依存してばかりでは駄目だと思っていても、あなたの隣は心地好くて。
本編以前、リアネイラ、恋を自覚した頃。
リアネイラは切れてしまった有棹撥弦楽器の弦を見つめる。
無理に引っ張ったせいで、切れた弦。
リアネイラは怖れていた。
いつか、こんな風に切れてしまうのだろうか。
国王の勅命というだけで繋がっている、護衛役の騎士と。
空の高いところで鳥が鳴き交わし、刷毛でさっと描いたような筋雲が空の青さを淡く和らげている。
柔らかな春の陽射しを受け、いち早く花を咲かせたのは淡黄色の一重咲きのバラだ。甘い香りが小さな庭園を包んでいる。その香りに誘われ、蜜蜂が忙しなく花から花へと飛び交っていた。
麗らかな、心地の好い午後。
梢を揺らす風の音、鳥の甲高い囀り、蜜蜂の微かな羽音に混じって、弦を弾く音が庭園に響いていた。
長椅子に腰かけて愛用の有棹撥弦楽器ウードの調律をしているのは、庭園の主、王女リアネイラだ。
五年前、急逝した母から譲られたウード。沢山の歌曲を、リアネイラは母から習っていた。
それらは、わずか十歳にして母を失ったリアネイラの心の拠り所になっていた。
そしてそれ以上に、リアネイラの心を支え続けているのは騎士セオドアスだった。
リアネイラは肩越しに振り返り、少し離れた場所にいる騎士セオドアスを見やった。
常に周囲に気を配り、微小な変化すら見逃さぬよう神経を研ぎ澄ましている。
――危険なことなど、ありはしないのに。
リアネイラは嘆息し、顔を俯かせた。
赤みを帯び、緩いくせのある金の髪が、吹きつけてきた風になびく。
危険なことなどないと分かっているのに、セオドアスの姿が見えなくなると不安でたまらなくなる。
けれど、いつの頃からだろう。
セオドアスが傍にいてくれることに安堵感を覚えながら、落ち着かなくもなっていた。
リアネイラはウードの弦を爪弾いた。
高音だったが濁っていた。糸が緩んでいるようだ。
「…………」
キリキリと糸を締め上げ、右の親指と人差し指で弦を軽く弾く。
それをしながら、リアネイラは再びセオドアスに目を向けた。
リアネイラの視線に気づき、セオドアスはとび色の双眸を和らげ、僅かばかりの微笑を面に浮かべた。
リアネイラの胸が高く鳴る。と、同時にウードの弦が鈍い音をたてた。
「――ッ!」
無理に締め上げられた弦が切れ、苦情を訴えるように、リアネイラの人差し指を切りつけた。
「姫!?」
セオドアスは素早くリアネイラのもとに駆けつけた。
「い、た……」
傷口から血がにじみ出ていた。リアネイラは痛みに顔をしかめた。
「姫、怪我を? 見せてください」
「だ、大丈夫、これくらい」
リアネイラは慌てて手を引っ込ませようとしたが、セオドアスはいつになく強引に、その手を掴んで、寄せた。
跪き、気遣わしげな顔をするセオドアスに、リアネイラの心臓こそが締め上げられ、切れそうになっていた。
「わたし、ぼんやりしちゃって……。弦、張り替えなくちゃ」
リアネイラは赤くなった顔を俯かせて隠そうとした。
「……姫」
セオドアスの大きく温かな手が、はなされた。セオドアスの小さなため息が、リアネイラの心をさらに萎ませる。
「姫、手当てをしますから、そのままでいてください」
「え?」
リアネイラはとまどい顔を上げる。
セオドアスは腰のベルトに装着されている皮袋から、木綿の切れ端と丸い陶器製のケースを取り出した。セオドアスは木綿の端を噛むと、手ごろな大きさに引き裂いた。
「姫、手を」
「え、あの」
セオドアスは再びリアネイラの右手を、自分の手に乗せるようにした掴んだ。そして先ずは血をふき取り、ケースの蓋を開けてそこに入っている軟膏を指先で掬った。
「――っ」
傷ついた指先を軽く撫ぜられ、リアネイラは身を竦ませた。全身が、ざわつく。
「姫?」
リアネイラの琥珀色の瞳が潤み、バラ色に紅潮している頬に雫が流れていた。
突然の涙に困惑したのは、セオドアスだけではなかった。
「ご……めん、セオ。なんでも、な……」
リアネイラはウードを膝の上に置き、涙を拭った。それでも涙は止まらず、溢れるばかりだった。
「ごめん、ちょっと、し……しみちゃって」
嘘だ。
傷は、もう痛くはない。薬がしみてなんかいない。
痛いには違いないが、怪我をした指が痛いのではない。
だが涙の理由はわからず、そう言うしかなかった。
「…………」
セオドアスは黙したまま、リアネイラから視線だけを逸らした。
傷が痛むのではないだろうことは、わかっていた。
だが、何を言える? 俺が原因なのかと、自問することすらおこがましかった。
暫時、二人の間に沈黙が落ちかかる。重くはない。
ただ、落ちた沈黙には、ほのかにバラの香りが含まれていた。
屋敷内へ戻るようセオドアスに促され、リアネイラは素直にそれに従った。
ウードを持ってリアネイラの一歩前を歩くセオドアスの背を、リアネイラはじっと見つめていた。
いつまでこうしていられるのだろう。
いつまでセオに頼っていられるのだろう。
いつまで…………――
繰り返される問い。わがままな願いと分かっているのに、依存してばかりではだめだと分かっているのに、「いつまでも傍にいてほしい」と願ってしまう。
この想いの「名」を、リアネイラは知っていた。
――恋。
ああ、そうだ。これが「恋」なのだ。
リアネイラは白い木綿の巻かれた右の人差し指に目をやった。
ほんの僅か、血がにじんでいる。赤い沁みが浮き出ていた。
リアネイラは不意に足を止めた。
それに気がつき、セオドアスも足を止め、振り返った。
「姫?」
リアネイラは黙したまま、立ち竦んでいた。
泣いている様子はないが、琥珀色の瞳は憂いを帯びている。リアネイラに似つかわしくない、沈んだ色だった。
「どうなさいました、姫? 傷が痛みますか?」
「……ううん、違うの。平気。なんでもない」
笑って見せたが、上手くはいかなかった。
とまどいがちに、リアネイラはセオドアスを見つめる。
幼い頃は、何のわだかまりもなく、素直に「好き」と言えたのに。
その気持ちが「恋」であることは知っていた。けれど、こんな辛い想いは知らなかった。
不安で、怖くて、心細くて、心が震える。
リアネイラはまた泣き出してしまいそうだった。けれど首を横に振り、暗い気持ちを散らした。
「……あのね、セオ。さっき言い忘れてた。薬塗ってくれて、ありがと」
「いえ」
セオドアスは気遣わしげな顔を崩さない。眉根をひそませ、リアネイラのぎこちない微笑を見つめる。
「それでね、セオ。何か、セオにお礼したいな」
「礼など……」
「わたしにできることなんて少ししかないけど……、それでも何かできないかな」
胸の前で軽く握られているリアネイラの手を、セオドアスは目を細めて見やる。
自分の気持ちを押し隠し、なおかつセオドアスを気遣おうとする。
リアネイラは切れた弦を左手に巻きつけていた。右手の人差し指に巻かれているのは、赤い血の滲む木綿。
もはやリアネイラは幼いままの少女ではなくなっていた。だが、彼女の本質は変わらない。
セオドアスは軽く息をつき、それからふっと表情をやわらげた。
「それでは、その指の怪我が治ったら、ウードを聴かせてください」
「え? う、うん!」
リアネイラは花開くように明るい笑顔を浮かべ、大きく頷いた。
「うん、わかった。約束するね、セオ!」
切れた弦は元には戻らないけれど、新しく張り替えればまたウードは音を取り戻す。
傷はいつか癒えて、きっと痕も残らない。
リアネイラは切れた弦と、傷に巻かれた木綿を見つめる。
「切れて」しまうことは怖い。怖いけれど、きっといつかは「切れて」しまう。
無理を強いれば、その時期はもっと早まってしまう。
それなのに、まだこうしていたいと思うのは、ただのわがまま。
でも本当に望むのは、「切れてしまわない」ことなんかじゃない。
だからいつかは……きっといつかは古い糸を断ち切って、新しい糸を繋げたい。そして新しい音を紡ぎたい。たとえ、それがどんな音色になったとしても。
だけど今はまだそれをする勇気が足りないから、もう少しの間、傍にいてほしいと願ってしまうのだけど。