scene.3
午後になってから、リアネイラは気分を変えるため、屋敷を出た。
出先は屋敷の庭園だが、そこはリアネイラにとって憩える数少ない場所だった。
リアネイラは腰に剣をさし、片手にウードという有棹撥弦楽器を持ち、一人、庭園のあずまやへ向かった。
そのいでたちを見て、キィノは「旅芸人か、吟遊詩人みたいだね」と笑う。
実際、亡き母は旅の楽団の一員だった。
宮廷に招かれるような高尚な楽団ではない。国中を流浪し、時には街角で、時には芝居小屋で、時には酒場で興行をうっていた。
母は優れた歌い手だった。歌姫とまで称された母は、その美声ゆえに国王の目と、そして耳にも止まった。
貴族ですらない、旅の楽団員、しかも孤児である歌姫を国王はこよなく愛し、宮中に迎え入れた。むろん、周囲からの反応は冷ややかなものだった。
国王には数多くの側室がいたが、彼女ほど身分の低いものはいなかった。その女の産んだ子供を、よもや認知するとは。
母は心労がたたって、病に倒れたのだ。
二親もなく、身分も卑しい自分を愛しんでくれた国王を、最期の最期まで愛して、そして逝った。
「いろいろあったけど、わたしらしい、手ごたえのある人生だったわ」
陽気で気丈な母は、ただの一言も泣き言を言わず、病にありながらも笑っていた。心より、身体の方が国王の寵愛を受けているという立場に、結局は耐えきれなかったというのに。
「わたしはわたしの望むままに生きて、幸せだったわ。あなたもあなたの望むように生きて、そして幸せになるのよ」
それが母の遺言だった。そして、歌とウードが、母の形見となった。
弦楽器であるウードは、棹をもち、弦の数は八本。共鳴胴は背面が大きく膨らみ、前面には丸い共鳴孔がある。
リアネイラのウードは大きさも小ぶりで、装飾も控えめだ。共鳴孔の透かし彫りは鳥を描いている。
母から娘へ伝えられたウードは、変わらぬ音色を響かせる。
リアネイラは、音の調整のため、軽く弦を弾く。ビィンと、乾いた音が鳴った。
低い音は地に、そして高い音は空へ、響く。
快き調べの 木々の子守唄
芳しい花々を あなたのために
どうかわたしを眠らせて
あたたかな腕に抱かれ 花散る夢を 一夜だけ
緑薫る風と 小鳥が歌うように
囲い庭の片隅で あなたとともに
どうかわたしを眠らせて
愛しい手に包まれて 風ふる夢を 一夜だけ
歌い終わってから、リアネイラは人の気配を感じて振り返った。だが、さほど驚きはしなかった。そこにいたのが、セオドアスだったことに。
「お耳汚し、だったかな?」
リアネイラは照れくさそうに笑って、言う。
リアネイラの歌を聴く機会はめったにないことだが、初めてではなかった。
セオドアスには、朗々とした澄んだ歌声が母親に似ているかは、わからない。だがリアネイラの歌声は、たとえささやくようなものであってさえ、心に響く。
「いえ、良いものを聴かせていただきました。私こそ、お邪魔だったのでは?」
「…………」
リアネイラは首を横に振る。顔は微笑を浮かべているが、憂いをおびていた。
「早かったんだね、戻るの。軍務棟に行ったって聞いたんだけど。用は済んだの?」
「はい」
「そっか」
リアネイラはウードを掻き鳴らした。
……気分転換に、失敗した。
リアネイラは気分を落ち着かせるために、よくこうしてウードを奏で、知っている歌を口ずさむ。大抵はそれで気を晴らせるのだが、今回はうまくいかなかった。
「姫?」
大丈夫かと問えば、リアネイラは頷くだろう。それをわかっていたから、セオドアスは訊きかけて、その言葉を呑み込んだ。
暫時、二人の間にある歩み寄れない距離に、沈黙が流れ落ちた。
「あのね、セオ。わたし、ずっと思ってたことがあるの」
ふう、と息をついて、リアネイラは顔をあげ、話しだした。
「剣の鍛錬、どうして始めたのか、セオ、疑問に思ってたでしょ?」
「…………」
リアネイラは、子供が悪戯の種明しをする時のように笑う。
「わたしね、屋敷を出ようと思ってたの。十七になったらって。失敗しちゃったんだけど」
「……なぜ」
「…………旅にね、出てみたかったの。そうなるとやっぱり護身術は必要かなって」
王女という立場がいかにリアネイラを束縛しているか、セオドアスは間近に見、知っている。
七歳の時に王宮招かれ、それからはほとんど屋敷の外へは出ていない。街へ出かけることはあっても、自由な行動は規制された。
「父様に、感謝はしてる。母様に対して、ちゃんと誠実だった。わたしのこと認知してくれて、そして保護してくれたんだものね」
「姫……」
「それにね、セオに逢えた事も、嬉しい。……セオもそう思ってくれていたら、もっと嬉しいけど」
素直に、思うことを口にした。リアネイラはまっすぐにセオドアスを見つめる。
真摯でひたむきなリアネイラのまなざし。その瞳から目を逸らすほど、セオドアスは半端に優しくも、残酷でもない。
「私も、嬉しく思っていますよ」
「そうやって……」
少し、リアネイラはふてくされてみせた。
「当たり障りのない答えしかくれないよね、セオは」
「……本心から言っているのですが」
「あのね、セオ。わたしがね、名前で呼んで。敬語はやめて。そう命令したら、きいてくれるの?」
「…………」
「嘘。冗談。ごめん。だからそんな顔しないで」
自分で自分の首を締め、あげく窒息しそうになった。リアネイラは自分の考えなしの言行が、情けなかった。
泣きたいのを堪えているかのようなリアネイラに対して、言いたいことは、いくつも浮かぶ。だがそれをリアネイラに今言うべきなのか、セオドアスは判じかねていた。
「もう、部屋に戻るね。寒くなってきたし」
腰かけていた場所に、ついさっきまでは木漏れ日が当たっていた。日が翳り、徐々に気温が下がっていく。
風が、梢を揺らす。
リアネイラの、肩にかかる髪が、吹きつけた強い風になぶられ、乱れた。
髪を整えながら、リアネイラは歩き出した。そのか細い腕に、ウードを抱えて。
「姫、部屋まで送ります」
「……いいよって言っても、意味ないよね? セオはわたしの護衛をするのが仕事なんだものね」
「姫」
リアネイラに似つかわしくない自嘲的な微笑、そして自虐的な言い方だ。
「そのように鬱屈されている姫を見ているのは、正直、辛い。愚痴でも、文句でも、仰ってはいただけまいか」
「……ごめん、セオ」
足を止め、リアネイラは振り返った。心から申し訳なさそうな顔をして、そして唇を噛みしめる。
「ごめん、セオだって困ってるのに。だめだ、ほんと。こんなのわたしらしくない」
はああ~っと、大きくため息をつく。がっくりと肩を落とし、けれどすぐに気を取り直したようだった。
「なんとか、しなくちゃ。そうだよね、うん」
そうひとりごち、その後すぐに、いつものリアネイラらしい笑みが、さっきまで曇っていた顔に戻った。
「セオ、ありがとう、もう大丈夫」
「…………」
セオドアスは、眉間に寄せた皺をさらに深めた。本当にかと問うその目に、リアネイラはもう一度「大丈夫」と応える。
「心配性なのは変わらないね、セオ」
「姫に対してだけです」
リアネイラは目を瞠った。思いもよらなかったセオドアスの応えに、一瞬の間をおいて赤面した。
「ずるいなぁ、そういうことさらっと言えちゃうの。でも、それもセオらしくて、嬉しい」
リアネイラは笑う。
「あのね、セオ。セオもね、わたしに言いたいことがあるのなら、言ってね。わたしでできることがあれば、何でもするから」
「…………」
頷くのをためらわせる、リアネイラの言葉だった。
時々、奇妙に鋭いのが、リアネイラだ。そうして、自分よりもまずセオドアスのことを気にかける。
あの時も、そうだった。
「元気だしてね、セオ」
まさか、たった十歳の少女に励まされるとは思わず、セオドアスは返答に窮した。それどころか、その台詞は自分が少女に対して言うべきことだった。数ヶ月前に母親を亡くしたばかりの、この少女に。
「コイビトと別れたって聞いたよ。それで淋しそうな顔してるんだよね、セオ?」
十歳の少女は、精一杯、気落ちしている青年を元気づけようとする。
セオドアスは笑みを浮かべて「ありがとう。大丈夫ですから」と答えたが、リアネイラは心配そうな顔を崩さない。
「あのね、セオ。これ、あげるから、持ってて。元気になれるお守りだよ」
「姫、これは」
「あげるけど、いつかはわたしに、ちゃんと返してね。その時は、わたしがセオのお嫁さんになってあげるからね! だから、元気だしてね」
リアネイラは首に下げていたその「お守り」をセオドアスの手に握らせた。それは、母からもらった「お守り」だった。
「こんな大事な物はもらえない。それに、姫のお守りを俺がもらってしまったら、姫が困る」
二十歳になったばかりのセオドアスは、こういう時、まだ上手く受け流すことはできず、若い顔にはすぐに困惑の色が乗る。
「大丈夫だよ、セオ。だって、わたしのお守りは、セオだもん。セオがいてくれたらいいの」
そして十歳のリアネイラは、素直すぎるほどに、自分の心をまっすぐ投げかけてくる。
「わたしね、セオが一等好き。だから、一等好きなセオが元気ないのは、イヤ」
小さな両手から、セオドアスの大きな手に優しい温もりが伝わる。
「ありがとう、リィラ」
セオドアスは幼い姫の手を握り返した。
リアネイラは満面の笑みを浮かべると、大人びた口調で「どういたしまして」と言う。
自分を慕ってくれるこの少女を、守っていこう。君命だからではなく、セオドアスは己にそれを誓った。
「約束だよ、セオ? ずっと、ずっと傍にいてね?」
リアネイラの約束と、セオドアスの約束。
この時はまだ、少しだけずれていた二人の約束は、いつか重なり合う時がくるのだろうか。