無
窓の外は、雪景色。
夜闇にひらひらと雪が舞い、樅の木立を白く縁取ってゆく。
梢を揺らす風もなく、雪と夜のしじまだけが国王の愛娘が住む屋敷に降り積もっていった。
寝台に入ったものの、あまりの静けさにかえって気が落ち着かず、リアネイラは幾度目かのため息をこぼした。
普段は寝つきのよいリアネイラだが、ここ数日はなかなか寝つけず、やや睡眠不足気味だった。
布団を頭までかぶり、かたく目をつむって、「寝よう、眠れ、寝なくちゃ」と自分に言い聞かせていたのだが、睡眠の精霊はいつまで待ってもリアネイラの瞼の上に降りてこない。
「……もうっ」
無理に眠ろうとしてもかえって疲れるばかりだ。
リアネイラは勢いづけて身体を起し、そのまま寝台から降りた。
暖炉の残り火のおかげで室温はほどよく暖かいが、布団を出た瞬間にはやはり身が縮こまる。
リアネイラは椅子の背もたれに放ってあった上着を着込むと、窓に背を向け、寝室の扉を開けた。
稲光をともなって轟く雷鳴や木々の枝を揺さぶる強風のうなり声には、驚くことはあっても恐いとは思わない。
それは騒々しくも派手な、自然が奏でる「音楽」なのだと、歌姫と称されていた母は笑っていた。その影響を受けてのことだろう。リアネイラは雷雨の激しさに、怯え震えるようなことはなかった。
しかしおかしなことに、無音に包まれるこんな雪の夜は苦手だった。どうしてか、気が休まらない。
寝室を出たリアネイラは、足音をしのばせ、バルコニーへと向かった。
ガラス戸を開けると、風雪が押し入ってくる。あまりの冷たさに、リアネイラは慌てて戸を閉めた。
「さ、さむ……」
吐いた息は白く、ガラス戸を曇らせる。
リアネイラは曇った部分を手で拭い、そこから外を眺めやった。
雪明りで、外は不思議なほど明るい。
「…………」
なんて、静かなんだろう。物音一つ、しない。
リアネイラはガラスをコツコツと叩く。ガラスに触れた指先から、冷気が身体に流れ込んでくるようだった。
舞い落ちてくる粉雪は、一向にやむ気配を見せない。このまま朝を迎えれば、きっとこの冬初めての積雪となるだろう。
深く重いため息が床に落ちたその時だった。
人の気配を感じ、リアネイラは振り返った。
「セオ……」
とまどいがちに、リアネイラは心配顔の婚約者の名を口にした。
「眠れないのか、リィラ?」
リアネイラの護衛を勤める騎士セオドアスは、リアネイラの頬にそっと手を伸ばした。ほのかに紅潮しているが、すっかり冷えきってしまっている。少しばかり寝乱れた金の髪も、やはり冷たい。
「あんまり静かで……」
リアネイラは苦笑し、応えた。
「雪、降り続けだね。キレイだけど、ちょっと不安て言うか……」
「不安?」
「ん、なんて言ったらいいのかな」
語尾にくしゃみが重なり、その先を続けられなかった。
「リィラ」
セオドアスは羽織っていた黒皮のコートをリアネイラの肩にかけようとしたのだが、遠慮がちな姫は慌ててそれをとめた。
「い、いいよ、大丈夫だよ、セオ。セオが風邪ひいちゃう」
「……ならば」
セオドアスは小さく笑み、コートを羽織りなおした直後、リアネイラの身体を寄せた。
「こうしていれば、二人して風邪をひくことはないだろう?」
「わっ、と、セ、セオッ」
セオドアスの腕とコートに包み込まれ、リアネイラは身を竦ませている。
「リィラは雪の夜が苦手だったな、昔から」
「え?」
少し驚いたようにリアネイラは顔を上げ、セオドアスを見つめ返した。
優しげなとび色の瞳に、胸が鳴り、頬が熱くなる。
どうして知ってるの、と問おうとしたが、十年もの間護衛役として自分を見守り続けてくれていたセオドアスだ。気付いていても、不思議ではない。
セオドアスにしてみれば、本心を明かさぬよう作り笑いを浮かべるリアネイラが、心配でならなかった。悲しみや寂しさを無意識的に隠そうとし、無理に笑って、平気を装う。だが、元来嘘のつけない性質のリアネイラだ。不自然な笑みに、隠そうとした気持ちが透けて見えてしまう。
そうして今もまた、リアネイラはセオドアスに笑顔を向けている。
「あのね、セオ。思ったことない? 雪って、静かに降ってくるでしょう? 音があったらいいのにって」
「音?」
「うん。雨は降ってると、窓の外を見なくてもわかるでしょ? だけど雪は静かに降ってきて、降ってること、見なくちゃわからなくて」
リアネイラは窓の外に目をやる。
「雪の降る夜って、すごく静かでしょ? 全ての音が、消されちゃうみたいに」
「ああ、そうだな」
セオドアスの相槌を受けて、リアネイラは向き直った。
「だから雪にも音があればいいのに。そうすれば寂しいなん…………」
リアネイラは言葉を詰まらせ、慌てて顔をセオドアスから背けた。
自分でも戸惑うほど突然に、涙が溢れ出した。
「リィラ」
「や、ちが……っ、なんでもなくて、そのっ」
リアネイラは泣き顔を隠そうと、ぎゅっと目を閉じ、俯いた。大粒の涙が頬を伝う。
「やだ……もう、なにこれ」
声がかすれ、震える。リアネイラはいきなり泣き出してしまった自分自身に狼狽していた。
「リィラ」
「ご、ごめん、セオ。ほんとになんでもなくてっ」
「…………」
セオドアスはリアネイラを抱きしめる腕に力をこめ、小刻みに震えるリアネイラの身体を支えた。
「俺の前では無理をしなくていいと言ったろう、リィラ」
「……セオ」
「我慢しなくていい、リィラ」
「……っ」
セオドアスの優しいささやき声に、リアネイラは逆らう術を知らない。
リアネイラはセオドアスの腕を掴み、顔をうずめた。
「……リィラ」
どうしたのか。何があったのか。それを問うことはしない。
セオドアスは黙って、声を殺して泣くリアネイラを抱きしめていた。
リアネイラが姉のように慕っていた侍女のフィスリーンが結婚のため職を辞し、屋敷を出てからもう十日が経つ。兄弟同様に過ごしてきた侍従のキィノも、春が来る前に屋敷を出て行くと決まっている。
リアネイラは決して口にしない。
「寂しい」と。
贅沢な思いだと、リアネイラは自身を諌めていた。
寂しいよ、置いていかないで。
そう言って縋ることによって、キィノやフィスリーンを困らせ、セオドアスを落胆させるのが、嫌だった。迷惑をかけたくなかった。
頭ではわかっている。別れといっても、二度と会えなくなるわけではない。会おうと思えばいつだって会いに行ける。よしんば会えなくなる事情になったとしても、心の繋がりまでもが切れてしまうことはないと。
だから笑って見送ることもでき、「また会おうね」と口約を交わせる。
……わかっているのに……辛くて、心が寒くなる。
これからはセオドアスがずっと傍にいてくれる。それだけで幸せなのに、これ以上の幸せを望むだなんて、なんて贅沢になってしまったんだろう。
己の弱さや小ささが、ひどく惨めだった。
そして、セオドアスを気遣わせてしまう自分が、情けなかった。
だけど、いつまでも悲しんだままではいたくない。寂しい気持ちを引き摺ったままでいたら、セオドアスだけでなく、キィノやフィスリーン、そしてハンナや屋敷に仕えている人達皆に、心配をかけてしまう。
寂しいと思ってしまうのは、皆が優しいからだ。
「いつもごめんね」って思いながら、つい頼りきって、甘えてしまう。
こうして今、セオドアスに寄りかかっているように。
深夜、静寂が屋敷を包んでいく。
粉雪が舞い落ちる、その音はない。
だが、リアネイラは優しい音を感じていた。今、すぐ傍にその音はある。
顔を上げ、リアネイラは涙を拭った。
「いきなり泣き出しちゃって、ごめんね、セオ」
そして、笑った。ぎこちなさは否めなかったが、無理をしているというより、照れくささがそうさせていた。
涙とともに、心に鬱積していた寂しさも、少しは流れ出ていったようだ。
「わたし、セオの前だと泣き虫になっちゃうみたい。ほんと、困っちゃうな」
「リィラ」
セオドアスは微笑を返し、リアネイラの手を取った。
「泣きたくなったらいつでも胸を貸す。理由は話さなくてもいいから、せめて俺の前では泣くのを我慢するな」
「セオ……」
ひいた涙が、また溢れそうになる。
リアネイラは赤くなった頬をセオドアスの胸に当てた。
「うん。……うん、ありがと、セオ」
リアネイラは心も身体もセオドアスに預け、目を閉じた。
優しい音が、聴こえる。
自分からも聴こえる、その音。いつもより早まっている自分の音と、重なり合うように響いている。
リアネイラは再び目を開け、セオドアスを見つめた。
琥珀の瞳はまだ少し潤んで、睫に涙の雫が残っている。だがもう哀切な色はない。
「見つけたよ、セオ」
「?」
「うん、……この音」
リアネイラはセオドアスの胸に頬を摺り寄せる。そして、音を聴く。
それはリアネイラが見つけた、「雪の音」だった。静かに降り積んで、リアネイラに安らぎを与えてくれる。温かく優しい、雪。
「あのね、セオ。雪の夜にまた寂しくなったら、この音を聴きにきていい?」
リアネイラの愛らしいわがままは、微苦笑を誘う。
「……勿論だ」
セオドアスは応え、そっと、リアネイラの中指に口づけた。
白い静夜を、もう独りきりで眺めることはない。
安堵の吐息をつき、リアネイラは目を閉じる。
優しく響く雪の音に包まれながら―――。
もともとこちらの「お題」は、口説きバトン?としていただいたものでした。
『雪』 『月』 『花』 『鳥』 『風』 『無』 『光』『水』 『火』 『時』
以上10点のキーワードをもとに気障台詞満載で口説き文句を考えようという「バトン」
せっかくなので、一本の話にまとめてみようと思い立ったものです。