無理をしてほしくはないのに、無理をさせているのは自分で
本編以前、リィラ十五歳
もぞもぞと、何度目かの寝返りを打つ。
「…………」
寝苦しい。深く息を吐き、リアネイラは布団の中で身体を伸び縮みさせていた。
思いもかけず発熱してしまったリアネイラは今日一日ずっと寝台に横たわっている。目を閉じたり開けては瞬きを繰り返したり、ともかく落ち着かない。
退屈でしかたがない。とはいえ、頭は重いし体もだるい。寒いのだが熱い。リアネイラは何度目かもう数え切れないほど吐いたため息を、また布団の中に零した。
昨夜、とりとめのないことを考え込んでしまってなかなか寝付けなかった。今朝になってどうやら発熱しているらしいと気が付き、半ば強制的に寝台に運ばれ、安静を言い渡された。
幸い、風邪のひき始めらしく、症状は重くない。
「……ふぅ……っ」
リアネイラは掛け布団を押しのけて、一度上半身を起こした。
窓の外を見ると黄昏時が近付いているのがわかる。幾重にも重なった雲が夕日を多い、光をやわらげている。すでにうす暗くなりかけているが、晩春、夜の訪れはひどくゆったりとしている。
雨が降りそうで降らない、今日はそんな一日だった。少し肌寒い。
室内はシンと静まり返っている。部屋の外、屋敷内に人の気配は感じるものの、まるで異空間に一人取り残されたような寂寥感がリアネイラの心を沈ませた。
先刻早めの夕食を済ませ、熱さましの薬湯も飲んだ。「ともかく今夜はゆっくりと休むように」と女官のハンナから言われ、リアネイラはおとなしくそれに従っている。
しかし何もしないでいるのは退屈でしようがない。熱のせいなのか、寝苦しい。寝なくちゃと焦れば焦るほど眠気が薄れていくようだった。
長椅子に置かれた有棹撥弦楽器ウードを取るために、リアネイラは寝台から降りた。長椅子に腰かけてウードの弦を軽く爪弾いた。同時に、ズキンとこめかみが痛む。
リアネイラはため息をつき、ウードを抱えたまま寝台に戻った。
やはりまだ熱は下がっていないようだ。額に手を当てたが、自分ではわからない。手も額もすこし汗ばんでいる。
枕を腰に当てて座り、ウードを膝の上に載せて再び窓の外に目をやった。
思い浮かんだのは、ひとりの騎士。いつも傍にいてリアネイラを見守ってくれる優しい騎士。鳶色の瞳がことに印象的な、凛々しい青年。
――セオに会いたいな……――
リアネイラの護衛を任されている騎士セオドアスは一昨日から実家に帰省している。久方ぶりのまとまった休暇だ。「ゆっくりしてきてね」とセオドアスを送り出したリアネイラだったが、一日セオドアスの顔を見ないだけで、もう寂しくなってしまっている。
こんなんじゃダメだよね……――
今日何度目かのため息をリアネイラは深々と吐きだした。
セオドアスに会いたい。けれど我慢しなくちゃいけない。
セオドアスはわたしの護衛騎士だけれど、わたしが独占していい「騎士」じゃない。
リアネイラは心の内で何度もそう言い聞かせている。
じき、リアネイラは十五になる。
もう十五歳になるのだ。
亡き母が一人前の「歌姫」として舞台に立ったのは十五の頃だと聞いている。旅の楽団員の一員であった亡き母は、場末の酒場や街や村の祭事の舞台で、朗々と歌い、日銭を稼いでいた。十五にしてすでに自立していたといえよう。そうせざるを得なかった環境にあったとはいえ……自分とはなんと違うんだろう。リアネイラは亡き母と己が身を比べ、情けない気持ちでいっぱいになっていた。
セオドアスにしても、そうだ。
十五の時、セオドアスはすでに剣を握り、騎士になるべく修練の日々を過ごしていた。
セオドアスは貴族の子息だ。しかし三男であったセオドアスは、家を継ぐ必要がなかった。だが、父と長兄そうであったように、騎士となる道を自ら選んだ。
――わたしは、何をしたらいいんだろう。何をしたいんだろう。
焦りがリアネイラの胸をひしめかせていた。
泣きそうになり、けれどそれを必死で堪える。
気持ちが沈むのは体調が悪いからだ。眠らなくちゃ。しっかり休んで、元気になって、明日にはセオドアスを笑顔で迎えたい。
そう思い、ウードを寝台の脇に置いたのとほぼ同時にドアがノックされた。
「はい、どうぞ」と応えると、しばしの間をおいて、ドアが開いた。
キィノかハンナだろう。リアネイラはそう思っていた。が、ドアが開き、そこに見えた顔は予想外の人物だった。
「セオ!?」
大きく目を見開いて、リアネイラは部屋に入ってきた青年を見つめる。
会いたいと願っていたその人。――セオドアスだ。
帰館は明日のはずだが、なぜ。
セオドアスは遠慮がちな表情、そしてゆったりとした足取りで寝台に近づいてくる。帯剣し、外套も羽織ったままだ。おそらく帰館してすぐリアネイラの寝室に足を向けたのだろう。
セオドアスは心配そうにリアネイラの顔色を窺う。
「体調がよろしくないとのことですが、お加減はいかがですか、姫?」
「う、うん……もう、そんなにはだるくないし、平気だよ。でも、セオ……どうして」
帰館は明日じゃなかったのかと問うリアネイラに、セオドアスは表情を少し和らげ、早々に用事が片付いたのでと、曖昧に応えた。
のちにキィノから聞いたのだが、どうやらセオドアスの実家で祝宴があったらしく、それから「逃げてきた」とのことだった。華やかな場が苦手なのもあったが、招待客……もっぱら女性客から寄せられる秋波を躱すのに辟易したらしい。
ともあれ、予定より一日早く帰館したセオドアスだったが、リアネイラが体調不良で床に就いていると聞き、とりもなおさずリアネイラの様子を窺いに来たのだ。
セオドアスの優しさが嬉しかったが、生真面目な性格ゆえのことだろうとも思い、リアネイラはちょっと複雑な気分になる。
「あのね、セオ」
「なんでしょうか」
「…………」
会いたかったの、顔を見たかった。だから、こうして部屋に訪ねてきてくれて、すごく嬉しい。
たったそれだけの他愛ない言葉が出てこない。
セオドアスの優しく穏やかな鳶色の瞳に見つめられるのが、ひどく苦しい。いつからだろう。胸が熱く焦げるような、切ない痛みをおぼえるようになったのは。
セオドアスは寝台のそばに来てくれる。だが、リアネイラに触れようとはしない。騎士として一線を引き、セオドアスはその一線から足を踏みださない。無理からぬことだが、リアネイラはいつも「何か」をセオドアスに期待して、そしてその度に落胆してしまう。
「……ううん、なんでもない。ごめんね、セオ。わざわざ来てくれてありがとう」
リアネイラは小さく首を横に振り、微笑した。いつもの快活なリアネイラらしくない、弱弱しい笑みだった。ぎこちない、大人びた作り笑みを向けられて、セオドアスは眉をひそめた。
いつからだろう、とセオドアスも思う。
いつからだろうか。リアネイラは無理に作ったような笑みをセオドアスに向けることが多くなった。琥珀の双眸が戸惑いがちにセオドアスを見つめ、揺らぐ。そのまなざしに宿る"感情"が何か、察しきれないわけではない。しかし……――
「姫」
セオドアスはためらいを押しやって、もう一歩、リアネイラに近づいた。そし手を伸ばし、頬に触れた。
「……ッ」
反射的にリアネイラは肩をすくめた。驚いたように見開かれた目がセオドアスに向けられる。
「……どうか無理をなさらぬよう」
無理に笑わないでくれ。そう言いたかった。だが無理をさせているのは自分なのだろうと、セオドアスは知っている。
「だ、大丈夫だよ、セオ。あの、ほんとに……ちゃんと休んでたから、熱もだいぶ下がったし……」
どぎまぎしながらリアネイラは応える。触れられた頬がさらに赤く熱くなっていくから、どうにも説得力がない。しかし、おかげで頭痛は吹き飛んだ。
つと、セオドアスの手が離れた。
「何か、私にできることはありますか、姫?」
リアネイラが今何を望み、何を欲しているのか、それは分からない。だが病床にある時は、心細くなるものだ。何か望みがあればきいてやりたい。
セオドアスらしい誠実さだが、ひどく曖昧ではある。
セオドアスもまた、リアネイラに本心を明かせないでいる。
「私でできることであれば、何なりとお申し付けください」
「…………」
セオドアスの申し出にリアネイラは目を瞬かせた。
「あの、それじゃぁセオ、えっと、……――」
ここにいてほしい。ずっとずっと、傍にいてほしい。
そう言いかけて、リアネイラはぐっと言葉を飲み込む。
一人きりで居るのが寂しいからって、そんなわがまま、セオドアスに言えるはずがない。
一日早く帰館したとはいえ、今日もセオドアスは「休日」のはずだ。自分のわがままにつき合わせるわけにはいかない。リアネイラの傍にいることは、セオドアスにとっては「仕事」なのだから。
でも、せっかくセオドアスが申し出てくれたのだ。「何もない」と無碍に断るのも申し訳ない気がした。
それに……――
――王女として、何をすればいいのか、なにをすべきなのか。それはまだ分からない。今も、もしかしたら明日も分からないままかもしれない。
けれど今、わたしがすべきことは、ちゃんと寝て、体を休めて、元気になることだ。
セオに心配をかけたくない。セオを安心させなくちゃ。
そのために、ほんのちょっとわがままを言ってもいいかな……。
意を決して、リアネイラはセオドアスを見やった。
「……あのね、セオ。その……セオのマント、貸してくれないかな」
「私の、このマントですか?」
セオドアスは己の肩にかけている黒茶色の革の外套を片手でつかみ、問い返した。
「寒いようでしたらもう一枚ブランケットをお持ちしますが」
リアネイラは慌てて両の手を振った。
「違うの、寒いわけじゃなくて! そうじゃなくて、その……っ」
せめてセオの「代わり」に、マントを傍に置いておきたかった。それを言うわけにはいかず、リアネイラは口ごもってしまう。
「えっと……ダメならいいの。ヘンなこと言ってごめんね、セオ」
「…………」
セオドアスは黙考したが、すぐにマントを脱いだ。さほど汚れてはいないが手で軽く払って旅塵を払い、それからリアネイラの膝にかけた。
「これでよければお使いください、姫」
「ありがとう、セオ!」
ぱあっと明るい笑みがリアネイラの顔に浮かぶ。素直すぎる反応に、セオドアスは微苦笑した。
セオドアスのマントをぎゅぅっと抱きしめ、リアネイラは心から嬉しそうに笑う。さっきまで曇っていた気分が晴れていくようだった。我ながら単純だと思う。
「それでは姫、私はこれで。ゆっくり休んでください」
一礼して部屋を出ていくセオドアスに、リアネイラはもう一度笑顔で礼を言った。今度こそ、無理に作った笑顔ではない。
「ありがとう、セオ。セオも、今夜はゆっくり休んでね」
「おやすみなさい、姫。よい夢を」
そう掛けられた声はいつになく甘くて、リアネイラの胸が切なく鳴った。
「……おやすみなさい、セオ」
リアネイラの声は小さく、セオドアスの耳には届かなかったろう。
ドアが閉まり、セオドアスの気配が遠のいていくのが分かった。
リアネイラはセオドアスから渡されたマントをきつく抱き締め、そのまま横たわる。ため息が無意識にこぼれおちた。
「……セオ」
そして目を瞑る。
夢で、セオドアスに逢えたらいいな。
そんなことをぼんやり考えながら、リアネイラはふわふわとした眠気に身を任せた。