君が笑うなら 【前】
冬間近い、北風の冷たいある日のこと。
昼前には上がった雨の名残が、庭園の花木や煉瓦の敷き詰められた道にかかっていた。
しっとりと重く濡れている外の景色を眺めて、嘆息する。
窓辺に頬杖をついて、物憂げなため息をついているのは、真珠のちりばめられた淡い薔薇色のドレスをまとっている、金の髪の姫。
宮廷へ赴いた後はいつもくたくたになるのだが、今日はとくに疲労度が高いようだ。苦手なドレスを脱ぐのも忘れるくらいに。
頼んだ本人は、頼んだことすら忘れてしまっているようだが、姫様付きの侍女が頼まれたお茶を持って私室へ訪れた。
「姫様、入りますよ?」
部屋の扉を三、四度叩いても返事がない。返事はないが、いることは知っていたから、そっと扉を開け、部屋に入った。
「お茶をお持ちしましたわ。姫様?」
窓辺に座ったまま外を眺めている姫は、振り返りもしない。返事の代わりに口をついてでるのは重い嘆息だ。
「姫様。リアネイラ姫様!」
「え? ああ……、フィスリーンか」
気だるそうに振り返った姫は、黒みがかった茶色の髪を後頭部で一つに束ね、いかにもきちんとした身なりの侍女を見て、またため息をつく。
侍女のフィスリーンは小首を傾げ、主人であるリアネイラを見やる。
琥珀色の瞳を曇らせ、いかにも意気消沈している。昨日まではそんな様子はなかったのだが、今朝方父王に謁見してから、途端に元気がなくなってしまったのだ。
リアネイラは感情をごまかしたり、隠したりするのが、不得手だ。必死になって隠そうとしているのが、分かりすぎるほどに分かってしまう。
そんな姫だからこそ、放っておけないのだけど。
フィスリーンは肩をすくめ、小さく笑った。
侍女としてお屋敷に上がったのは五年前。二つ年少の姫は、フィスリーンを気軽な話し相手と決めたらしく、以後、まるで友達感覚で話しかけてくるようになった。
快活な性格の姫だが、不器用な面もある。それゆえに思い悩むことも多々あった。
悩みの八割方はある特定の人物に向けられていたものだが、それは解消されたはずだ。リアネイラを悩ませていたその人物は「護衛役」兼「婚約者」となったのだから。
憂鬱なため息をこぼす理由はないはずだが――
「リアネイラ姫様、いかがなさいました?」
トレイをテーブルに置くと、フィスリーンは慣れた手つきでお茶を淹れる。用意したお茶はバラの実入りの紅茶だ。甘い想いに浸っていてよさそうな主人のためのものだったが、その主人は甘いバラの芳香とは程遠い、くぐもったため息ばかり吐いている。
「そのように暗い顔をなさっていたら、セオドアス様もご心配なさいますよ?」
そう言われて、リアネイラはさらに肩を落とした。
「何かあったんですか、セオドアス様と? それとも何か不服なことでも?」
フィスリーンが差し出されたお茶を受け取る前に、リアネイラは大きく頭を振った。
「不服なんて、そんな! そんなの全然ない……けど」
「けど? やはり何かおありなんですね?」
「…………」
リアネイラは先日、十年越しの片想いに終止符を打った。きっかけは父王の「ちょっとした悪戯」。
突然言い渡された、護衛役の騎士セオドアスとの婚約――
父王が指定した婚約の相手こそが、リアネイラの長年の片恋相手だった。
喜ぶべき出来事だったはずだが、リアネイラは困窮し、地面にめり込みそうなほど、落ち込んだ。
セオドアスは国王に忠誠を誓った騎士だ。王の命令には逆らえない。
リアネイラとの婚約という君命に、セオドアスは従うほかないのだ。セオドアスの意思は、そこに介在しない。
それがリアネイラを苦しめた。婚約の相手がたとえ長年の想い人だったとしても、そこに「心」がなければ、何の意味もない。
それ以上に、セオドアスを縛りたくなかった。束縛されることの苦しさを知っているからこそ。
だが、
「終わりよければすべてよしですわ、姫様」
事の顛末を聞いて、フィスリーンはそう笑ったものだった。
結局、君命に逆らう必要もなく、セオドアスはリアネイラの正式な婚約者となった。
双方の意が通じる形をもって。
「それで、不服とはいったいなんですの、姫様?」
フィスリーンからカップを受け取ったリアネイラは、考え込むような顔をしている。
「姫様のお悩み事といったら、セオドアス様のことしか思い当たりませんわ。何かあったんですの?」
「…………不服とか、そんなんじゃないんだけど」
また一つ大きくため息をついてから、リアネイラは憂鬱の理由を語りだした。
憂鬱の理由はあまりにもリアネイラらしいもので、フィスリーンは笑いだしてしまった。「笑うなんてヒドイよ」とリアネイラは言うが、どうにも可笑しくてたまらない。
つまり、こういうことだった。
春になれば、リアネイラはセオドアスの許に嫁ぐ。
セオドアスの家は古くからの名家だ。そしてリアネイラ自身もまた、国王陛下の認知された娘、王女という身分にある。
その二人の婚姻ともなれば、形式だった婚姻式は必要不可欠だ。たとえそれをリアネイラが望まなくとも。
婚姻式が嫌だというわけではない。相手が長年の片恋の相手、セオドアスなのだ。両手を挙げて大喜びしてもよさそうなものだが、かしこまった席や、裾の長いドレスが何よりも苦手なリアネイラだ。
「セオのご両親の前でうっかり躓いて転んだりしたらみっともないし、セオにだって恥をかかせちゃうよ」
それが憂鬱の理由だった。
「けれどお披露目は必要でしょう? ご事情はどうであれ、姫様は国王陛下のご息女でいらっしゃるんですから」
「……うん」
力なく、リアネイラは頷く。
わかっているからこそ、憂鬱なのだ。
式など挙げたくないと我儘を言えば、困るのはセオドアスだけではない。父王もさぞ落胆するだろう。自分一人のくだらない我儘のせいでセオドアスや父王、それに婚姻を認め、喜んでくれた人達に迷惑をかけるわけにはいかない。
「ドレスの裾を踏んで転ばれることを心配なさっているのなら、今からでも遅くはありませんわ。毎日ドレスをお召しになって、慣れてしまえばいいんですよ」
フィスリーンはそう提案してみる。もちろん、からかいまじりに、である。
「フィスリーン、他人事だと思って!」
「あら、姫様のドレス姿を毎日見られるようになれば、きっとセオドアス様もお喜びになりますわ」
リアネイラはとがらせている唇をそのままに、複雑そうな顔をフィスリーンに向ける。
「大丈夫です。たとえ転びそうになったとしても、セオドアス様が支えてくださいますわ」
「…………」
リアネイラの頬がほんのりと赤く染まる。素直な反応がフィスリーンの口元をほころばせる。
リアネイラの気分が少し浮上したところで、フィスリーンは緩んだ顔を引き締めた。
大切な主人に、今日こそは、伝えなくてはならないことがあったのだ。
リアネイラの憂鬱を、もしかして増させてしまうかもしれない話だけに、フィスリーンは話を切りだすのに少々戸惑った。
「……姫様、折り入ってお話があるのですけど」
「何、フィスリーン、改まって」
「ええ、あの……ですね……」
フィスリーンは珍しく言いよどんだ。
「実は……、わたし、近々このお屋敷からさがらせていただくことになったんですの」
「えっ、うそ、どうして?」
「申し訳ございません、お伝えするのが遅くなってしまって。……その、急なことなのですけれど、わたしも結婚が決まりまして」
「ええっ」
リアネイラは至極当然に驚いた。
だが、突然の告白に驚きこそすれ、リアネイラはフィスリーンを責めるようなことはしなかった。
フィスリーンが屋敷を出て行ってしまうのは淋しいが、引き止める権限など自分にはないし、何よりめでたい話なのだ。笑って見送らねばと、リアネイラはフィスリーンの手をとった。
「よかったね、フィスリーン、おめでとう。式は挙げるの? いつ?」
「ありがとうございます、姫様」
式は七日後に挙げると伝えると、急なことにリアネイラはさらに驚いた。
「姫様のご結婚の後にと、思っていたんですけれど……」
フィスリーンはため息をついた。
式が早まったのは、結婚相手の側に理由があった。
結婚相手の彼には妹がいるのだが、その妹も結婚が決まったのだという。
「気にしなくたっていいと思うんですけど……彼のご両親は、妹よりも兄の方に、先に式を挙げてもらいたいんだそうです。物事には順序があるからって」
フィスリーンはさらに深くため息をつく。彼との結婚は決めていたことだったが、それはまだ先のことだと思っていたのだ。
「姫様のご結婚の支度をお手伝いするつもりでいましたのに、先を越す形になってしまうのが、なにやら申し訳なくて」
「そんなこと! わたしのことなんて気にしないで、フィスリーン!」
「姫様……」
「おめでとう、フィスリーン。本当に! ね、フィスリーン、わたしに何か手伝えることない? 何かできることがあったら言ってほしいな」
「姫様……」
フィスリーンは目を輝かせて笑う主人の手を、力強く握り返した。
「ありがとうございます、姫様。そう言って頂けただけで、嬉しいですわ」
泣きそうになったのをどうにか堪えて、フィスリーンは笑顔を返した。目頭が熱くなっているのは、堪えようもなかったのだけど。
「お屋敷にいられる日数はわずかになってしまいましたけれど、姫様こそ、何なりと申し付けてくださいね」
「うん、ありがと、フィスリーン」
「もし日替わりでドレスをお召しになるようでしたら、お着替え、手伝いますわ」
「も、もう、フィスリーン、意地悪~」
「ふふ。姫様を思ってのことですわ」
ふくれっ面の姫は、けれどすぐに笑顔を見せる。
リアネイラの屈託のない笑顔を見るのが、フィスリーンは好きだった。
それはきっと、リアネイラを好いている人達の誰もが思うことなのだろう。実際、フィスリーンと同様の思いを抱く者は、リアネイラの知らぬ所で幾人もいたのだ。
そのせいで少々痛い思いをするはめになってしまう人物もいた。だがその人物もまた、リアネイラの笑顔を愛しんでいた。おそらくは、誰よりも。
さっきまで窓の縁に頬杖をついてため息をこぼしていたリアネイラは、今度は眉間に深々と皺を寄せ、気難しい顔をして両腕を組んで唸っていた。
悩み事が、また一つ増えてしまった。
しばらく考え込んでいたリアネイラだったが、こういう時は幼馴染みのキィノにでも話を聞いてもらおう。そう思い立ち、憂鬱な空気が漂っている部屋から出ることにした。
「――わっ」
声を上げたのは、扉を開けたそこに、婚約を交わした相手がいたからだった。相手も、いきなり扉が勢いよく開けられ、驚いていたようだ。ノックをしようとしていた手が、そのままで止まっている。
「セオ?」
「……すまない、驚かせたか?」
リアネイラの護衛役であり、婚約者でもある騎士セオドアスは、琥珀色の瞳を大きく見開いて自分の顔を見つめる姫に、笑いかけた。
笑顔を向けられたリアネイラはというと、セオドアスの顔を見るや否や、胸倉をつかむという王女らしからぬ行動にでた。
「セッ、セオッ! どうしたの、その顔っ?!」
「……ああ、これは」
セオドアスは苦笑した。苦笑したその顔が、今朝見た時とは、違っていたのだ。
右の頬には殴られたらしい痣があり、左の目の上にはさほど深くはなさそうだが切り傷がある。額にも小さな傷や痣があるようだった。
「軍務棟で何かあったの? 他も、怪我してない? 痛くない? 大丈夫?」
リアネイラの心配顔のほうこそ、セオドアスには痛いのだが。
セオドアスはリアネイラの手にそっと触れ、答えた。
「大丈夫だ、これくらいは」
「でも、セオが怪我をして帰ってくることなんて今まで一度もなかったのに! 訓練でついたわけじゃないよね? 今日は……だって、大将軍に話があるからって……」
「ああ……結婚が正式に決まったことを、改めて報告に」
リアネイラは「結婚」の一言に過敏に反応し、顔を赤くした。
セオドアスの口元に、笑みが浮かぶ。それには思い出し笑いも含まれていた。
怪我の理由は、言えない。
言えばリアネイラはまた「ごめん」と謝るだろう。
リアネイラのせいではないが、リアネイラが原因なのだから。