親愛を頬に
リアネイラは窓から顔を出してゆるりと流れていく景色を眺めて歓声をあげていた。
「わぁっ、素敵! あの樹のあの花、大きくて真っ白で、すっごくきれい! あっ、あそこに見える建物、なんだろう? 古そうな建物だけど立派そうだし……、神殿かなぁ?」
空も雲も風も、青々と葉を茂らす樹木や今を盛りと咲く花々、そして眼前に迫るなだらかな稜線を描く山脈も、何もかもがリアネイラには新鮮な景色だった。
リアネイラはそわそわと腰を浮かせては座り、座ってもまたじっとしていられず体を傾けて窓の外へ意識を向け、琥珀色の瞳を好奇心に輝かせていた。
馬車は町を抜け、のどかな山里へと入っていた。屋敷を出てからゆうに二時間以上は経っている。出発したのは朝食を済ませてからで、急ぐ旅でもないからと、のんびりとした道行きになった。
涼しい緑風が林道を渡り、鳥たちがせわしなく鳴きかわしながら枝から枝へと移り、梢を揺らしていた。日は間もなく中天にかかる頃だ。
吹き抜けていく風に追い越されながら、馬車は目的地へと進んでいく。目的地へはまだもうしばらく時がかかろうが、それでも日が西の山に隠れるよりは早く、到着できるだろう。
向かう先には美しい湖があるという。
「これと言って珍しいものがあるわけではないが、ゆっくりするには最適の場所だ」
この旅行を計画したのは、先ごろリアネイラの夫となった騎士セオドアスだ。
結婚の祝いにと、国王から数日の休暇を贈られたのである。新妻のリアネイラは瞳を潤ませながら素直に喜んだ。セオドアスと二人で出かけることも嬉しかったが、王都から出るのは初めてで、それも嬉しかったのだ。
「今から行くお屋敷って、セオの親戚のお屋敷なんでしょう? ちょっと……緊張しちゃうな」
初めは適当な宿を探してそこに泊る予定でいたのだが、旅行の話を聞きつけたセオドアスの親族が嘴を容れてきた。
久しく会っていない遠戚だ。会ってはいないが、連絡が絶えているわけではなく、交友はある。セオドアスとリアネイラの婚儀の式には参列はしなかったが、代わりに祝辞と祝いの品を贈ってくれた。「せっかくの良い機会だ。挨拶代わりに顔を見せてきなさい」と両親に言われてしまえば、義理堅いセオドアスとしては断りがたい。リアネイラにしても、自分の身分はさておき、名家の子息の妻となったからには、内心煩瑣だと思っていても、親戚づきあいは必須の事と、ある程度は割り切ることにしている。だからセオドアスに確認された時も快く頷いた。
とはいえ、そう簡単に割り切れる性格ではないのがリアネイラだ。リアネイラは、自分自身が「血縁関係」に薄いせいか、家族や血縁者というものに過敏になってしまっている。セオドアスの両親、兄弟と対面した時もひどく緊張し、今もまた眉目を曇らせ、硬くなっていた。
「気さくな人達だから、そう緊張することはない」
セオドアスはそう言ってリアネイラの緊張を解そうとしてくれるのだが、さすがにすぐには「そうだね」と頷けない。
そもそもリアネイラは、セオドアスの妻になったそのこと自体にも、未だ緊張しきっているのだから。
「大丈夫だ。おそらくリィラとは気が合うだろう。あの一家は、全員が全員、好奇心が強いからな」
「でも……それってもっと緊張しちゃうんだけど……」
「適当に相手をしていればいい。向こうも堅苦しいのは面倒だと笑っていたくらいだ」
「そんなわけにはいかないよ。……だって、セオの親戚なんでしょう? やっぱり失礼のないようにしたいよ……。それにできれば親しくなりたいし……」
良い印象を持ってもらいたい、という本音も小声で漏らした。
「リィラがそう考えてくれるのは嬉しいが、だからといって無理をすることはない。いつものリィラでいてくれれば、それでいい」
「……うん」
「第一、リィラを親戚に会わせるのがこの旅行の目的じゃない。ついでと言ってしまえば言葉は悪いが、その程度の気持ちでいてくれて構わない。向こうもそのつもりで迎えると言ってくれている」
セオドアスはとび色の目をやわらげ、緊張した面持ちのリアネイラを優しく見つめ返した。
「それに、いくら親戚でも邪魔をされては俺も困る」
「……邪魔?」
リアネイラは一瞬何のことやら分からず首を捻ったが、すぐに、自分達が結婚したての夫婦なのだということに気づき、ぱっと頬を赤らめた。
「二人きりで、寛いだ時間を過ごそう」
セオドアスは改めてそう言い、リアネイラは恥じらいながらも笑顔で点頭した。
ガタンッと、車体が大きく揺れた。
「わっ、と……っ」
リアネイラは思わず声を上げ、とっさに窓枠に手をかけ傾きかけた体を支えた。
煉瓦の敷かれた町中の道とは違い、土がむき出しになっている山里の道は、轍が道なりにずっと続いているとはいえ、石が出っ張っていたり水溜りがあったり雑草が伸びきっていたりと、回る車輪の障害になる物が多い。
二人が乗っている馬車は、王族が使用するにしてはいささか装飾性が乏しく、質素なものだ。とはいえ、屋根と小窓付きの四輪馬車でしかも二馬引きなのだから、それだけでも十分に贅沢な馬車といえる。
馭者の腕も良く、乗り心地は決して悪くない。しかし道の悪さはどうにもならず、馬車の揺れは乗車している人間の体に少なからず負担を与えた。
「昨夜、この辺りは雨が降ったようだな、ずいぶんと道がぬかるんでいる。リィラ、大丈夫か?」
「う、うん。けっこう、揺れるね」
リアネイラは作り笑い、「大丈夫」と頷いた。
昼食を摂るため一度馬車を降り、小休止ののちに再び馬車に乗ってから一時間ほどは経ったろうか。その間、リアネイラはすっかり口数を減らしてしまっていた。昼食もあまり手をつけていなかった。
セオドアスは新妻の様子を心配げに窺う。心なしか顔色も青く、琥珀色の瞳も明度を落としているように見えた。
リアネイラは、しかし簡単に弱音を吐かない。セオドアスに心配をかけまいと、努めて元気な風を装う。
リアネイラは馭者台の背もたれ部分にあたる小窓を開け、そこから親しげな口調で馭者に話しかけた。
「あとどのくらいで着くの?」
問われ、馭者は慇懃ではあるがぶっきら棒とも言える態度と口調で「もうしばらくかかりますが、日が西の山にかかる前までには到着いたしますよ」と、肩越しに振り返って答えた。
もっと色々と尋ねてみたいと思ったリアネイラだが、馭者はリアネイラの質問に答えるやすぐに前に向き直り、どうにも話しかけづらい。
仕方なしにリアネイラは馭者窓を閉め、座り直した。
他愛無いお喋りでもして気を紛らわせたかったのだが、あえなく失敗してしまった。無意識にため息がこぼれおちる。
リアネイラとセオドアスは向かい合わせで座っている。膝と膝が触れ合ってしまうのは、セオドアスが長身ということもあるだろう。
リアネイラはいつも着用している衣服よりずっと豪奢で裾の長いドレスを身にまとっている。半ば強引に女官のハンナに着せられた。淡い水浅黄色のドレスは、リアネイラの赤みをおびた金の髪の美しさを引き立たせていた。
その金の髪や、ドレスを飾るレースや貴石を、リアネイラは抓んだり弾いたりしていた。ひどく落ち着かなげな様子で、視線は伏しがちにしていた。
「リィラ」
セオドアスに呼びかけられ、リアネイラははっとして顔を上げた。少し困ったような、苦しさを堪えているような表情をしている。
「リィラ、こちらへ」
「え?」
セオドアスはためらうリアネイラの手を取り、自分の横に座るよう促した。リアネイラは驚きながらも、セオドアスの手の導くままに反対側の席へ移動した。セオドアスの隣に腰をおろし、戸惑いがちにセオドアスの顔を見上げた。
「あの……、セオ?」
セオドアスは常に腰に帯びている愛剣を今ははずしていた。それでも万が一の場合に備え、すぐに剣を抜けるよう手の届く場所に立てかけてある。その愛剣の反対側にリアネイラを座らせ、そして肩を抱いた。
「昨夜はあまり眠れなかったのだろう? 着くまでにまだ少し時間がかかる。それまで眠っていた方がいい」
「…………」
寝不足のせいで、馬車の振動に酔ってしまった。吐き気こそないが、気だるく、少々頭痛がする。具合の悪さをごまかし、隠しているつもりのリアネイラだったが、それに気づかないセオドアスではない。
なんでもお見通しだ、セオには。
そう思うと情けなくて、申し訳ない気分でいっぱいなり、リアネイラはしゅんと顔を俯かせた。
「ごめんね、セオ」
「……リィラ」
リアネイラは顔を俯かせたまま、瞼をきゅっと閉じた。
こんな風にセオドアスに心配をかけたくないのに、どうしていつもうまくいかないのだろうと、ちょっと悔しくなる。
十歳という年の差、生まれ育った環境や培われてきた価値観など、リアネイラとセオドアスの間には大きくもあり小さくもある違いや差が横たわっている。それはむろん、越えられない差ばかりではない。年の差は縮めることができなくとも、互いの心の距離は、今こうして近く、寄り添い合っている。
リアネイラは目を開け、そろりと顔を上げた。セオドアスの、ややためらいがちなとび色の瞳とぶつかった。
リアネイラが抱える戸惑いとためらいは、セオドアスもまた抱えている。あるいは、セオドアスの方がより深く、複雑な葛藤を抱えているのかもしれない。
ふと、リアネイラは気付いた。
もしかしたら、同じ想いでいるのかもしれない。
好きだからこそ、戸惑い、ためらってしまうこともあると。
「……あのね、セオ」
「うん?」
セオドアスは小首を傾げるようにしてリアネイラの顔を覗き込む。昼下がりの日の光のような、優しい色をしたセオドアスの金の髪がさらりと流れた。
「わたし、まだまだ子供っぽくて、セオには心配ばかりかけちゃう。気を遣ってもらってばかり……。でも、セオに心配してもらうの、心苦しいなって思う一方で、実は好きなのって言ったら、……呆れる?」
「……いや」
セオドアスは目を細めて、小さく笑った。
「かえって安心した、と言ったら、リィラこそ呆れるんじゃないか?」
「そんなことないよ」
リアネイラとセオドアスは微笑みあった。
「ただ、やっぱりセオに頼りきってばかりじゃだめだなって思うから、いつかはわたしも、少しでもいいからセオの支えになれるようになりたい。こうやって隣り合って、ずっと一緒支え合っていきたいなって……」
「……リィラ」
セオドアスはリアネイラの肩を抱く手に力をこめた。
恥じらいに頬を赤らめながら、それでもリアネイラはひたむきにセオドアスを見つめている。
「だってわたし……、セオの、お、奥さんになったんだもの。…………でも、あのね」
リアネイラは気恥ずかしげに肩を竦ませ、言葉を継いだ。
「今はまだしゃんとできなさそうだから、……もうしばらくこのまま、もたれかかっててもいい?」
新妻の愛らしい欲求に、否と言えるはずもない。
セオドアスは「もちろんだ」と笑って応え、
「俺もこのまま、リィラの肩を抱いていても構わないか」
と、問い返した。
リアネイラは花がほころぶような明るい笑みを見せて頷き、それからつと顎を上げて首を伸ばし、夫の頬に軽く口づけた。
「セオ、大好き」
ガタゴトと音をたてて車輪は回り、それに合わせて馬車も振動する。不規則な揺れではあったが大きく乱れることはなかった。小窓から、時折甘い香りを運ぶ風が入り込んでくる。空の高い所で、長く響く鳥の鳴き声が耳に心地好い。
「リィラ?」
セオドアスは一度だけ、小声でリアネイラの名を呼んだ。
応えはない。
リアネイラは眠っている。首を少し傾け、華奢な体をセオドアスに凭れかけさせていた。リアネイラの穏やかな寝顔にセオドアスは安堵し、ふと笑みをこぼす。
そして、リアネイラの赤みをおびた柔らかな金の髪を撫ぜてから、そっと、額に口づけた。