きっと俺の悩みなど知らないのだろう
常に平静を保ち、節度を守っている騎士セオドアスの表情とこころを乱し、崩してしまうのは、婚約者たるリアネイラだ。
無邪気な笑顔で、あるいは遠慮がちな微笑で、セオドアスのこころをぐらつかせ、ため息をつかせる。
むろんそれは、切愛ゆえにこぼれる甘い吐息であり、そのため息の数だけ愛しさはいや増してゆく。
王女リアネイラが住む屋敷には別棟が設けられている。そこは、衛兵や使用人達の居所だ。
女官長のハンナや、侍従キィノもそこに各部屋を与えられており、むろんリアネイラの護衛役として屋敷に配された騎士セオドアスも、一室を借りている。
別棟へは渡り廊下で繋がっており、行き来は容易い。
実用性を重視した建物は、こざっぱりとしている。部屋数は多いが、各部屋の間取りはさほど広くない。ほとんど寝るためだけの場所といってよく、不足を補うため、それぞれ共同の場が設けられている。浴場や食堂、談話室などがそれである。
そのうちキィノとハンナの私室、そして食堂にのみ、リアネイラは立ち入ったことがある。といっても、数えるほどしかなく、長居することもめったにない。
別棟の方に一室借りて、そっちで暮らしたい。と、リアネイラは度々幼馴染みでもある侍従のキィノにこぼしていた。
父である国王に与えられた屋敷は、あまりに広すぎる。
リアネイラは七歳まで王都の下町で育った。
下町での生活が身についていたせいだろう。華美な屋敷は自分には不釣合いだと思っていたし、居心地は良いに違いないが、少々落ち着かないというのも正直な感想だった。
それでも十年という月日を過ごすうちに、自然と現状に慣らされ、寛げる場所もいくつかあった。一つは屋外の庭園。そしてもう一つは固定された場所ではなく、騎士セオドアスの傍、常にそここそがリアネイラの安寧の場所だった。
だから、というのでもないだろうが、至極当然に、リアネイラは興味を抱いたのだ。
セオドアスの居所に。
「セオも、キィノと同じようにあの棟に一室借りてるんだよね?」
「ああ、そうだが」
それは晩秋のとある日、午後のお茶の時間のことだった。
何気ない会話の中の、何気ない問い。変わらない日常風景だった。
「オレの部屋は一階にあるけど、セオさんの部屋は二階ですよね? リィラの私室くらいの間取りはあるんじゃないですか?」
キィノに問われ、セオドアスは軽く首を振って答える。
「いや、もう少し狭い」
同じ棟で、同じように一室を借りてはいるものの、騎士であるセオドアスはその身分を考慮され、棟の中でも広く整えられた部屋をあてがわれた。
しかし与えられた部屋で過ごす時間は少なかった。睡眠をとるだけの場所といっていい。
セオドアスが居るべき場所は、王女リアネイラの傍。十年前に、それは定められた。そして、それはこの先も変わることはない。
「キィノも別棟の二階には行ったことないの?」
「行ったことはあるけど、せいぜい衛兵用の仮眠室と談話室くらいだよ」
「そっかぁ」
リアネイラは傍で立っているセオドアスに目を向けた。
一緒に座ってお茶を、と毎度声をかけているのだが、やんわり断られてしまうことが多い。
婚約者となった今、人目を気にすることもないのにと、リアネイラはついため息をこぼしてしまう。
そしてそんなリアネイラを、セオドアスは少しばかり困った風に見つめ返すのだ。
融通の利かない自分に、苛立ちすら感じて。
わがままは極力控えよう。
常々自分にそれを言い聞かせているリアネイラだが、時として、セオドアスをためらわせるわがままを言い出すことがある。
セオドアスを困らせるつもりは毛頭ない。だがこの日のそれは、大いにセオドアスを戸惑わせた。
「セオの部屋に、行ってみたいな」
だめかな、とリアネイラの目が問う。
「…………」
リアネイラのすぐ傍に控えていた侍従のキィノが、一瞬困惑の色を浮かべた騎士の様子を、失笑を堪えつつ窺っていた。
セオドアスが即答しなかったことで、リアネイラは遠慮しようとした。
しかしキィノがすかさず口を挟む。
「この屋敷にいるのもあと僅かだしね。いい機会だし、行ってきなよ、リィラ。母さんにはオレから話しとく」
キィノは悪戯っぽく片目をつむり、セオドアスに言った。
「ゆっくりしてきて構いませんからね、セオさん?」
キィノに背中を押される形で、リアネイラはこの日初めてセオドアスの私室を訪れることになった。
真面目な性格のセオドアスらしい部屋だ。
壁には装飾の美しい長剣と銀の盾が飾られ、強弓と手製の矢が皮袋に収められ、下がっている。短剣や鎧、馬具、そうした物を見るにつけ、セオドアスが生粋の軍人であることを知らされる。
二間続きの広い室内に散らかった様子はなく、どの場所も整頓されていた。物が少ないということもあったが、それは、
「春には、ここを出るからな」
という、リアネイラにも関係した理由があった。おおよその荷物は既にまとめられ、あるいは実家に送るか、処分したということだった。
リアネイラはほんのりと頬を赤らめる。
……そう。春になれば、リアネイラはセオドアスの許へ嫁ぐ。すぐにではないが、セオドアスの用意した屋敷へ移ることになるのだ。
それを改めて実感し、リアネイラの胸が鳴る。
「機能的で、いい部屋だね、セオ」
リアネイラは部屋のあちらこちらを見聞して回る。照れ隠しの行為だったが、いつしかそれを忘れていた。
机の上の本を手に取ってみたり、樫材の棚に置かれた短剣を鞘から抜いてみたり、小窓を開けてそこから外を眺めやったり、果ては寝台に倒れこんでみたり……。
セオドアスは柔らかな笑みを浮かべ、リアネイラを見つめていた。
大人びた表情をするようになったリアネイラだが、やはりまだ「少女」なのだ。十歳という年齢差は、王女と騎士という身分の違い同様に、セオドアスを常にためらわせていた。
そしてリアネイラのあどけなさ、無邪気さが、さらにセオドアスを戸惑わせる。愛しさが募り、衝動的な行動をとってしまいかねない怖れが、セオドアスの心を揺らす。
セオドアスが抱える葛藤を、リアネイラは未だ読み取れない。
それを安堵している一方で、もどかしくも思っているのもまた本心だった。
「そろそろ屋敷へ戻ろう、リィラ」
セオドアスに促され、リアネイラは席を立った。
リアネイラはふと窓の外を見る。外はすでに夕闇が降り、梢を大きく揺らす風が窓を叩く。部屋の隅やテーブルの上のランプに火をいれたのは、セオドアスだった。
ランプの炎を見つめ、リアネイラは嘆息した。
大好きな人と過ごす時間の、なんと早いことか。
リアネイラは恥じらうように笑み、セオドアスを見つめる。
「ありがと、セオ。すごく嬉しかった」
今日は「初めて」のことばかりだと付け足して。
セオドアスの部屋を訪れたこと、セオドアスの話をたくさん聞けたこと、セオドアスが淹れてくれたお茶を飲んだこと。
そのどれもが、新鮮に感じられた。そしてたまらなく嬉しかった。
セオドアスにしても、それは同様だった。少しばかりのとまどいは、苦になるものではない。リアネイラに気付かれないよう、一線を敷いてはいたが。
だが、リアネイラは気付かないゆえに、その線をいとも容易く踏み越えてくる。しかも、突然に。
「…………帰りたくない。ずっと、ここにいたいな」
上目遣いに見つめられ、セオドアスは進退窮まった。思わず眉間に皺が寄る。
「リィラ」
「なんちゃって。ごめん、そんなわけにはいかないよね」
セオドアスの困り顔を受け、リアネイラは慌てて踵を返しドアへと駆けてゆく。
おそらくは何気に言ったことだったのだろう。
リアネイラは単純に、わがままを言ってセオドアスを困らせてしまったという程度にとらえているだけだった。
リアネイラには何の躊躇もない。ドアの取っ手に手をかけ、部屋を出て行こうとする。
「もうじき夕食だよね? 急ご、セオ」
……帰りたくない。そう言ったその口で、それを言うのか。
思わず、だった。
セオドアスは身を翻した。
そして取っ手にかけられたリアネイラの手の上に、己の手を重ねた。
リアネイラの髪、肩、背、それらがセオドアスの胸元に触れている。
肩越しに振り返ったリアネイラの琥珀色の瞳は、少なからず困惑していた。
「セオ?」
抱きしめられる。それを感じ、鼓動が跳ねた。
抱きしめたい。その衝動を、寸前で抑えた。
重なった「一瞬」が僅かばかりの沈黙を落としたが、セオドアスがドアを開けたことによって、張り詰めていた空気は緩和された。
肩の力を抜き、リアネイラを安堵させるために、セオドアスは笑みを浮かべた。
「行こうか、リィラ」
そして、リアネイラの肩を抱き歩き出した。
「う、うん……」
つられてリアネイラも歩き出したが、どこか落ち着かなげだった。何か訊きたそうに、セオドアスの顔を窺っている。だがセオドアスはもういつものセオドアスに戻っていて、リアネイラを不安にさせるような色は見当たらない。
だから不思議だった。
どうしてこんなに、どきどきするんだろう。
リアネイラは一向に鎮まらない鼓動を抑えようと胸に手を当てる。上気した頬も、冷める気配がない。
そんなリアネイラを見やり、セオドアスは小さな苦笑をもらした。
……気付いてはいないようだが、心のどこかでは、気付いているのかもしれない。
自分が言った言葉の意味。それはセオドアスを惑わせ、理性の鍵をはずさせる言葉だったと。
リアネイラ自身にそうした意図はなかった。それはわかっているのだが。
やはりまだ「少女」なのだ。無垢で素直な、「少女」。それが今のリアネイラだ。
「あのね、セオ」
「ん?」
「セオの部屋に、また来てもいい?」
……本当に、何の意図もないのか?
セオドアスの口の中で、とびきり苦い虫が大きく跳ねる。惑ってしまう自分が滑稽で、笑えてもくる。
「ああ」
短く答えて、セオドアスは改めて腕の中の少女を見やる。
――まだ青く硬い果実。
初々しいその果実を、乱暴に噛り付きたい衝動に駆られることもある。
だが、もうしばらくの辛抱だろう。
やがて実は熟し、蜜を含んで、赤く甘く完熟する。――……俺の、この腕の中で。
セオドアスは指先に金のくせ毛を巻きつかせ、そっと囁いた。
「待っている、リィラ」
――その時を。
「え?」
何のことだか分からないといった風にリアネイラは小首を傾げ、セオドアスのとび色の瞳を見つめ返した。
セオドアスの穏やかな笑みは、リアネイラの鼓動を跳ね上げ、高まらせる。顔中が真っ赤になる。
熟した林檎ように。
日毎、リアネイラは甘く熟れてゆく。
セオドアスという温室の中で。