秋霖
もう三日も降り続けている。
太陽の陽を見ず、雨雲ばかりを仰ぐ日々だった。
リアネイラは動かしていた手を止め、窓の外に視線を流した。
雨脚は衰えることなく木々の梢をしとどに濡らし、雫を滴らせていた。落葉樹の大半はこの雨で枝先に残していた葉を地に落としてしまうだろう。
霖々《りんりん》と降る雨は、秋色をよりいっそう深めていく。
鈍色の空模様を写し取ったように、リアネイラの表情もまた曇りがちなものになっていた。
リアネイラは手元の荷に目を戻した。
蘇芳色の更紗の荷袋は、亡き母から譲り受けたものだ。そこに着替えやら小間物やらを詰め込んでいる途中だったのだが、今度もまた荷造りは完了しないままだろう。
旅に出よう。この屋敷を出て、どこか見知らぬ土地へ。
リアネイラは常々それを思っていた。そしてその気分が盛り上がると、実行に移すべく荷造りを始める。が、荷造りが完了したためしは一度としてなかった。
母の遺品である有棹撥弦楽器ウードを手元に引き寄せ、何ということもなく、弦を一本抓み、弾いた。低い音が、広い部屋に響いた。空気が低く振動し、そのせいではなかろうが、室温が下がったように感じられた。リアネイラはもう片方の手で粟立った腕をさすった。
先日、リアネイラは十五歳になった。
もはや子供のままではいられない年齢だ。
リアネイラは、「もしも」と空想する。
もしも王女などという身分を知らず、旅楽団の仲間のもとに残り、時を過ごしていたなら、今頃自分は何をしていただろう。
亡き母は、十五歳の時にはすでに抜きん出た歌唱力を楽団の仲間に認められていた。様々な場所で様々な歌を朗々と歌い、日銭を稼いでいた。むろん楽団の仲間とともにではあったが、歌とウードという芸を持ち、しっかりと自立していた。
比べて、今の自分はどうだろうと思う。
王女である縛りが、リアネイラの羽根を思うようにひろげさせないでいる。
だがそれ以前に、リアネイラは自立しようにもできない自分を歯がゆく思っていた。
いったい自分は、何ができるのだろう。……何をしたいと望んでいるんだろう。
自分が分からない。
そのもどかしさがリアネイラの心を屈託させた。
旅に出たいという衝動は、そうした逡巡から生じたものだ。
旅に出ることで自分の「何か」を探したいと思っていた。だが単純に、「旅に出る」ということへの憧れもあったろう。
王宮の隅、与えられた屋敷に閉じ込められている。幽閉されているのではない。屋敷と身分を与えられたのと同時に、安全と保護を約束されたのだ。
父である国王陛下の好意であり、亡き母の気遣いでもあった。
それを分かっていたから、リアネイラは表立って苦情は言わない。せいぜい侍従のキィノに愚痴をこぼすくらいだ。
「王女なんてつまらない」
ふくれっ面のリアネイラに、キィノは笑って返す。
「そりゃそうだよ。王族なんてものは気苦労こそあってしかるべきで、自侭に楽しめる身分じゃないんだから」
不敬ともとれる発言を、キィノは――リアネイラの前でだけだが、さらりと言ってのける。
だが所詮キィノはリアネイラに甘い。
「だけどリィラはもう十分気苦労を背負ってるんだから、もっと気楽に構えてればいいんじゃない? 現状を利用するくらいにさ」
「うん、そうだね」
リアネイラは頷いてみせたが、「そういうわけにもいかないよ」とでも言いたげな微妙な笑みを浮かべた。
「そういうわけにもいかない」ことが、リアネイラには多すぎた。
あれをしたい、それをしたいと言ってみたところで制限がかかることも知っている。それでも果敢にしてみようとするのだが、大抵は女官のハンナに止められ、叱られることもままあった。
王女らしからぬ振る舞いはおやめくださいと窘められ、その度にリアネイラはげんなりした顔をする。
王女なんてたいそうなものじゃないのに、と。
だがそれはあくまでリアネイラの心情的なことだ。
リアネイラは国王の実子であり、たとえ庶子ではあっても「王女」であることは事実だ。
――いったい自分は何者なのだろう。
自分、というものを真剣に考えるようになったのにはいくつかのきっかけがあった。
そのひとつに、自分を護衛してくれている騎士の存在があった。父である国王の勅命を受け、屋敷に駐在し、常に自分の身辺を気遣い、見守ってくれている青年、――セオドアス。
セオドアスの姿を、リアネイラは思い浮かべた。
精悍な顔立ちのセオドアスだが、サラサラと流れる金髪と、鋭敏さと静穏さを同居させているとび色の双眸が、いかつい印象を持たせない。
セオドアスはいつでもさり気なく、リアネイラの傍に居る。
セオドアスの影響は大きい。
リアネイラはセオドアスを慕っている。だがその思いに、戸惑いもある。焦れるほどの思いだ。その思いの名を、リアネイラはまだはっきりと自覚していない。自覚するのを怖れている風でもあった。
セオドアスは“楔”だ。
旅支度を途中で放棄してしまうのは、セオドアスという楔がその都度打たれるからだ。
(この屋敷を出たら、セオに会えなくなっちゃうんだ……)
その寂しさがリアネイラを迷わせた。
セオドアスのせいではないと分かっているのに、屋敷から出て行く決心を固められないのは、セオドアスのせいだと責めてしまう心の弱さが、リアネイラにはある。弱さゆえもあったが、それとは別にセオドアスに対する気遣いもあった。
もし自分が出奔してしまったら、セオドアスはどうなるだろう。それは想像に易い。リアネイラの護衛役という立場上、咎めを受けるだろうのは必定だ。
セオドアスに迷惑がかかるのはいやだ。
セオドアスに会えなくなる寂しさがリアネイラの決心を鈍らせていたが、それ以上にセオドアスに迷惑をかけるのを厭う気持ちが、リアネイラを屋敷に留まらせていた。
いったい自分はどうしたらいいのだろう。
自分は何者なのか、どうしてここに留まっているのか、何をしたいのか……――
リアネイラは自己に対する答えを欲していた。できうれば、自らの力でそれを見つけたいと思っていた。
真摯な思いは時として気持ちを沈ませてしまう。
リアネイラは硝子窓を打つ鈍色の雨を見、ため息をついた。
リアネイラは元来鬱屈しない性質だ。悩み、落ち込むことは多いが、だからといって卑屈になることはなく、明朗さを失わなかった。また、他者に頼ることを頑なに拒むような堅固すぎる性格でもない。
リアネイラはセオドアスに何気なく尋ねてみた。
「セオは、十五の時にはもう騎士になろうって思ってた?」
昼食後のことだ。
雨は相変わらず降り続いていた。
「騎士になりたいっていうのは、セオの意志だったの?」
唐突な質問だったが、セオドアスは窮するでもなく、表情をやわらげ短く応えた。
「そうですね」
「セオは、すごいね」
リアネイラはその答えを予想していたようだが、それでも感心したようにほぅっとため息をついた。あるいは羨望のため息であるかもしれなかった。
セオドアスの家については、セオドアス自身からある程度聞かされている。
セオドアスは古い名家の出身だ。王家の信任も厚く、代々騎士団長を歴任してきた家柄でもある。
セオドアスは兄弟が多い。家督は、やはり騎士である長兄が継ぐことが決まっている。次兄は天文学の学者として宮廷に仕えている。弟はまだ学生だが、医学を専攻しており、いずれは宮廷医として宮廷に上がるだろう。姉はとうに嫁ぎ、二児の母になっているという。
兄二人と弟一人、そして姉が一人。
「セオ、五人兄弟なの!?」
リアネイラは意外に思い、つい聞き返してしまったほどだ。
セオドアスの寡黙な性格からは、とても思いつかない兄弟の多さだ。そしてちょっと羨ましくもあった。
リアネイラに、異母の兄弟はいる。だが会うこともないだろう血縁者もいるし、会えば会ったで礼をとらねばならない相手もいる。実質的に、同母の兄弟はいないのだから一人っ子と言えるだろう。
リアネイラは重ねて尋ねた。
セオドアスが騎士になった経緯は聞いたことがある。だが、どうして騎士になったのかは聞いたことがなかった。
「義務感とか、そういうのはなかった? 騎士団長を歴任してる家だから、騎士にならなくちゃっていう……」
リアネイラは率直だ。その率直さを、セオドアスは好ましく思っている。微苦笑を浮かべたのは、その率直さを笑ったわけではない。たしかにそういった義務感が自身にあったことを思いだしたからだった。
「義務感はありましたが、それだけで騎士になろうと決意したわけではありません」
「うん」
リアネイラは真摯に頷いた。琥珀色の瞳が、まじろぎもせずにセオドアスを見つめている。
「ですがやはりそうした義務感がきっかけになっていたとは思います。性に合っているということもありましたが」
「そっか……そうなんだ……」
義務感という言葉に、リアネイラは漠然とだが、悪い印象を持っていた。義務感とは、束縛なのではないかと。
「セオは、自分で騎士になることを決めたんだね」
「そうですね、結果的には」
「じゃぁ、後悔とかも、ないよね?」
「…………」
セオドアスはとび色の瞳を僅かに細めた。
リアネイラの姿が、ひどく小さく見えた。赤みを帯びた金の髪が華奢な肩に流れ、頬と首に影を落としていた。いつもなら好奇心にあふれ活き活きと光っている琥珀色の瞳が明度を下げている。
リアネイラは思い悩んでいる心を、押し隠している。だが隠しきれないのが、リアネイラだ。リアネイラはそういう自分に気づいていて、さらに気分を下降させてしまうのだ。
「わたしって、中途半端だよね……」
しょんぼりと肩を落とし、リアネイラはもどかしげに呟いた。
「自分で自分のことが分からなくなって、何も決められないで……迷ってばかり。何をしたらいいのかも分からない……」
「姫……」
「セオみたいに、自分で自分の道を選べるようになりたいのに」
弱気な姿を、こうしてセオドアスに晒してしまうことも、嫌なはずだった。セオドアスに心配をかけたくないのに、つい頼ってしまう。セオドアスの優しさに甘えてしまう。
リアネイラは口の端をきゅっと締めた。これ以上弱音を吐かぬためだ。しかし手遅れというものだろう。リアネイラは泣きそうになっている顔を俯かせ、隠した。
「姫」
頭上から降ってくるセオドアスの低い声は、穏やかなものだった。
「焦ることはありません、姫」
「……セオ」
ためらいつつも、リアネイラは顔を上げた。揺れる心気を静め、セオドアスを見つめた。
セオドアスのとび色のまなざしが、リアネイラのまなざしと重なり合う。
「迷うことも時には必要です。その迷いの先に、姫ならばいつかきっと、望む事を見つけられるはずです」
「そう……かな? わたしにも見つけられるのかな?」
「いつか、必ず」
「…………」
セオドアスの口調は朴訥なものだ。だがその飾り気のなさが、セオドアスの誠心を間近に感じさせてくれる。
リアネイラは、自分を単純だと思う。
セオドアスの言葉ひとつで、こんなにも気持ちが軽くなる。心にかかっていた雲が、晴れてゆく。
(わたし、……セオが……――)
堪えきれない感情が涙腺から僅かに滲み出て、リアネイラの瞳を潤ませていた。しかし瞳に張った水は、眦から落ちることはなかった。
リアネイラは愁眉をひらき、セオドアスに笑いかけた。
「ありがと、セオ。セオにそう言ってもらえると心強いな」
言ってから、さらに続けた。
「母様が言ったこと、思いだした。望むように生きなさいって。悔いることないようあなたらしく生きなさいって、そう言ってた。今はまだ望むことがなんなのかはっきりしないけど、母様が言うように生きられたらいいなって思う」
「…………」
今度はセオドアスが黙する番だった。まぶしげにリアネイラを見つめた。見つめるのを躊躇わせる輝きがリアネイラにはある。十五歳の少女とは思えぬほどの、凛然とした美しさだ。
「それに、望むことは一つだけじゃない気がする。やっぱりわたしって、贅沢だね」
「贅沢などと……そんなことはありません」
「そ、かな?」
「少なくとも私はそのようには思いません。姫はもっと多くのことを望んでも良いのではと思っているくらいですから」
「……うん」
似たようなことを、キィノにも言われたばかりだった。――気楽に構えていればいいよ、と。
同じ意味ではないかもしれない。
だがセオドアスもキィノも、落ち込むリアネイラを励まし、甘えさせてくれる。窮屈な思いをしているリアネイラの心緒を、いつだって気遣ってくれるのだ。
居心地が良過ぎるのだ、ここは。
この屋敷から出ようという決心が、そのせいで鈍ってしまう。鈍りはするが、消えてしまうことはない。「いつかはこの屋敷から出て行こう」というひそかな思いもまた、望みの一つだ。それをセオドアスに言うことはできなくとも。
「ありがとう、セオ。それからごめんね、心配かけちゃって」
「いえ……」
「わたしはわたしなりに、今できることを頑張るね」
それから、とリアネイラは言葉を継いだ。
新たに決意を固めたことがあったのだ。それは前々からしてみたいと思っていたことだった。
「あのね、セオにお願いしたいことがあるんだけど、聞いてもらえるかな?」
「なんでしょうか?」
「乗馬を……馬術をセオに教えて欲しいの。習ってみたいってずっと思ってたんだけど、なかなか切り出せなくって。ハンナにはわたしからお願いするから。ね?」
なぜ馬術を? というセオドアスの問いに、リアネイラは運動不足のせいで、体がなまってしまうからだと、曖昧な返答でぼかした。まさか、旅に出るには必要なことだろうからとは言えない。
セオドアスを困らせることは本意ではない。しかしリアネイラは、セオドアスが今リアネイラに見せているような「ちょっと困ったような顔」を見るのが好きだった。セオドアスの、日ごろは崩れない平静な表情が僅かに揺らぐ。そういう時、セオドアスがぐんと近づく気がするのだ。それがリアネイラには嬉しかった。
「分かりました。私からもハンナに頼んでみましょう」
セオドアスも、顔にこそ表さないが、リアネイラに頼られるのは……甘えられるのは、やぶさかではなかった。リアネイラには楽しげに、嬉しげに笑っていて欲しかった。リアネイラの笑顔を守っていたかった。王女であるリアネイラとの距離が縮まり、近づきすぎるのを抑えながらではあるが。
「ありがとう、セオ!」
リアネイラは満面の笑顔をセオドアスに向ける。そしてセオドアスは、「ちょっと困ったような笑顔」を返した。
長く降り続いている雨も、いつかはあがる。
鬱陶しく思われた雨も、あがってみれば必要な雨だったと気づくこともあるだろう。
雨脚は、ゆるゆると弱まりつつある。
明日は晴れ渡った空を見られるかもしれない。
リアネイラは窓の外に目をやり、今はまだ見えない青空を心に思い描いた。