ありがとうと、ごめんなさい
リアネイラが剣術の稽古を始めてから、ひと月以上が経った。指導者はリアネイラの護衛騎士であるセオドアスだ。ほぼ毎朝、稽古は続けている。
習い始めの数日間は、セオドアスの指示で木製の剣を用いた。リアネイラはいささか物足りなそうな顔をしたが、かつてセオドアスもそうして練習を始めたと聞き、素直に納得した。慣れた頃を見計らい、真剣を与えた。五日前のことだ。
「わざわざ造ってもらっちゃったんだ」と、遠慮がち過ぎるきらいのあるリアネイラは少しだけ申し訳なさそうな顔をしたが、やはり嬉しさが勝ったらしく、満面の笑みを浮かべてセオドアスに礼を言った。
リアネイラのためにしつらえた真剣は、セオドアスのそれよりずっと軽く細い、諸刃造りの剣だ。
真剣は木製よりずっと重く、扱いにくかったろう。初めのうちは素ぶりも長時間は続けられずにいた。それでも、リアネイラは辛抱強く努力を重ね、目を瞠るほどに上達した。
「セオの教え方が上手だからだよ!」
と、リアネイラは琥珀色の瞳を輝かせてセオドアスを褒揚したが、当のセオドアスは眉を下げて苦っぽく笑うばかりだった。
剣の達人であるセオドアスに基礎の基礎から学べるのはリアネイラにとっては幸運だったが、はたして教える側のセオドアスの心中はどうであったろうか。
――複雑であったに違いない。
リアネイラが男だったならば、教えるのに躊躇もなく、難しく思う事もなかっただろう。
リアネイラは柔軟だ。鋭気もあり、敏捷で反射神経も良く、溌剌とした挙動は見ていて快い。物事をすんなりと吸収できる素直な気質はリアネイラの美点だ。教え甲斐はある。
しかしリアネイラは女だ。――いや、まだ“少女”というのが相応しかろうが。
女性の騎士や兵士は、数は少ないものの、いるにはいる。かつてセオドアスも、女性兵士らに稽古をつけてやったり、鍛錬の相手として本気で向かい合ったりしたことがある。
だがそうした女性兵士らとリアネイラを同等には扱えない。当然のことだが、筋力等に違いがありすぎる。
ましてや、リアネイラは国王陛下から庇護を命じられた王女だ。剣にかけてその身を守ると誓った大切な少女なのだ。その少女に、誓言を込めた剣を向けるとは……。生真面目なセオドアスらしい葛藤といえよう。
セオドアスは細心の注意を払ってリアネイラの剣を受けていた。素直すぎるリアネイラの太刀筋は目で追う必要もなかったが、呼吸が上がりすぎないよう、配慮せねばならなかった。
セオドアスにとっては、精神を摩耗させる朝のひとときだ。迷惑という感情はないが、まどいはある。
リアネイラのひたむきなまなざしが、セオドアスを絶え間なく追う。それが、ひどく心苦しかった。
セオドアスは幾度となくリアネイラのまなざしを逸らし、かわし続けてきた。
しかしかわし続けてこられたとは言い難い。
一途に打ち込んでくるリアネイラの琥珀色の“真剣”に対し、セオドアスは防御する術を知らない。打ち返す術もありはしなかった。
複雑な想いを抱えているのは、何もセオドアスばかりではない。
リアネイラもまた心中穏やかならず、揺れ、躊躇していた。
セオドアスの心配げな声音、ふいに逸らされてしまうとび色の瞳が、度々リアネイラを悲嘆に暮れさせた。セオドアスへの恋心を自覚したゆえの、少女らしい気鬱だった。
セオドアスの一挙一動に、リアネイラの感情は敏感すぎるほどに反応し、揺れ動く。
気鬱を抱え込むこともままあったが、リアネイラの気質は生来明朗で積極的だ。
セオドアスに「剣術を教えてほしい」と頼み込んだあたりは、積極性の表れだろう。
リアネイラが剣術を習いたいと言いだしたのには、いくつかの理由があった。
セオドアスには「体がなまっちゃうから」とだけしか言っていない。
いつか屋敷を出て、旅に出たい。その時には自衛の手段として剣術は役立つだろう。その考えは、当然口に出さなかった。幼馴染でもある侍従のキィノにはこぼしたが、キィノは口が堅い。セオドアスには伝わっていないだろう。
それと、もう一つある。それもセオドアスには打ち明けられなかった。キィノにも、他の誰にも。恥ずかしすぎるし、申し訳なさすぎた。
セオドアスとともに過ごす時間がもっと欲しかった。――セオドアスと向かい合っている時間が欲しかったのだ。
ともに過ごしている時間は長い。しかしリアネイラの守護がセオドアスの仕事であり、そのため傍にはいても、大抵は後方にいる。セオドアスのとび色の瞳がリアネイラの目と合う事は少なかった。だから正面を向いているセオドアスとの時間が欲しかった。
贅沢だと、分かっている。
くだらない理由だとも。
分かっていながらセオドアスに無理を言い、我儘を押し通してしまった。
いつも気を遣わせ、困惑顔ばかりさせているのに。そう思うと心苦しかったが、それでもセオドアスとの共有時間がもっと欲しかった。
きっと……、いつまでもこうしてはいられないだろうから。
* * *
昨夜の雨は明け方にはやみ、旭光が小さな庭園を明るく照らし始めていた。光を含んだ滴が、既に開ききった花や枯色を見せ始めた葉の上で煌めいていた。
リアネイラは一人、有棹撥弦楽器ウードを抱えて庭園に来ていた。ウードを弾くつもりはなかったが、持っているだけで気が休まる。母の形見のウードはリアネイラにとって精神安定剤のようなものだった。弦を爪弾けばその効果はさらに上がるのだが、今日はそれもできそうにない。弾くのに難渋しそうだ。
ウードは麻製の袋に入ったまま、取り出されなかった。
微かな風が吹き、リアネイラの瞳に似た色に染まった落葉樹の葉がそよそよと揺れた。同時に、枝にとまっていた二羽の小鳥が、何に驚いたものか突然羽根をばたつかせて慌ただしく飛び立った。枝が撓えて滴が音をたてて地に落ちた。
リアネイラは小鳥の飛び立っていった初秋の空を、目を眇めて振り仰いだ。
薄く棚引く雲の隙間に見える蒼が、美しい。
この空模様ならば、今日は心地よく晴れるだろう。
リアネイラは深呼吸をし、それから目に付いた石造りの長椅子に腰を下ろした。日当たりのよい場所だったため、衣服が湿る心配はなさそうだ。
ウードを横に置いてから、背伸びをした。右の手首を左手でつかみ、腕をぐっと前に伸ばす。そのまま頭の上にまで持っていき、肩の凝りをほぐしてから、ぱたりと腕をおろした。両手を膝の上に置き、深く息を吐く。そして肩越しに振り返り、「おはよう、セオ」と、背後にいる人物に声をかけた。
今しがた庭園にやって来たばかりのセオドアスは、やや虚を突かれたが、驚き顔はせず穏やかな声音で挨拶を返した。
「おはようございます」と言って軽く一礼するセオドアスに、リアネイラは微笑みで応じた。
セオドアスの金の髪が微風にそよいだ。ほんの少しだけ乱れた金髪が、セオドアスの端正な容貌の三方をやわらかく包んでいる。
セオドアスのくすんだ金の髪が、やけに眩しい。いや、髪だけではない。優しげなとび色の双眸も、真正面から見据えるのが辛くなるほどに眩しかった。
リアネイラは視線を落とした。
セオドアスがリアネイラを追うようにしてここにやってきた理由は、分かっている。
今日は宮廷に赴かねばならないと、昨日のうちにセオドアスから直接聞いていた。丸一日帰ってこられないとも。
セオドアスは、国仕えの騎士だ。
今はリアネイラの護衛を主とした仕事としているが、なにぶんにも閑職だ。剣術、馬術ともに優れた騎士であるセオドアスを閑職に置いておくのはいかにも惜しい。そのため、セオドアスは宮廷側からの要請を受け、リアネイラの元を離れることも多かった。騎士としての本領を発揮できる任務に就くのは、セオドアスとしても本望であろう。
とはいえ、王女リアネイラの護衛は、国王から直々に命じられた任務だ。疎かにはできない。
律儀なセオドアスは任務に赴く前に、必ずリアネイラに一言断ってから、屋敷を出ていく。
いちいち断らなくてもいいのにとリアネイラは思い、それを言ったことがある。結果、セオドアスを困らせてしまった。
「姫が煩わしくお思いであるようならやめますが……」
セオドアスは心底申し訳なさそうに言い、リアネイラはハッとして青くなった。
「違うよ、セオ! そうじゃないの! わたしじゃなくてセオの方が面倒なんじゃないかなって! ごめん……ごめんね、セオ。そんな風に思わせちゃって」
誤解だと慌てて弁明したが、セオドアスの杞憂を完全には払えなかったようだ。セオドアスは苦艱の表情を崩さなかった。
(違うのに……。本当はそんなことを言いたいんじゃない。どうしてセオを困らせることばかりを言ってしまうんだろう)
募る想いが苦しいせいだろうか。
セオドアスの優しさに甘えて、苦しさを吐露してしまう。そんな自分がもどかしく、情けなかった。
セオドアスに「いってらっしゃい」と声をかけるのは好きだ。待っている間は少々淋しいが、「おかえりなさい」と言ってセオドアスを迎える楽しみがある。リアネイラの住まう屋敷がセオドアスにとっては仕事先の一つでしかなかったとしても、セオドアスはちゃんと自分の元に戻ってきてくれる。それがリアネイラの喜びだった。
そんな他愛の無い、素直な気持ちすらセオドアスに伝えられなかった。幼い頃ならば屈託なくそれを言えただろうに。
恋心ゆえの臆病風が、今もリアネイラの胸中で吹きつけている。
思う事の半分も言葉にならず、用意していた当たり障りのない台詞だけがリアネイラの口から滑りだす。
「今日は一日戻ってこれないんだよね、セオ。……いってらっしゃい。仕事、頑張ってね」
ちゃんとセオドアスの目を見て、笑顔で言えた。
ホッとしたのも束の間、リアネイラは思わぬ出来事に目を大きく見開き、息を詰めることとなった。
「姫」
まるで颯然と起こる風のような所作で足を踏み出したかと思うと、セオドアスは黒のマントを後方に払って、リアネイラの前に跪いた。
突然のことにリアネイラは絶句し、自分の前に跪いている騎士を凝視した。
セオドアスは、驚きのあまり身を硬直させているリアネイラの顔を仰ぎ見た。セオドアスの真摯な瞳がリアネイラの視線を逸らさせなかった。
セオドアスはいつになく強い声音で切り出した。
「姫、右の手をお見せいただけませんか」
「え……っ」
リアネイラは急いで右手を後ろに回して隠そうとしたが、遅かった。リアネイラが右手を引っこめようとするより早く、セオドアスの腕が伸び、その手を掴んで引き寄せた。
「…………」
こうなってはもう逆らえない。リアネイラはしゅんと肩を落とした。
セオドアスは眉をしかめ、リアネイラの手のひらを見つめた。
――予想していたよりも酷い。
深窓の姫の手とも思えぬ荒れようだった。いくつもある血豆がつぶれてしまっている。
五日前から使っている真剣が原因なのは明白だ。木製の剣を使っていた時にも腫瘤はできたが、これほどには酷くなかった。
「あ、あのね、セオ……」
リアネイラは焦った。もう剣を振るうなどおやめ下さいと、止められるのとばかり思ったのだ。それに、手の血豆を隠したのはその恐れもあったからだが、何よりセオドアスに心配をかけたくなかった。
しょんぼりと項垂れたリアネイラに、セオドアスは小さく嘆息しただけで叱りはしなかった。剣の稽古をやめろとも言わなかった。
「姫、そのままで。薬を塗りますから」
セオドアスはそう言って、愛剣とともに腰に下げている革袋から陶器製のケースを取り出した。中身は軟膏である。
「…………」
セオドアスは軟膏を指で掬い、それをリアネイラの腫瘤に塗擦していった。沁みるのか、リアネイラは眉を顰め、口の端をきつく結んで痛みを堪えている。
仕上げに木綿を巻きつけ、改めてリアネイラの顔色を窺った。手元をじっと見つめていたリアネイラはセオドアスの視線に気づき、慌てて礼を言った。
「あり……がと、セオ。ごめんね、かえって心配かけちゃって……」
「痛みませんか?」
「うん、大丈夫。ほんとに大丈夫だから。これくらいは平気」
「…………」
――ウードも弾けないほど痛むのだろうに。
それを言えばリアネイラをさらに追い詰めて気落ちさせてしまうだろうと、セオドアスは口を噤んだ。
「これを渡しておきます。できるだけ小まめに塗るようにしてください。それと、今日明日は剣を振らないように。治してからならまたお相手をさせていただきますから」
「……うん」
セオドアスから軟膏を受け取り、リアネイラはホッと胸を撫でおろした。
「わかった。ちゃんと治すから、その時はまた稽古を見てね、セオ」
セオドアスは頷き、そしてゆっくりと立ち上がった。リアネイラの視線が自然とその動きを追う。
セオドアスは「それでは、私はこれで」と身を翻した。つられるように、リアネイラは立ち上がり、ほとんど無意識のうちにセオドアスのマントを掴んでいた。
「あ、……えっと……」
掴んだものの、すぐに手放した。引き止めるつもりなどなかったのだが、体が勝手に動いてしまった。
「あの、ありがと、セオ。いってらっしゃい。気をつけて、仕事頑張ってね。また明日……かな?」
リアネイラは淋しげに微笑んだ。明るく笑って告げるはずだったのに、うまく笑い顔を作れなかった。
リアネイラの心緒を気遣ってか、セオドアスはふと相好をやわらげて、微笑を浮かべた。とび色の瞳が細められ、優しいまなざしがリアネイラを包んだ。
「ありがとうございます」
「え?」
「もし、手がそれほど痛まないようでしたら、明日はウードを聞かせてください」
「え、……う、うん! 喜んで!」
リアネイラはパッと花がほころぶような朗笑を見せて大きく頷いた。
リアネイラの晴れやかな笑顔にセオドアスは安堵を得、若干後ろ髪を引かれる思いもしたが、陽光の満ちる庭園を後にした。
リアネイラは右手に巻かれた木綿を見やり、ため息をこぼした。
つぶれた血豆に塗られた軟膏が沁みて、ちょっぴり痛い。
だけど、それよりももっと、セオドアスの優しさが沁みいってきて、動悸がするほどに痛かった。
甘い疼きがリアネイラの心中を熱くする。
「……ごめんね、セオ」
小さく呟き、リアネイラは両手を胸に押し当てた。