敬愛を手の甲に
剣術の練習の後のことだ。
リアネイラは剣を鞘に収めてから、唐突に言った。
「セオって、わたしの後ろにいることが多いよね?」
リアネイラはセオドアスをじっと見つめている。
セオドアスに視線を固定したまま、手の甲で額の汗を拭った。
晩秋の早朝は清々しく、涼しい。涼しいというより、もはや肌寒いと感じる季節になっていた。とくに今朝は気温が低い。曇りがちで風が強かった。
汗ばんでいた身体が風に冷やされてしまうことを案じ、セオドアスは己の上着をリアネイラの肩にかけた。
ごく自然なセオドアスのその行為に、リアネイラは恥じらいつつも、「敵わないなぁ」と感心してしまう。
セオドアスはいつもさり気ない。
さり気なく、静かに、リアネイラを見守っていた。
「いつもわたしの後ろに立ってくれてるよね。それってやっぱり護衛のため、なんだよね?」
リアネイラの琥珀色の双眸は、まじろぎもせずにセオドアスをとらえている。
セオドアスは返答に窮した。ごく当たり前のようにしてきた行動だったゆえに、改めて問われると、即座に答えられない。リアネイラを落胆させたくない気持ちが返答を戸惑わせてもいた。
リアネイラの背後に立つのは、たしかに護衛のためだ。一歩ひいた位置に立ち、護衛の対象者の身を安全に保つよう、周囲に目を配る。
「わたしの前に立ったり、並んで歩いたりすることって少ないなって思ったの。昔は……出逢った頃はそうでもなかった気がするんだけど」
「そう……だな、たしかに」
セオドアスは微苦笑し、応えた。
国王に命じられ、王女リアネイラの護衛役となって十年が経つ。瞬く間に過ぎたように感じられる十年だったが、やはり十年という年月には重みがある。
十年の間に、セオドアスは様々な自覚を得た。騎士としての自覚もその内に含まれる。
大きな戦場に立ったことはないが、国境に派遣され、近隣国の諍いを武略的に鎮圧させたこともあれば、内乱を収束できていない同盟国の大使を、放たれた刺客から護ったこともある。そうした幾つかの経験が、セオドアスに国を護る騎士としての自覚を促した。
その自覚はそのまま、「王女の警護」という任務にも繋がっていった。
リアネイラは「王女」なのだ。母親の身分がいかに低いものであっても、国王に認知された、まごうかたなき王の息女。たとえリアネイラ自身が「王女」という身分を疎ましげに思っていたとしても、その事実にかわりはない。
リアネイラに対し、セオドアスは国に仕える騎士としてしかるべき態度をもって接せなければならないと、己を戒めていた。……思慕が募れば募るほどに。
セオドアスの沈黙を受け、リアネイラは焦り顔で言葉を継いだ。
「あのね、セオ。それが嫌っていうんじゃないの。護られてるんだなぁって分かって嬉しいし、でもちょっとこそばゆいっていうか……」
「リィラ」
ふと、セオドアスの表情が緩む。
セオドアスのとび色の瞳は、そのまなざしに多くの想いを乗せ、声よりも深く優しく、リアネイラの胸に沁みてくる。
リアネイラの頬は、素直なまでの反応を見せ、明るい朱色に染まっている。
「わたしね、セオの腕が好きだなって思ってた。剣の相手をしてくれてるときでも、セオの腕はちゃんとわたしのこと護ってて、そして上達するよう導いてくれるでしょ?」
それに、と、リアネイラは口の中でだけ、小さく呟いた。
――それに、わたしのことを力強く抱きしめてくれる。心も身体も全部、包み込んでくれるセオの両腕が、たまらなく好きなのだと。
リアネイラは恥じらうように笑い、小首を傾げた。
「セオ、あの……ちょっと背を向けてくれないかな?」
「え?」
「ね、お願い」
「……ああ」
唐突な申し出だったが、セオドアスは言う通りにした。その直後。
リアネイラは背を向けたセオドアスに、抱きついた。身体をぴったりとくっつけ、両腕を前に回した。
「……リィラ?」
さすがのセオドアスも、これには少々焦った。が、動揺は顔には表れない。よしんば表れていたとしても、リアネイラは背に額をくっつけて視線を落としているから、見ることはできなかったろう。
「あ、あのね、セオ。わたし、セオの背中も、すごく好きなの。一度、こうやって抱きついてみたいなぁって思ってて」
リアネイラの肩から、セオドアスがかけてくれた上着が落ちた。パサリと音をたてて落ちたと同時に、地面に散っていた枯葉がさわさわと動いた。リアネイラの鼓動のように、落ち着かなげに踊った。
「…………」
暫時二人の間に沈黙が漂った。もどかしく、甘い沈黙だった。
「リィラ」
おもむろに、セオドアスはリアネイラの白く華奢な手をとった。先ほどまで剣を握っていたリアネイラの手は少し冷たかった。
セオドアスの口には微苦笑が浮かんでいた。甘美な熱が背後から伝わってくる。
――なんとも容易く背後をとられてしまうことか。
己の無防備さに、失笑せずにはいられなかった。
今、自分の顔をリアネイラに見られずにすんでいることに安堵しつつ、セオドアスは言った。ほんの少しだけ、からかうような声音だった。
「たまにはこうしてリィラに抱きしめられるのも、悪くはないな」
リアネイラは気恥ずかしげに顔をあげた。セオドアスの顔は見えない。ただ、握ってくれる手の熱さに、ドキマギしていた。
「ほんと、セオ? でも、なんだか縋りついてるって感じなんだけど……」
「……リィラ」
セオドアスも、リアネイラに劣らず唐突だ。
リアネイラの手を強引に口元まで引き上げ、手の甲に接吻した。
「俺こそが、リィラに縋っている。跪き、改めて忠誠を誓いたいほどだ」
「セッ、……ッ」
「王女としてのリアネイラではなく、ただひとりの、リアネイラに」
――敬愛の口づけを、今一度、白き手に。