何も言わなくても気づいてくれるから、何も言えなくなる
リィラ、十六歳の秋。
政なんて、分からない。国事に関わろうなんて、これっぽっちも思っていない。
それを言ってみたところで、王女という身分の価値が下がるわけでもないことを、リアネイラは知っている。
知ってはいるが、愚痴りたくもなるというものだ。
国王の娘という立場がもたらす弊害に、リアネイラは心底辟易し、気を沈ませていた。
ろくに会ったこともなく、話したこともないような男から求婚されるようになったのは、国王主催の社交界に招かれ、王女として正式に披露されてからだった。当時リアネイラはまだ十三歳だった。王家の姫として礼儀作法等の教育はされていたがまだぎこちなく、宮廷の雰囲気に馴染めずにいた。
リアネイラの母は、貴族の娘でもなければ、豪商の家の娘でもない。平民だった。いや、平民よりももっと軽い身分と言えた。旅楽団の一座の「歌姫」で、定まった家すら持たぬ身だったのだ。
その女が、あろうことか国王陛下の御子を生んだ。
国王は、「歌姫」と称された女と、その一人娘を、ことのほか愛された。正妃の手前、ありありとその寵愛ぶりを見せはしないが、常に心にかけ、身辺を護らせていた。
後、歌姫は夭折し、一人娘のリアネイラだけが、国王の保護下に残った。
父親譲りの琥珀色の瞳を持つ王女は美しく成長し、そうして社交界に招かれるまでになったのだ。
身分は低くとも、国王の庇護を受けている、「王女」だ。リアネイラの意思に関わりなく、リアネイラの価値は急速に高まった。
国王の寵愛を受けている「王女」としてのリアネイラ。
野心ある男達にとって、リアネイラはなんと魅力ある結婚相手だろうか。我こそはと求婚合戦が始まっても、それはしかるべきことだった。
当の本人であるリアネイラとっては、知りもしない男達の求婚など、迷惑以外の何物でもない。
「もう、いい加減にしてほしいよ……」
定型的な求愛の詩文と高価なだけの贈り物が、リアネイラをうんざりさせた。
たしかに王族の姫であれば、十三か四で結婚が決まることもある。当然政治的な意図のある婚姻だ。王族の婚姻は、それだけで「政治」の一環であり、義務ですらあった。
リアネイラは聡い。
王族の婚姻がいかなる意味を持つか、頭では分かっている。
リアネイラは己の身分や立場を、十分に理解し、弁えている。むろん、好きこのんで享受しているわけではない。
王女なんて柄じゃないと嘆くことしきりで、そのように扱われることに対し諦めてはいたが、いつまでたっても不慣れなままだった。
リアネイラは、必要最低限の礼儀作法や教養を半ば強制的に履修させられていた。堅苦しい礼儀作法なんて苦手だと言って渋い顔をしていたリアネイラだが、その言とは裏腹に、やわらかな綿布が水を吸うがごとくに作法や教養を身につけてゆき、王家の娘としての気品を備え、王女らしい「柄」をまとうようになっていった。
年々、リアネイラは美しくなってゆく。
比例して、求婚者が増えても何ら不思議はなかった。
当のリアネイラだけがそれを不思議に、というより不快に思い、頑なに拒絶し続けていた。
拒絶していたのには別の理由もあったからなのだが。
その別の理由である「彼」は、王家に仕える騎士らしい礼節さをもってリアネイラに接し、彼のとび色の瞳に映るのは、やはり「王女」としてのリアネイラだった。
父である国王陛下の内命で、母とともに王宮へ招かれたのは、リアネイラが七歳の時だ。屋敷を与えられたと同時に、身辺を警護する騎士をも、リアネイラは王女として当然であるべく、傍に配された。それが「彼」、騎士セオドアスとの邂逅だった。
さらさらと風が流れている。午後の陽射しが、小さな庭園に優しく降りそそいでいた。
よく日の当たる部分から少しずつ紅葉しはじめていっている落葉樹の下、石造りの長椅子に腰かけ、リアネイラは有棹撥弦楽器ウードを爪弾いている。音合わせをしているのだが、ウードの音色は乱調を正されないままだった。
集中できないのは、つい先刻侍女から渡された花束と、すぐ傍に控えている騎士セオドアスのせいだ。
リアネイラは無造作に置いたバラの花束に目をやった。
豪奢な八重咲きの、薄紅色のバラ。数えてはいないが、三十か四十本はあるだろう。バラの種類にさほど詳しくないリアネイラだが、それでも珍しい品種のバラなのだろうことは分かる。花の中央部分は濃紅色で、花びらの先にいくにしたがって色が抜け、淡く繊細な色が重なり合っている。芳香も強く、風が吹くたびに香りがたちのぼってくる。
バラの花束には手紙も添えられていた。が、封は切られていない。見る必要もなかった。どうせお決まりの求愛の詩文か美辞麗句が書き連ねてあるのだろう。
求婚者達からの高価な贈り物は、リアネイラが応対に出た場合は、受け取らずに返品していた。が、侍女らが使者の対応に出た時は、こうしてリアネイラの手元に届いてしまう。
その後、使者を立てて送り返すのだが、菓子や花束などは返品がきかないことのほうが多い。その度にリアネイラは困り果てた顔をする。
菓子や花に、罪はない。しかし受け取ってしまえば相手の思惑通りになってしまうのではないかという危惧がある。求愛を受けるつもりなどさらさらないのだ。期待をもたれては、困る。
リアネイラはため息をついた。
赤みをおびた金の髪が、頬にかかる。ゆるい癖のある髪を耳にかけ、リアネイラは目線を動かした。
美しいバラの花束より、リアネイラの心を揺り動かすのは、黙したまま立っているセオドアスだ。
セオドアスはとび色の瞳をやわらげ、見つめ返してくれる。だが、何も言ってはくれない。
「……セオ」
――何か、言って。
リアネイラの琥珀色の瞳が、愁思に暮れる。
「セオ、……あの、ね」
リアネイラはためらいがちに水を向けた。セオドアスは僅かに眉を動かした。
「わたし、今まで、こういうわけの分からない求婚をずっと断わり続けてきたでしょ? でもそれって、よくないことなのかな? もっとちゃんと考えなきゃいけないのかな?」
リアネイラはバラの花を、指で軽く弾いた。
「だけどわたしまだ十六で、結婚なんて全然考えられないし、だいたい、よく知りもしない人から求婚されたって、嬉しくない」
「…………」
セオドアスの困り顔を受け、リアネイラは苦い笑みを返した。
「でもやっぱりそれは我侭なのかな。……自分の立場とか父様のこととか考えて、…………した方がいいのかな」
「した方が、とは……」
「……け、結婚、を」
リアネイラは今にも泣き出しそうな顔をしていた。
セオドアスはとまどいを抱えたままであったが、一歩、リアネイラに近づき、問いに応えた。
「姫、結論を急ぐことはありません。陛下のことを慮ってそのように仰る気持ちは分かりますが」
「…………」
「それに、我侭などではありません。戸惑われるのは当然のことでしょう。少なくとも、私はそのようには思っておりません」
「…………うん」
頷いてから、リアネイラはじっとセオドアスを見つめた。
セオドアスの瞳に、今、自分が映っている。それはいったいどんな自分なのだろう。セオドアスの目には今も「王女」としてしか映っていないのだろうか。身分も何もない「リアネイラ」は、セオドアスの心にはいないのだろうか。
「セオ、わたし、ね…………」
声が、ふるえる。
リアネイラは喉を押さえた。
むせ返るようなバラの芳香が喉に忍び込み、声を押さえつけているかのようだった。苦しくて、咽びそうだ。
沈黙が、リアネイラとセオドアスの間に落ちる。重くはない。だがリアネイラは耐えられず、心にもないことを言ってしまった。
「セオ、もしも……もしもわたしが誰かの求婚を受けたら、どうするの? 反対、しない? それが誰であっても」
「姫、それは……」
心にもないこと、ではなかった。リアネイラは知りたかった。セオドアスの心を。独りよがりの想いだと分かっているのに、それでも。
「それから、その後も、わたしの警護をしてくれるの? わたしが、今のわたしじゃなくなっても……?」
「…………」
セオドアスは、今度こそ返答に窮した。眉をひそめ、狼狽を押し隠している。くすんだ金の髪を風に乱すにまかせ、何もできず、何も言えず、佇立していた。
「ごめん……っ」
やにわに、リアネイラは立ち上がった。ウードを抱きしめ、ぎゅっと唇を噛み締めて、俯いた。
「変なこと言って、ごめん。今の、忘れて。ごめん。ごめんね、セオ」
涙を堪えるのに必死で、リアネイラはセオドアスの顔を直視できなかった。
「姫」
もう行くね、と、言い、立ち去りかけたリアネイラを、セオドアスはほとんどとっさに引き止めた。リアネイラの華奢な腕に触れる寸前で手を止め、空を掴んだ手は、むなしくおろされた。
リアネイラは怖々と顔を上げ、目を細めて、セオドアスを見やった。無表情なようでいて、どこか切なげな色のあるとび色の瞳が、リアネイラをとらえている。
「……私は、姫が望む限り、傍にいます」
「…………セ、オ……」
胸が高鳴り、リアネイラの眦に涙が滲んだ。俯けば零れ落ちてしまうだろう。だからリアネイラは顔を上げ、唇の両端をも上げて、無理に笑みを作った。
「傍にいてくれるの?」
「はい」
「……ずっと?」
「姫が望むなら」
「…………」
リアネイラは声を詰まらせた。
……違うの。違うの、セオ。
わたしが、……わたしが望むのは、――本当に望むことは……――
「……ごめんね、セオ」
リアネイラはか細く呟いた。微風がさらっていった言葉がセオドアスの耳に届いたかは分からない。
もう何も言えなかった。
優しいセオドアスを困らせたくないのに、いつもこうして困らせてしまう自分が歯がゆくて、情けなかった。
それなのに、嬉しくてたまらないのだ。
傍にいると言ってくれた。
誠心を感じる言葉だった。
それは、見知らぬ求婚者達の、どんな美々しい求愛の文句にも勝る。まるで魔法のような言葉だった。寂しさに冷え、暗く沈んだ心をとび色の灯りが照らし、温めてくれる。
だからもう、何も言えない。言えなくなってしまう。
「…………それじゃぁセオ、今、わたしの望むこと……お願いを、聞いてくれる?」
「はい、私でできることならば」
「昨日、キィノが新しいお茶を買ってきてくれたの。だから、今から一緒にお茶を」
リアネイラは小さく首をかしげ、はにかんだ笑顔を浮かべて言った。
ひと時を、ともに過ごしたい、と。
セオドアスは、秋の陽射しのようにどこか切なげな、それでいて凛としたリアネイラの瞳を見つめ返した。寂しさと嬉しさがないまぜになっているリアネイラの表情は、つい先日十六歳になった少女のものにしてはいささか大人びていた。環境が、リアネイラの表情を複雑にさせるのだろう。
あるいは、そうした表情をさせているのは、自分かもしれない。セオドアスは、気づいていた。琥珀色の瞳の一途さは、それを感じさせてやまなかった。
セオドアスはため息を押し殺し、ややあってから、短く「はい」と応え、リアネイラをほっとさせた。
リアネイラはバラの花束を、ウードとともに両手で抱え、歩き出した。
「そのバラを、部屋に飾られるのですか?」
不意に、だった。
セオドアスに訊かれ、リアネイラは少し驚いたような顔をし、振り返った。セオドアスの表情に、変化はない。沈静そのもので、心意を悟らせない。
リアネイラは首を横に振った。
「客間か廊下にでも飾ってもらうよう、ハンナにお願いするつもり。わたしの部屋には、飾らない」
「……そうですか」
セオドアスの表情に、ごく僅かな揺らぎがあった。リアネイラは目を瞬かせ、その揺らぎを見つめる。けれど、揺らいだ感情がどんなものであるか、結局は読み取れなかった。
「では、そちらは私が持ちましょう」
「え、……あ、うん」
リアネイラはウードと花束とを抱え、窮屈そうにしている。それを見かねて、セオドアスは手を差し出した。
「ありがと、セオ」
「いえ」
「じゃ、行こう、セオ」
リアネイラは庭園から屋敷内に通ずる扉を押し開いた。
「……はい、姫」
応えてから、セオドアスはリアネイラに気づかれぬよう、バラの花を一輪、握りつぶした。
薄紅色の花びらが数枚、床に散り落ちた。
リアネイラは前だけを見、歩いている。時折セオドアスの様子を気にして肩越しに振り返ることもあるが、ひたむきな目はセオドアスしか映さない。
セオドアスは散った花びらに一瞥をくれ、しかし立ち止まりはせず、リアネイラの後をついてゆく。
それでも、バラの芳香は消えない。
むせ返るような甘い香りはリアネイラを追い立て、セオドアスを焦渇させる。