誓夜
「ね、セオ、こう……両手を出してみて?」
広いベッドの端に所在無げに座ってからリアネイラは何か思いついたらしく、夫になったばかりの青年……かつては自分の護衛役だった騎士セオドアスに声をかけた。
二人の寝室にはテーブルと言わず、飾り棚や暖炉の上、窓辺にも色とりどりの花が置かれている。すべて祝いに贈られた花だ。寝室というよりまるで花園だ。
花園と化している寝室は、リアネイラとセオドアス、二人の寝室だ。寝台は一つしかない。
二人が寝るにしても大きすぎる寝台に、リアネイラは戸惑いがちに座っている。さっきまで寝台や布団の加減などを、そわそわと落ちつかなげな所作で叩いたり触ったりして確かめていたのだが、どうやらそうしていることのむなしさに気が付いたようだ。眠る場所の確認をするよりも、もっと他にするべきことがあると気付いたともいえる。
今しがた湯あみを終えて寝室に戻ってきたセオドアスは、疲れきっているだろうリアネイラを労わる言葉をかけようとしていたのだが、先を越された。
「手?」
セオドアスは不思議そうな顔をしたが、新妻の願いを断るはずもなく、リアネイラの横に腰をおろし、言葉に従った。両の手のひらをリアネイラに向けるような形であげると、そこにリアネイラは自分の手を当てた。
「セオの手、おっきいね」
手の大きさを比べたかったわけでもなかろうが、リアネイラはそうすることで改めてセオドアスの手の大きさを実感した。剣を握るセオドアスの手は大きいだけでなく硬くて、そして温かい。乾いた皮膚の感触がひどくくすぐったかった。
セオドアスはとび色の瞳をやわらげて微笑した。
「リィラの手は小さい……というより、細いな」
「そ、そうかな?」
「それにいつもより熱い」
「……うん……」
湯あみを終えた後ということもあって、リアネイラの体温は高くなっている。いつもは少し冷たいリアネイラの手が、今は熱く、ごく僅かに汗ばんですらいた。
春とはいえ、まだ夜風は冷たい。昼間は開け放たれていた窓は、今はすべて閉ざされている。それでも室温は上がらず、リアネイラは湯冷めしないようにと、夜着の上にもう一枚絹の上着を羽織っていた。しかし、体温が急に上がってきた。セオドアスが湯あみを終えて寝室に戻ってきてからだ。湯冷めどころか、のぼせてしまいそうだ。
今日は予定通りにリアネイラとセオドアスの婚儀式が執り行われた。
リアネイラとしては極力簡素な式で、地味に済ませたかったが、現状はそれを許さなかった。リアネイラは庶子ではあるが国王の愛娘であり、セオドアスは現役の騎士だ。「国王の愛娘」の結婚は国内外……ことに宮廷内においては大きな意味を持つ。独身の王女は政治的に利用価値があるということは、リアネイラ自身も知っていた。たとえ自分に政治に関わる意思は全くなくとも、「王女」である以上はそのような目で見られると分かっていた。だから、「見世物」になることを甘んじて受け入れた。婚儀の式に対する憧れはあったが、それとは若干違うものになったのも、リアネイラは仕方のないこと半ば諦めつつ受け入れた。
婚儀の式は滞りなく終わったが、「何が何だか分からないうちに始まって、終わっちゃった」というのがリアネイラの正直な感想だった。体中が緊張で凝り固まり、へとへとに疲れきってしまった。湯あみをし、多少疲れは落とせたが、神経は休まっていない。それでもセオドアスとこうして二人きりになり、昂っていた神経も治まりつつある。別の緊張感が鼓動を速まらせてはいるが。
「あのね、セオ」
リアネイラは一度視線を落とし、ややあってからまた顎を上げ、真摯な面持ちでセオドアスを見つめた。
「今ここで、改めてセオに誓うね。……式の時は緊張しすぎてて、わたし自身の意思をちゃんと伝えられてなかった気がするから」
「…………」
リアネイラはセオドアスの手に自分の両手を軽くあてがったまま、はにかんだ笑顔を浮かべて言葉を継いだ。
「これからもずっとセオを好きで……愛し続けていくことを、この両の手に伝わる熱にかけて、誓います。共に生きていくことを誓います」
儀礼的な言葉ではなく、拙くはあったがそれはリアネイラの本心からの宣誓だった。
「セオのことが、ずっと好き」
リアネイラのひたむきな想い、それ自体が婚儀の宣誓句となった。
セオドアスは窮していた。いとおしさに胸が痛み、衝動的な行動をとってしまいかねなかった。それを必至の思いで堪えていることを、おそらくリアネイラは気付いていまい。ただひたすらに、恐れ気もなくセオドアスを見つめ続けている。
「リィラ」
セオドアスはリアネイラの華奢な指の間に自分の指をさしいれ、軽く握った。リアネイラは少し驚いたような顔をしたがすぐに握り返し、それからセオドアスの次の句を待つように小首を傾げた。
「俺も誓おう。――リィラを愛し、共に生きていくことを、この両の手、そして己が命と剣にかけて誓おう」
「……」
リアネイラは充足感に満ちた笑みを浮かべた。ちょっとだけ可笑しくもあった。
剣にかけて、というあたりはいかにも騎士らしい。その騎士らしさが、セオドアスらしさでもある気がした。
セオドアスが常にその身に帯び、片時も離さない長剣は、セオドアスの矜持であり、誇りでもある。その剣にかけて誓ってくれたのだ。儀礼的に行われた式では湧いてこなかった感激が、今になってリアネイラの胸中を熱くし、双眸を潤ませた。
「うん……うん、ありがと、セオ。わたし、セオのこと好きでいてよかった。すごく……すごく幸せだよ、セオ」
傍にいてくれて、そして好きになってくれて、ありがとう。
それを告げると、自然と涙が溢れてきた。リアネイラは水の張った瞳を下向けることなく、じっと、セオドアスを見つめ続けた。見つめ続けるその行為もまた、リアネイラには誓いを示すものだった。
美しい琥珀色の瞳が涙に滲むのを見、セオドアスは慌てるでもなく、そっとその眦に口づけた。片方の手はリアネイラの手を握ったままで、もう片方の手はリアネイラの紅潮している頬に添えさせた。それからゆっくりと、赤みを帯びたくせのある金の髪を指に絡めながら、ゆっくりとその手をうなじへと這わせた。指先に力を込め、そうしてリアネイラを抱き寄せた。
「リィラ」
耳朶をくすぐるように囁くと、リアネイラは首をすくませた。「うん」と頷いた声はか細く、セオドアスに身を委ねながらも、やはり緊張しているのだろう、体はわずかに強張っていた。
リアネイラの肩にかかる金の髪はまだ少しだけ濡れていて、薔薇の花のような甘い香りがセオドアスの鼻腔をくすぐった。髪だけではない。リアネイラの熱った体から官能に誘う香気が仄かに立ち上ってきている。セオドアスは一度首を伸ばして嘆息し、荒れ狂いそうになっている激情を落ち着かせた。……落ち着かせようとしたが、僅かに成功しただけにすぎなかった。愛しい娘をこの腕に抱き、冷静なままでいられるはずもない。
それでもセオドアスは焦心を見せず、急いた行動はとらなかった。リアネイラの顎を指先でつまむようにして持ち上げ、優しい接吻をした。
「愛している、リィラ」
行動で示すよりまず言葉で確認をとる。セオドアスはリアネイラを怯えさせないためにも、慎重に手順を踏んでいく。
セオドアスの心緒を、おそらくはリアネイラも気付いているのだろう。気遣われていることが嬉しくもあり、申し訳ないとも思っていた。だが、「ごめんね」と言いそうになるのを堪えきれたのは、謝るのは違うと分かっているからだ。
「……えっと……セオ、わたしも、大好き。これからもずっと傍にいてね?」
琥珀色の双眸がセオドアスを映している。もうずっと長い間、リアネイラの瞳はセオドアスを映し続けてきた。そしてこれからも映し続けるだろう。
「ああ。リィラも俺の傍にいてくれ。これからも、ずっと」
はにかんだ笑顔で応えるリアネイラに、セオドアスはもう一度、今度は深く口づけた。