わがまますら愛しくて
キィノ編「浴びるほど」の晩の出来事
――今年は冬の到来が早そうだ。
セオドアスは首を伸ばして嘆息し、窓の外に目をやった。
射し込んでくる朝日が目に眩しい。
東の空に昇ったばかりの太陽は、室温を上げるほどの効力をまだ持たない。
樅の木に白く光るのは、昨日の通り雨の名残だろうか。それとも、初霜だろうか。
温暖な気候の国だが、冬になれば雪がちらつくこともある。しかし積雪に至ることは稀で、王都の西方にはなだらかな低山が連なっているが、頂が白く染まるのはわずかな期間しかない。
遠ざかってゆく秋を懐かしむように、セオドアスは傍らにいる少女を見つめた。
皮張りのソファーで窮屈そうに横になり、セオドアスの膝を枕にして眠っている少女は、国王の愛娘リアネイラだ。
十年前、リアネイラの護衛役を命じられたセオドアスは、その命に従うべく、リアネイラの安眠を護っている。
リアネイラと呼ばれるより、リィラという愛称で呼ばれることを好んでいる。だがその愛称でリアネイラを呼ぶのは、今は幼馴染みの侍従とセオドアスだけだ。
「リィラ」
そっと、リアネイラの髪を撫ぜた。リアネイラの柔らかな金の髪は、朝日こそが似合う。
目覚めたら、リアネイラは何と言うだろうか。おそらくは、飛び上がるほどに驚き、その後に「ごめんね」と続けるだろう。醜態を見せてしまったことを恥じ、落ち込んでしまうかもしれない。
琥珀色をした美しい瞳は瞼に隠され、まだ目覚めそうにない。
「――どこにも行くな、リィラ。ずっとこのまま……――」
呟いてから、セオドアスは軽く目を閉じ、ソファーに背を預けた。
昨晩のことだ。
濃紺の夜空を仰ぎつつ、セオドアスは歩調を速めた。
日暮れ前に驟雨があったためか、夜風は湿気を帯びていた。吐く息が僅かに白い。
軍務棟での任務が思いの他長引き、そのため帰館が遅くなってしまった。
リアネイラの心配顔が、セオドアスの脳裏を過ぎる。
遠慮がちな気質の姫は、帰りが遅くなったことを「どうして」と問うよりも、「どうしたの? 何かあったの」と心配そうに問うだろう。自分のことよりも先ず、セオドアスのことを気にかける。
セオドアスはとりもなおさず、リアネイラの私室へ向かった。窓から灯かりがもれ、まだ起きているらしいことが察せられた。
入室の許可を得るべく胡桃材の扉を叩いたが、返事はない。代わりに、陽気な笑い声が聞こえてくる。
やや躊躇ったが、セオドアスは扉を開けた。
「あ、セオさん。おかえりなさい、ずいぶん遅くまでかかったんですね~」
扉を開けたと同時に四つの視線がセオドアスに注がれ、甘い酒の香りが鼻孔をくすぐった。
明るい茶色の双眸を持つ少年は、扉を開けたのがセオドアスであったことに安堵したようだった。母親である女官長のハンナが扉を開けたのなら、まず間違いなく雷を落としただろうから。
そして、緩やかなくせのある、赤みをおびた金の髪の少女も、扉の向こうに佇む騎士に笑みを向ける。頬は赤く、琥珀色の双眸は僅かに潤んで、トロンとしている。
「セオ~、おかえりなさ~い」
泥酔とまではいかないが、酔っているのは一目瞭然だ。
テーブルには酒瓶があり、栓が抜かれている。一本ではない。少なくとも四本は空になっている。
「リィラ、キィノ」
一瞬、叱るべきなのかとセオドアスは躊躇った。が、慣れない言葉は出てこない。ため息をつくのがせいぜいだった。
――叱れるはずもない。
リアネイラはテーブルに突っ伏していた。……まだ、泣いてはいない。
「今夜はリィラと飲み明かすつもりだったけど」
同じくらいの量を飲んだだろうに、キィノはいたって平常だった。足取りも口調も、しっかりとしていた。
「リィラ、寝ちゃったし、やっぱりこのへんでおひらきにします。話すべきことは話したし。だからセオさん、後のことよろしくお願いします」
話すべきこと。それは、屋敷を出て行くということだった。
その意向を、キィノはリアネイラに告げた。
「リィラ、きっと泣くと思うけど、オレの前じゃ我慢しちゃうだろうから」
キィノは茶色の瞳に幼馴染みの姫を映し、くすっと笑う。
「ここからはセオさんにお任せします」
「……ああ」
「セオさん、これ。オレからの祝杯ってことで、受け取ってください」
まだ栓の開いていない酒瓶をセオドアスに渡してから、キィノは手早くテーブルの上を片付け、リアネイラの私室から出て行った。
「ありがとうございます、セオさん。それと、これからもリィラをよろしく」
振り向き際に、そう言って。
リアネイラはテーブルに顔を伏せたまま、だが寝入ってはいないのか、時々何かつぶやいている。
「リィラ」
セオドアスはリアネイラの肩にそっと手を置いた。その直後。
ふと目を開けたリアネイラに突然抱きつかれた。
「――セ……オッ」
かすれた声が、セオ、と繰り返す。
「リィラ……」
「ヤ……ダ。やだ。やだよ、さび……しいよ」
背にまわされた腕に、力がこもる。
「いっちゃ……やだ……よ。セオ……いっちゃ、やだ……」
「リィラ」
静かに、リアネイラは泣く。
胸に顔を押しつけ、呟きすら押し込めようとする。
セオドアスはじっと佇み、緩くリアネイラを抱いた。
「……っ」
抑え続けてきた感情が解き放たれ、涙となって流れ出す。
寂しいと、一人にしないでと、リアネイラは声にせず、叫ぶ。
母を亡くした時も、同じようにして泣いていた。
だがあの時は、誰かの胸に縋りついたりはしなかった。……幼い王女は、たった一人きりで泣いた。誰も見ていない所で、声を押し殺して。
セオドアスの腕の中、リアネイラは堰を切って溢れ出た哀感に翻弄され、おそらくは半ば意識を失っているのだろう。
セオドアスに縋り、懇願する。
――いかないで、と。
どこにも行けるはずがない。……離せるはずがない。
リアネイラの傍こそが、自分の居るべき場所だった。
だが、リアネイラが望むよりもっと深く、もっと激しく、セオドアスは欲していた。
どこにも行くな。俺だけを……求めてくれ、と。
セオドアスの腕の中、リアネイラはようやく眠りについた。酔いもまわった上、泣き疲れたのだろう。寝息は安らいでいるが、こごった目元と紅潮した頬がいたいけに映った。
涙に濡れた金の髪を指先で梳き、軽く整える。と、くすぐったかったのか、目を覚ましはしなかったが、リアネイラは眉をひそませた。
「…………」
セオドアスは細く、息をついた。
ソファーに腰を沈め、セオドアスは一人、酒瓶を傾けていた。
芳醇な果実酒はするりと喉を下ってゆくが、一人きりで飲むには少しばかり苦く、酔えそうもない。
ソファーに横たわり、セオドアスの膝を枕にして眠るリアネイラを、切愛をこめて見つめる。
酒は、少々危険な薬だ。それでも荒療治も時には必要なのだということを、キィノは知っていて、リアネイラのために、実行した。
リアネイラの心を解す術に、キィノは一歩長じている。
セオドアスは潔く負けを認める。その存在の大きさをも。
妬心はない。皆無だとは言えないが、それは己の余裕の無さが生むものだ。
「……わがままを、俺にも言ってくれ、リィラ」
繰り返し伝えたことを、眠る少女に囁く。答えはない。
朝になり、リアネイラが目を覚ましたら、セオドアスは言いかけて踏みとどまるだろう。
もっと、愛してくれ。
ずっと、俺だけを。
――狂おしいほどの恋情を、唇を重ねるという行為で伝えるかもしれないが。