに、ひどく不安定だ。

 苦い、それでいて甘みのあるため息をつく。

 心の天秤を揺り動かすリアネイラの存在の大きさを、今さらながらに自覚して。





 一つの大きな「変化」へと促す出来事は、晩夏のある日、宮廷からもたらされた。

 国王陛下から、宮廷へ上がるよう、リアネイラに通達があったのだ。

 明日、リアネイラは十七歳を迎える。

「水入らずで、食事をしようって」

 そっけなくリアネイラは言うが、表情には嬉しさと緊張が入り混じっている。

 王宮の敷地内に屋敷を与えられ、そこで暮らしているリアネイラだが、父である国王にはめったに会えない。会おうと思えば、おそらくは会えるのだろうが、リアネイラの方からは決して行動を起こさなかった。招かれない限り、父に会おうとはしなかった。

「持っていかれるのですか、それを?」

 セオドアスはリアネイラが抱えている物を見やり、尋ねた。

 それとは、ウードという名の有棹撥弦楽器である。

「う、うん。父様が以前、聴いてみたいって言っていたから……」

 照れくさそうに、リアネイラは答えた。

 会いたくないわけがない。

 だが、リアネイラはそれを決して口にしない。

「喜ばれますよ、きっと」

「そうかな? 母様ほど上手くないんだけど」

 自分の誕生日を憶えてくれていた父に、何か礼をしたかった。ありがとうという言葉だけでは、とても足りない気がして。

 リアネイラらしい、と思う。

 父に対してすら、遠慮がちなのだ。

 いたしかたのないことではある。正妃の娘ではなく、ましてや亡くなった母の身分はあまりに低かった。にもかかわらず、王宮内に屋敷を与えられるという特別扱いを受けている。そのことに感謝はしなければならなかった。それがたとえリアネイラにとって窮屈なことであっても。

 リアネイラは、自分の立場を十分に心得ていた。だからこそ、寂しさにも閉塞感にも我慢をしてきたのだ。

「じゃ、セオ。行こう」

「はい、姫」

 リアネイラは、亡き母に対して誠実だった国王を、親しく思っている。たった一人の肉親という事実が、親愛の情を切実に抱かせているだけだったにしても、その気持ちに偽りはない。

 父に会える。それはやはり、嬉しいことだった。




 宮廷の一画にある庭園に、質素な昼食が用意された。堅苦しい席が苦手な娘への、それは父の思い遣りだった。

 あくまで個人的な会食で、他に招かれた者はいない。

 もちろん、だからといって、リアネイラは普段屋敷にいるような軽装で宮廷に上がるわけにはいかず、ハンナの見繕ったドレスを身にまとい、髪も整えられ、淑女然とした格好をしている。

「久しいな、リアネイラ。息災だったか?」

 先に席に着いていた国王は、会食の場に到着した、美しい娘を眩しげに見やった。

 木陰の下、用意された円卓には色とりどりの料理がすでに並べられている。

「はい。元気です」

 短く答えてから、リアネイラはちらりと後方に控えているセオドアスを見やった。

 国王は微笑み、セオドアスを呼んだ。一礼し、セオドアスは膝を折る。

「立ちなさい、セオドアス。リアネイラの頼みだ。ともに食事を摂るように」

「……それ……は」

 リアネイラは、何も言っていないのだが、父は娘の言わんとすることをすぐに察したのだ。

「そうしてもらわねば、この娘はいつまでたっても席につかぬだろうな」

「父様、あの」

「リアネイラの近況を聞くのに、ちょうど良い」

「しかし、陛下」

「料理も、二人分にしては多い。何、遠慮はいらぬ。咎める者はここにはおらぬからな」

 人好きのする笑顔で、国王は言う。身分柄に拘らない気安い性格の父を、リアネイラは好いている。

 さすがにすぐには了承しなかったセオドアスだったが、拒み続けることも礼を失することになるだろうと、結局、リアネイラをまずは席につかせてから、自分も新たに用意された椅子に、腰をおろした。

 セオドアスは料理の味を堪能できはしなかったが、この場にいることが苦痛に感じることはなかったし、退屈させられることもなかった。

 国王陛下から、愛娘の近況を問われ、そのリアネイラもまた気を遣って、色々と話しかけてくる。

 リアネイラから、剣術をセオドアスから習っていると聞くと、さすがに国王は驚いたようだが、止めるよう叱りつけることはしなかった。むしろ、「セオドアスの手ほどきを受けているのならば、相当な使い手になろうな? これは先が楽しみだ。一度、披露してもらいたいものだが」などと、かえって推奨するようなことを言う。

「披露してもらいたいといえば」

 一通り食事が済んだ頃、国王は娘が持参してきた荷に、目をやった。

 ウードという楽器であることに、気がついていた。

「リアネイラ、そなたのもう一つの自慢の腕を、是非今、披露してもらいたいが?」

「はっ、はいっ?」

 リアネイラは緊張にかたまり、一瞬身を竦ませた。そして、父ではなく、とまどいがちな視線をセオドアスに流した。

 セオドアスは、微笑った。……笑みを作ったつもりだったが、果たして上手く表情筋を動かせたか、自信はなかった。

 リアネイラは麻布に包まれていた楽器を取り出し、膝の上に乗せた。

「……それじゃぁ、母様がお好きだった歌を」

 華奢な、リアネイラのその手が、ウードを掻き鳴らす。

 涼やかな弦の音色、朗々とした歌声。

 聴く者の心を和ませ、懐かしい日々の想いに浸らせる。

 緑陰を渡る風にも似た、美しい詩歌の女神が、今、ここにいる―――



 静かに、リアネイラの演奏に耳を傾けていた国王だったが、ふと、娘に魅入っている騎士に目をやった。

「セオドアス」

 小声で呼ばれ、セオドアスははっとして我に返った。

「セオドアスよ、聞かせてほしい」

「は」

「娘は……リアネイラは、幸福であろうか?」

「は、……それは」

 勿論と答えようとし、失敗した。

 国王は、ため息をつき、小さく笑った。

「不幸せではなかろうが、辛い思いはさせてしまっているようだな」

 聡明な王には、娘が窮屈な思いをしているだろうことは、容易に想像がついていた。だが、そんな娘を不憫に思うほど、驕った心根ではない。

「セオドアスよ。これは命令ではないが」

「は」

 国王の目は、また無心に歌い続けている娘へ戻った。

「娘を頼む。傍にいて、守ってやってほしい。……余に代わって、な」

「……十年前に誓ったとおり、私の力の及ぶ限りで、その誓いは果たします」

 セオドアスは真摯に応えた。だがそれは、騎士としての模範的な返答でしかない。

「……まぁ、よい。いずれは……」

 国王は独語した。

 いずれは気づくであろうが、なんともじれったい。ちょっかいを出したくなるというものだ……

「陛下?」

「いや、余はちとせっかちな性分ゆえな、このまま様子見というのも詰まらぬと思うて」

「?」

 セオドアスは訝しげに眉をしかめた。

 リアネイラの演奏が終わり、国王は拍手をもって、娘の歌声を褒め称えた。

「セオドアスよ。我ながらこの選択は上出来であったと自画自賛したい思いだ。そなたを選んだのはほんの偶然だったのだがな」

 そう言って、国王は満足げな顔を、セオドアスに向けた。

「覚悟をしておくのだな、セオドアスよ」

「…………」

 セオドアスは戸惑い顔をする。主君の言が何を意味しているのか、まったく分からないではなかったから、なおさら返答に窮した。

 そして国王は、誠実で生真面目な若い騎士を、笑った。

 悪戯を思いついた少年のように。




「セオ、どうしたの? さっきから、気難しそうな顔してるね?」

 屋敷へ戻るその帰路、リアネイラが心配そうに尋ねてきた。

「父様に、何か言われたの? ……もしかして、剣習っていること、やっぱり怒られた?」

「いえ、そのようなことは……」

「なら、いいけど……。ごめん。余計なお世話……だった?」

「いえ」

 リアネイラは、自分では気がついていないのだろう。

 その「口癖」に。

「姫。どうか謝らないでください。姫が謝らなければならないようなことは、ありません」

 セオドアスは足を止め、振り返った。

「セオ」

「ご心配をおかけして、私の方こそ、謝らなければ」

「……そんなの……」

 リアネイラは何か言いかけ、しかしきゅっと唇の両端をきつく結んで、黙り込んでしまった。

 ごめん。それが、リアネイラの口癖になってしまっていた。

 そうさせてしまったのは、あるいは自分なのかもしれない。

 セオドアスはつたなく、言葉を繋げた。

「姫。姫には……感謝しています」

「え?」

 少し驚いたように、リアネイラは顔を上げた。

 そこに見たのは、セオドアスの、戸惑いがちな微笑だった。

 いつもと違う、それは護衛役の騎士の顔ではない。

「今日のことも、そして、今までのことも。礼を述べたいと、いつも思っていました」

「? 何のこと?」

 リアネイラは小首を傾げた。

 曖昧な言葉と同様の笑みを、セオドアスは浮かべている。

 セオドアスは、再び歩き出した。

「ね、セオ? どういうこと? わたし何もセオにしてあげてな……っとと」

 やや先を歩くセオドアスに追いつこうと小走りになったリアネイラは、履きなれない踵の高い靴のせいでつんのめり、がくんと膝を折った。

「っと、わっ」

「姫」

 とっさに、セオドアスは手を差し伸べた。

 ふわりと、華奢な少女がセオドアスの腕の中に滑り込む。

「ごっ、ごめん、セオ」

「……いえ」

 リアネイラの身体を支えたことは、今までに幾度もあった。馬術の稽古でも、剣術の稽古でも。

 それなのに……――

「大丈夫ですか、姫」

 いつもなら、そう言って、すぐにリアネイラをその腕から離した。

 だが今、この腕の中にいる姫を、離したくなかった。少女と呼ぶにはもうそぐわない、その甘やかな香り。しなやかで柔らかな体躯…………

 このまま抱きしめて、そして……――

「あ、ありがと、セオ。大丈夫だから」

 セオドアスが離すより先に、リアネイラの方から、身体を離した。もちろんそれをとめはしなかったが、セオドアスはほとんど無意識に、リアネイラの手を取っていた。

「セオ?」

 セオドアスは、おそらくこの日初めて、リアネイラの瞳を真っ直ぐに見つめた。

「あ……あの、セオ?」

 セオドアスは、微笑を浮かべた。

「ご迷惑でなければ、どうぞ、この腕につかまってお歩きください、姫。慣れないドレスで転ばれないように」

「……っ」

 途端、リアネイラは頬を紅くした。からかわれたと思ったのかもしれないし、気恥ずかしくなったのかもしれない。

「姫?」

「……もうっ、セオって……」

「なんですか?」

「いいよっ、もう。……腕、借りるね」

「はい、姫」

 遠慮がちに、リアネイラはセオドアスの腕を掴んだ。

 セオドアスは、ふっと軽く息をついた。リアネイラには気づかれないように。

 目を背け続けてきた想い……その感情の「名」を、セオドアスはとうに知っていた。同時に、叶わぬことなのだということも。だが、叶わぬことではないのかもしれない。

「陛下にも、お礼を申し上げねばならないな」

 セオドアスが呟いた言葉に、リアネイラはまたも首を傾げた。

「父様に? 今日のこと?」

 セオドアスは首肯したが、それだけではない。

 リアネイラと出逢わせてくれた、そのことに、だ。

「そうだね。わたしも父様には、改めて、ちゃんとお礼を言いたいな。ところで、セオ? わたしにお礼って、何をなの?」

 忘れていたのかと思いきや、ちゃっかり話を蒸し返してきたリアネイラにセオドアスは苦笑で応えた。

「……それは、またいずれお話します」

「わかった。いつか、きっと話してね?」

 リアネイラの、セオドアスの腕を掴む手にわずかな力が入る。

 約束よ、と念を押すように。

 笑み、頷いたセオドアスに、リアネイラも笑みを返した。

 セオドアスの心にまだ戸惑いはある。あと少し……時が要る。そして、何がしかのきっかけも必要だろう。

 後日、その「きっかけ」は思わぬ形で、騎士と姫とにもたらされることになった。

 初秋、それは国王陛下によって。



 ……やがて変化は訪れる。

 青くかたかった果実が、紅く熟れるがごとくに。


 セオドアスの手のひらに乗っているそれは、琥珀の嵌め込まれた銀の指輪。

 幼かったリアネイラがくれたそれは、温かな真心だった。

「いつかはきっと、返してね。その時は……――」

 手渡された約束は、長い年月を経て、ようやく果たされようとしていた。


 美しく満ちた、月の宵に。


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