祈りを額に
暖かな、春の昼下がり。
書斎の扉が開いていることに気づき、リアネイラはそろりと中の様子を窺った。
皮張りの長椅子に深々と腰かけ、ゆったりと背を預けている青年を見つけ、リアネイラは少し驚いたように、目を瞠った。
(眠ってる……)
寛いだ姿勢で、リアネイラの気配に目を覚ますこともなく。
くすんだ金の髪が、開け放たれた窓から射し込む陽光に映えている。風に吹かれ髪が乱れても、一向に瞼をあげない。
うたた寝をしている青年セオドアスは、国仕えの騎士であり、国王の息女リアネイラの夫だ。
婚姻の式を挙げ、新しい屋敷に移り住んでからひと月が経った今も、リアネイラはまだセオドアスの妻だという実感を持てないでいた。恋が叶ったことすら「夢みたい」と思っているのに、と。
まだたった十七の少女でしかないリアネイラだ。いきなり妻なんてと戸惑うのも、無理からぬことだろう。
長年セオドアスに片恋をしていたのだ。その余韻はなかなか消えない。
リアネイラは足音を忍ばせ、セオドアスに近寄った。
いつものセオドアスならば、リアネイラが扉から覗いた時点で、あるいは書斎に近づいてきた時点で目を覚ましただろう。
剣術の巧みなセオドアスは、いかなる時でも油断するということがない。気を張り、過敏なほどに神経を張り詰めさせていた。職業的な体質ともいえるだろう。
国王の愛娘の警護を任されている者として、周囲に気を配り続けるのは至極当然のことだ。たとえ命の危険などないような場所でも、セオドアスは気を緩めることがなかった。戒めを頑なに守っているような、物堅さがあった。
(疲れてる……のかな。最近は大将軍に色々と仕事を任されているみたいだし……)
リアネイラは腰をかがめて、セオドアスの顔色を窺った。
疲れているような色はない。寝息も安らいでいる。
リアネイラを護衛し続けてきたセオドアスだが、「護衛役」という任務は仕事としての役割を終えた。今は護衛役の騎士としてではなく、夫してリアネイラの心を……身をも、慈しみ守っている。
「セオ」
声をかけてみても、セオドアスは瞼をあげなかった。
「…………」
ほんの少しだけ、心配になった。
けれど、安堵もした。
こんな風に気を緩ませ、安らいでいるセオドアスを見ることは、稀だった。
結婚以前は、自分こそがセオドアスの心配の種であり、神経を張らせる理由であり原因だった。国王から直々に依頼された任務、「王女リアネイラの護衛」を遂行するため、セオドアスはどれほどの心労を抱えていたことだろう。
(困らせてばかりで、ごめんね)
好きなのに、……ううん、好きだから、つい甘えてしまう。
リアネイラはそんな自分の甘ったれた性格を、知っていた。
セオドアスにだけではない。幼馴染みのキィノや侍女のフィスリーン、今も世話を焼いてくれる女官のハンナにも、我侭を言って、困らせてばかりいた。
我侭を言うのはなるべく控えようと思っているのに、セオドアスは、
「リィラ、もっと我侭を言ってくれていい。我慢はするな」
とすら言う。
そしてその言葉に、リアネイラはつい甘え、頼ってしまう。
だから、きっとこれからも、セオドアスを困らせてしまうだろう。
ならばせめて、と思う。
せめてこのひと時だけでも、安眠にひたり、憩っていてほしい。
どうか、ずっとずっと、このまま安らかな日々が続きますようにと、祈らずにはいられない。
リアネイラはそぅっと、まるで微風のように軽く、セオドアスの額に口づけた。
「……良い夢を」
さらりと、リアネイラの赤みを帯びた金髪が流れ、セオドアスの頬に触れた。
セオドアスは目を開けない。
セオドアスのとび色の瞳は、いまだ瞼に隠されている。
頬を紅潮させて身をひいたリアネイラは、そのまま静かに書斎を出て行き、音を立てないようゆっくりと扉を閉めた。
そして、扉に背をもたれかけた。立ち去りがたかった。
リアネイラは書斎から出る寸前に、ちらりとセオドアスを振り返ってみた。ほんの、「ちらり」とだ。
だが、それでもリアネイラには分かった。
「セオ」
両手で赤くなっている頬をおさえ、リアネイラはぽつりと呟いた。
鈍いところも多分にあるリアネイラだが、この時ばかりは察した。
セオドアスと視線が重なったわけではない。セオドアスのとび色の瞳は相変わらず閉じられたままだった。
それでも……――
「ありがと、セオ」
眠ったふりをしていてくれて。